「キリストが借入金を免除するとき」
説教:稲山聖修牧師
『ルカによる福音書』では、時に対立するファリサイ派とイエス・キリストは三度も食卓をともにする。まずは本日の箇所と、第二にはキリストが食卓につく前に身を清めなかったことに端を発する論争が繰り広げられる11章37節以降、そして第三には14章1節以降の物語。それぞれが独自の解き明かしの可能性をもちつつ、宴席が設けられた理由、そしてキリストがその招きを受けたわけを考えずにはおれない。ファリサイ派の招待に関する三つの物語のうち、第一の物語と第三の物語には、その場には社会の片隅に佇むように強いられていた人々が、ファリサイ派という別格の立場にある人々と対比されて描かれる。
本日の物語で登場するファリサイ派の人物には名前がキリストから呼ばれる。今日の箇所に続く40節ではシモンと称される。某かの面識はあるという具合で、何のためにキリストを食卓に招いたのか今一つ測りかねる。しかしキリストとのやりとりを見るに、礼を尽くしてもてなしたとは言い難いところが、もう一人の重要人物である「罪深い女性」と対比されて明らかになる。女性がなぜ「罪深い」と見なされたのかは本日の箇所には直接には記されない。可能性としては「穢れた女性」「賤業に就いていた女性」の場合もありうる。けれども書き手は要らぬ詮索をせず、その女性の振る舞いのみを記す。女性は香油の入った石膏の壺を持ってきて部屋にいるキリストに後ろから近より、その足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、その足に接吻をしながら香油を塗った。当時の宴席では、今日とは異なった姿勢で食事をする。集う人々は横になって左手で頭を支えながら、右手を使って料理に手を伸ばした。足は投げ出されたままだ。そのような姿勢で集う人々が食事を囲む中でキリストの足を涙で濡らし、接吻しながら髪の毛でぬぐい香油を塗る振る舞い。この女性の振る舞いはあまりにも唐突で、シモンはこの女性を認めない。
けれどもキリストはこの女性の振る舞いを通してファリサイ派のシモンを諫める。その際に引き合いに出すのが、有り体に言うならば借金の譬えだ。潔癖なファリサイ派の望む話題ではない。けれどもキリストは決して躊躇しない。この話はシモンだけにではなく、涙しながら香油を塗った女性にも向けられているからだ。
「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。福音書の世界で「金貸し」は賤業であったという。つまりキリストは、自らを賤業に従事する者に重ねてシモンを諫める。返済能力を失い資金繰りに焦げついたときに、借入金を免除された場合、人はどう思うか。宴席にいた人々には縁遠い話かも知れないが、その場で言葉もなく涙する女性の日常にはしみとおる言葉。シモンもまた「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答える。キリストはただ頷くだけでなく、女性を振り向いて「この人を見よ」と語る。キリストの言葉は、物語に登場する女性だけに絞り込まれるだけでなく、普遍的な広がりを伴っている。続く具体的な諫めからは、シモンのキリストへの接し方が分かる。「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足を濡らし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入ってきてから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。そしてキリストは女性に「あなたの罪は赦された」といわれた。ファリサイ派には女性の振る舞いは眉をひそめずにはおれないほど艶やかにすら映ったかもしれないが、イエス・キリストの赦しと癒しとは、人間の身体性や具体的な生活と不可分にはされない。実に目線が低いのだ。
わたしたちも多くの人々から赦され、今を生かされている。イエス・キリストを通して明らかにされた神の愛の力であるところの聖霊のわざを通して、わたしたちは債務を免除されるどころか、人としての過ちや損失を補填さえされている。しがみつく傲慢さから手を離し、神への債務を補填してくださるキリストに自らを委ねよう。