「ローマ軍をゆさぶる神の平和」
稲山聖修牧師
遣いに出されたユダヤ人の長老ですら次のように執り成す。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」。福音書の書き手は、人の属する組織や家柄を重視しない。むしろ一期一会の出会いを重んじる。この出会いは再現不可能な尊さを秘めている。イエス・キリストは長老の願いを聞き入れて百人隊長のもとへと急ぐが、隊長は友人にメッセージを託す。理由は何か。「主よ、ご足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですからわたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました」。百人隊長はキリストを前にしての自分の立場というものをわきまえている。百人隊長はキリストを前にして、剣を振るう者としての負い目すら抱えている。彼は続ける。「ひと言仰ってください。そして、わたしの僕を癒してください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、その通りにします」。この箇所で描かれる百人隊長は、職務で服従する上官以上の権威を、イエス・キリストに見定めている。たとえローマ皇帝であろうと、病気で死にかけている部下を救うことはできない。イエス・キリストにはそれがおできになる。この絶大な信頼を、キリストの絶対的な恵みに寄せていることに、キリストは「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことはない」と感心する。その結果、誰からもさじを投げられていた一兵卒は癒されていた。
実のところ、新約聖書の四福音書、そして『使徒言行録』の物語の要所要所には、度々百人隊長が軍務とは別の立場でイエス・キリストの足跡に関わる。もっとも初期に記された『マルコによる福音書』では、イエス・キリストの処刑の際に、おそらくは現場監督として立ち会った百人隊長が、弟子たちに先んじて「本当に、この人は神の子だった」とつぶやく。これは信仰告白としても受けとめられるだろう。また、弟子たちのその後の歩みと教会の歴史をたどった『使徒言行録』10章では、初代教会の働きが発展していくその節目に、コルネリウスという百人隊長が描かれる。彼は「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と記されるだけでなく、天の御使いから使徒ペトロの訪れを聞く。最前線で矢面に常に立つ百人隊長は、部下のいのちを預かるだけでなく、無駄な血を流すことは避けたいとの思いも強かったはずだ。イエス・キリストも学ばれた旧約聖書の『申命記』17章には次のように記される。「王は馬を増やしてはならない」。馬という家畜は軍事目的のために用いられる。したがってこの誡めは軍拡政策への警鐘としても理解できる。
『ルカによる福音書』と『使徒言行録』はローマ帝国の高級官僚に献呈されてもいる。その中で、前線に立つ将兵を、番号ではなく、補充の効く駒としてでもなく、かけがえのない出会いの中で、そして名前とともに書き記していこうとする。これは前例のない取り組みに違いなかったはずだ。そしていつの間にかこの物語は、ローマ帝国による迫害が徐々に強まっていくはずの状況の中で、非暴力による抵抗という性格さえも帯びてくる。イエス・キリストに示された神の愛は、やがてはローマ帝国の軍事力さえ揺り動かし、圧倒していく。これこそ福音書に記された力強い宣言だ。それは最前線の将兵を、番号や補充可能な駒という鎖から解放し、重い鎧兜からも解き放つ。わたしたちも兜を脱いでイエス・キリストの前に立ちたいと切に願う。主なる神はこのようにして、わたしたちの暮らすこの世に介入してこられるのである。わたしたちは神の平和に立ち、世の動きに関わりたい。