「たがいに愛し合いなさい」
稲山聖修牧師
聖書は人が書いた書物だ。そうでなければ聖書に聴き、味わうこともできない。但しその解き明かしをめぐっては、聖書全体に響く神の言葉に耳を傾けて、イエス・キリストの足跡に則して味わうことなしには、その理解に歪みが生じるだけでなく、危険な剽窃も生まれかねない。
典型的な箇所といえば今朝の箇所の直前にあたる13節。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。合衆国大統領が開戦のテレビ演説をすれば、そのまとめにはこの聖句が用いられて将兵や国民の士気を大いに鼓舞する。しかし『ヨハネによる福音書』本文は、あくまで15章にあるところの「わたし(イエス)はまことのぶどうの木」という、キリストとの繋がりの中でのありかたを訴えているのであり、それ以外の剽窃はあってはならない。その点でこの箇所は実に厳格な排他性を帯びている。
もちろんキリストから「友」と呼ばれるからには、キリストに従う態度が要請される。例えば15章18節。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属してはいない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」。「わたしがあなたがたを選び出した」。これは一体どういうことか。
思うにイエス・キリストに根を降ろすありかたを選ぶとするならば、ときとしてわたしたちは単に労苦を重ねるというだけではなくて、いわゆる「世間」では、時にアウトサイダーの道を選ばずにはおれないことを示しているのかもしれない。21世紀を迎えて以来、世の倣いとなってきたのは「自己責任」というありかた。ダーイッシュの人質となり2015年に殺害された、日本キリスト教団田園調布教会会員の後藤健二さんの名前を、わたしたちは覚えているだろうか。自己責任という言葉は、今や教育・医療・福祉・社会保障の分野でことごとく適用され、結局は公共機関の無責任さを支えている。これがわたしたちの暮らす世間一般のありかただ。けれどもわたしたちはそんなありかたの中では実に居心地の悪さを感じる。なぜならば、わたしたちはイエス・キリストに根を降ろすことによって、社会の既定路線では進まない人生そのものに「別の可能性」を看て取っているからだ。どれほど叩かれても、変わらない問題意識を抱いていれば、それはやがて実社会で責任を伴う奉仕をも含む職務として結晶する。また、人知れない苦しみを抱えていたとしても、同じような生きづらさを抱えているいのちに共鳴する力が備えられる。そこには人心を蝕む「自己責任」ではなくて、神が備えた「連帯責任」があり、神自らが担ってくださる「共同責任」というありかたが芽ばえる。
「たがいに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。砕けた物言いをすれば「たがいを赦し、受け入れなさい。そして大切にしなさい。これがわたしの命じるところである」。その根拠は、乾燥した土にぶどうが根を深く降ろし、蔓を伸ばし、実りひと房ひと房が、日射しの強い日も風の吹く日も決してちぎれていかないように、キリストに深く根を降ろすところにある。肩書き・業績・立場、あるいは年齢・性別・身体の特性といったものも一切問わない交わりこそ、キリストを頭とする本来の教会の姿。更に言えば、教会は組織体として完結してはいない。神の愛による支配をさきどる交わりであり、決して自己完結しない。だからもし宣教というわざを考えるのであれば、それは同時に、世が求める人のありかたに対して、イエス・キリストに由来する問いを繰り返し発する交わりでもある。「あなたがたは自己責任の名のもとに、人を決めつけたり、自分を虐めたりしてはいませんか」。自己責任という言葉では決してカバーしきれない、神の大きな御手の中に、わたしたちは霊肉ともに置かれている。他者を慈しみ、その居場所を確保するために、それぞれの賜物を用いて一身を投げ打つことができるかどうか。それは復活の光のなかにわが身を投げ込んでいくことでもある。これこそが世のありかたとは異なる、わたしたちの人生行路の指針だ。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ竜田川」。水の中でペトロを受けとめたキリストに身を委ね、各々の暮しの中で、神の愛のチャレンジャーとして歩むべく、新しい一週間を始めたい。