2019年4月21日日曜日

2019年4月21日(日) 説教

「キリストの復活に出会った女性たち」
ルカによる福音書24章1~11節
説教:稲山聖修牧師

殴打され、鞭打たれて槍で刺されたイエス・キリストの骸。見るに堪えない様であったことだろう。一人ひとりと弟子が去って行った一方、最後まで離れずにつき従っていったのは女性たちだ。さまざまな伝承に包まれているマグダラのマリア、領主ヘロデの召使い頭の伴侶であるヨハナ、イエス・キリストの兄弟であるとされるヤコブの名を用いて記される母マリア、そして一緒にいた婦人たち。復活の場面には男性は一人も描かれない一方で、女性たちが十字架における生涯の最期に留まらず、傷みの激しい亡骸を整えにまで墓にまで訪れるという筋立てだ。ユダヤ教の世界で亡骸への接触は穢れを意味する。つまりそのような当時の社会通念をものともせずに墓を訪れたのは女性たちであった。集う女性にはそれぞれが属する家族もある。ヨハナの場合、事が露見すれば家を追い出され、離縁されかねないというリスクを背負う。ヤコブの母マリアは、息子に先立たれるという逆縁の嘆きと悲しみを抱えている。

『ルカによる福音書』の場合、最も初期に記された『マルコによる福音書』とは異なって「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」という戸惑いはない。女性の動揺を書き手は問題にはしない。筆先は「見ると、石が墓のわきに転がしており、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていた」に留まる。「そのため途方に暮れていた」。おそらくは空になった墓の中で、人々はおそらく崩れ落ち涙も涸れ果て、悲しむ力すら失い、ただ佇むほかなかったろう。その中である言葉が墓穴に響き渡る。「輝く衣を着た二人の人」と記される人。二人は天の使いであるとははっきりとは記されない。山の上でイエス・キリストの姿が変わったときに語らっていた、モーセとエリヤでもなさそうだ。けれども次の言葉が響く。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した、そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた、とある。つまり、イエス・キリストが不当に身柄を拘束されて裁判を受け、この世の権力者にたらい回しにされた挙げ句に殺害される以前、弟子たちに三度予告した事柄は、もはやすでに実現したのだと声は告げる。この言葉を前にして弟子たちはうろたえ、おののくばかりであった。そのような受けとめ方しかされなかった受難の予告が、今や入り口を封じていた石が転がされ、何もなくなってしまった墓の中で、喜びとともに知らされる。

 残念なことに「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」。「弟子たち」ではなく「使徒たち」と記される。これは後に初代教会の責任を担っていた弟子ばかりではなく、教会そのものの中にも、イエス・キリストの復活を受容れようとはしなかった群れがあったことを暗示しているのかもしれない。しかしこの理解に留まるならば、救い主の業も行いも生きざまも、あるいは聖書の文書は全て人間の醜悪さを書き記した書物であるか、または道徳の教科書に留まるほかはないだろう。そのようなところからは、いのちが滅びに勝利するという喜びが湧くこともなく、キリストに従う道は整えられもしない。けれども最後までイエス・キリストのもとを離れず、堪え忍んだ女性たちは、弟子たちの遙か先を行き、イエス・キリストの復活を喜び、立ちあがり、一部始終を知らせた。教会のあゆみを記した『使徒言行録』では表だっては描かれないところの女性たち。この人々が教会のわざの要を担っていたかは、使徒パウロの『ローマの信徒への手紙』の最後、16章で多くの名前が列挙され、感謝されていたところに明らかである。今この日本で、女性は果たしてどのような立場に置かれているのだろうか。だからこそ、主の復活の出来事を心から喜び、新たな歩みの力としたい。嘆きと悲しみと不条理に包まれたこの世界を、必ず神の愛が包み込むという壮大な出来事。この出来事をキリストの復活の出来事は指し示す。世にある教会は、不正な権力がもたらす暴力や死に対して、無垢ないのちが勝利する喜びを宣べ伝える。ハレルヤ!主は復活された。新たないのちの光がわたしたちの道を照らすのである。