「折り重なるキリストの癒し」
説教:稲山聖修牧師
ユダヤ教のシナゴーグ(会堂)の管理をし、礼拝に責任を負うのが会堂長。会堂長は礼拝全体のコーディネーターでもあり、相応の責任と地位にある。ところで、会堂長ヤイロの娘は死にかけていた。瀕死の具合であった。
この「死にかけている」という言葉は、福音書では人間の限界状況とともに、イエス・キリストとの決定的かつ深い出会いの兆しを示す。けれどもわたしたちには、正直にいえば、このようなところにおかれるのはご免だ。だからこそヤイロはひれ伏し、娘のためにキリストに来て欲しいと願うほかなかった。実はこの話だけで癒しの物語は充分成立するはずなのだ。しかし、今朝の箇所ではヤイロの願いとは異なる、思わぬ事態が起きる。
われ知らず、ヤイロの道中に割り込むようにしてイエス・キリストを求めてきた女性は、12年間出血が止まらない病に苦しめられてきた。いのちを身籠るという、その時代の女性に課せられ、また神の祝福としても受けとめられたわざから、この無名の女性は遠く離れていた。そればかりではない。女性は治療に財産を用いた結果、何もかも失ってしまった。暮しも、愛する人も、そして地位も。ヤイロとは全く異なる暗夜を彷徨うこの女性もまた「死にかけていた」。家族も兄弟も隣人も描かれないこの人は、だからこそイエス・キリストを求めずにはおれなかった。彼女の手がキリストの衣に触れたとき「死にかけていた」女性の歩みが変貌する。出血が直ちに止まる、つまり長患いが治るという出来事が起きる。キリスト自らも「わたしに触れたのは誰か」と問うばかりだ。そしてやがてヤイロの家への歩みを留めてしまう。癒された女性は震えながらも公に自らのライフストーリーを語る。その話の合間にキリストは「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのだ、安心して行きなさい」と祝福する。イエス・キリストが、この女性に「娘よ」と語りかけているところは注目すべきだ。12年間出血に苦しめられてきた女性が、この時代でいうところの「娘」に該当するはずがない。「女よ」という表現が適切なところ。けれども「娘よ」とキリストは語る。この言葉の示すところとは何か。病の中で失った人生の可能性でさえ、無名の女性はキリストから授けられたと考えても過分ではないはずだ。
ただしヤイロにとってこのやりとりは、愛娘のいのちとりとなる時間の浪費。おそらくヤイロは思っただろう。キリストにはこの女性を「見ない振りをして」欲しかったと。先約を入れたのは他でもなくヤイロなのだ。
案の定「お嬢さんは息をひきとった」との報が、自宅からの使者からもたらされる。キリストの「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」との言葉が虚ろに響いたとしても誰も非難しないはずだ。けれどもイエス・キリストは、ヤイロやわたしたちには隠された仕方で、娘の救いの確かさを語る。「ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる」。「信じる者は救われる」という安易な言葉ではない。実は「ただ信じて、そして救われた娘」のモデルとして、あの無名の女性が立っているのだ。
「イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、そして娘の父母(すなわちヤイロとその伴侶)のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにはならなかった」とある。それはなぜか。12年間苦しみぬいた末に病を癒されたあの女性が癒しを公言したのとは異なり、ヤイロの娘の癒しは秘義とされるからだ。癒しのわざの両義性が際立つ。人々の嘲笑の中、イエス・キリストは娘の手を取り「娘よ、起きなさい」と呼びかける。「娘はその霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、食べ物を与えるようにと指図をされた」。あり得ないことが起きた。この展開からは、ヤイロの焦燥や焦り、そして苛立ちの中にも神の愛の力、すなわち聖霊の働きが及んだこと、また娘の癒しの十全さには、キリストの十字架の死と復活が重ねられているようにも映る。