2019年5月5日日曜日

2019年5月5日(日) 説教

ルカによる福音書24章36〜43節
「復活の光につつまれるワンピース」
稲山聖修牧師

復活を想うとき、わたしたちは否応なしに死に向き合わずにはおれない。日本ではこの世と死後の世界との間に川が流れているという表現からも、生死の境にははっきりと一線が画されていることが分かる。他方で聖書の場合には、神が直接見える仕方でこの世に介入するとの理解がある。そのときには逝去された方々は全てよみがえり、ともに神を讃える日が来るという確信がある。さらに聖書独自の使信とは、教えの正邪をめぐる論争に先んじて、わたしたちが、復活の喜びについて、神の愛の力である聖霊の働きのもとで証しを立てる多様な道筋を決して否定しないというところだ。折伏(しゃくふく)のようなやりとりは聖書にはない。むしろキリストの愛の証しを暮しの中で立てる中で、当事者すら気づかないとままに教会の交わりとイエス・キリストとの出会いへと導かれていくという出来事が起きると、福音書の書き手となった人々も、そしてわたしたちも確信している。
復活の出来事の翌日、イエス・キリストがエルサレムにいた弟子の間に姿を現わす。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」。先週の箇所では32節の「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」との弟子の言葉があった。「燃える」という言葉には「炎」がイメージされる。このイメージには聖霊降臨の出来事が先取りされている。聖霊降臨の出来事の物語とは、イエス・キリストに派遣された者として弟子が初代教会の使徒として、そのわざに励む始まりを示す。しかしながら、たとえ「あなたがたに平和があるように」と言われたところで、弟子はただちに復活の出来事を受け入れることはなかった。37節には「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」とある。この箇所でいうところの「霊」とは、肉体とは切り離された霊魂だと受けとめても差し支えはない。肉体は腐敗し滅びるけれども霊魂は不滅だという考え方のほうが、復活という聖書のメッセージよりもわたしたちには耳障りがよい。しかし身体を肉体と霊魂とに分離する理解は、別段キリスト教の世界に限らず、諸宗教や種々の神話に見られる。とはいえ身体を肉体と霊魂とにセパレーツにして理解する場合、この考え方には少なからず危さが潜んでいる。例えば肉体はこの世の暮しと結びついている。身体性を否定的に捉える考え方にあって、そのセパレーツな理解はこの世を否定的に眺めるということにも繋がる。自分の身体性だけにではなく、社会へとその否定が向けば、肉体という牢獄から不滅の魂を解放するという理由でのテロリズムの温床にもなりかねない。オウム真理教が求心力を持ち得た理由には、実社会で覚える不条理から自由になりたいという願望が、バブルの爛熟期からその崩壊期にかけて顕著になったこととは切り離せない。福音書の記された時代でも「グノーシス」という集まりが教会にそのような考え方を持ち込んでいた。これを考えると弟子の仰天と恐怖により深く立ち入ることができよう。そのような弟子に、イエス・キリストは語りかける。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」。
いのちの理解をめぐって復活のキリストとの出会いは、弟子に混乱と疑いをもたらす。しかしその上で、キリストは、わたしに触れてみなさいと語りかける。霊魂不滅の思想に依拠するならば復活を受け入れるのは難しい。イエス・キリストは霊肉ともにワンピースで復活された。だからこそ、イエス・キリストはわたしたちの心の内にも、身体にあっても、暮しにあっても、社会にあっても、そして暮しにあっても、わたしたちに深く関わってくださる。そしてむしゃむしゃとおもむろに切り身の焼き魚を食べるその姿には、イエス・キリストの復活が決して絵空事ではなく、死に対するいのちの勝利であるという本質的な事柄を生々しく、しかも鮮やかに描こうとしている書き手の信仰がある。復活したキリストは身体の養いを必要とする。それはわたしたちの暮しや社会、世代に引き継がれていく歴史の新たな始まりでもある。いのちは決して霊魂と身体とに引き裂くことはできない。復活の出来事は、わたしたちの身体全体をいのちの力で癒し、世を活きる希望を備え、新しい交わりを築いていく原動力につながるのであり、それは神の愛の支配を待ち望むという救いの歴史と不可分でもあるのだ。