2019年4月28日日曜日

2019年4月28日(日) 説教

ルカによる福音書24章28〜35節
「熱く心が燃えるとき」
説教:稲山聖修牧師

ユダヤ教ではメシアが十字架刑で殺害されるということなどあってはならない。だからキリストの十字架での死は、深い絶望を弟子に抱かせた。美しく描かれる「夕暮れのエマオへの道」。それは「落日のエマオへの道」であり「斜陽の道」。二人の弟子には苦しい道程だった。14節には「この一切の出来事について話し合っていた」とある。
その内容は24章19節以降に記される。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」。エマオへの道の途上での理解では、イエスはあくまでも「預言者」でしかない。そして祭司長や議員たちに対しては「わたしたちの」とあるとおり、二人の弟子は、すでに保身を考慮に入れているかのようだ。「わたしたちはあの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていた」という言葉からは、非ユダヤ人である「異邦人」は眼中にない。どこにもイエスが救い主であるとの理解はなく、復活信仰などどこへやらというありさまであり、それは証言に奔走する女性の群れとは正反対のありかたである。だから17節で、復活のキリストに「その話は何のことだ」と問われても二人は「暗い顔をして立ち止まる」ほかには何もできない。
「イエス・キリストは主である」。これは実にシンプルな信仰告白であるとともに、他人に理解を求めるのが実に困難な言葉でもある。しかしながら、イエス・キリストと同時代に生きた弟子でさえこのありさまであったのだ。むしろ復活のイエス・キリストは、時折、問いかけを挟みながら「暗い顔」をした弟子とともに歩んでいる。この関わりがあるからこそ次の言葉が突き刺さる。「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された、とある。イエス・キリストは「暗い顔をした」「物わかりの悪い」弟子を決して諦めたり、見捨てはしなかった。たとえ弟子にその姿が分からなくてもイエス・キリストは二人を捉えて放さない。
28節から描かれるイエス・キリストも実に寬容に振る舞う。弟子の無理強いを拒まずに夕食をともにするのだ。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」。心に深く刻まれた、食卓を囲むイエス・キリストの姿が眼前で新たに繰り返されたとき、ようやく弟子の目は開けた。イエスだと分かるその瞬間、その姿は見えなくなる。暗い顔をしていたときには、イエスの姿は分からなかった。そしてパンを渡されその人だと気づいた途端、イエスの姿は見えなくなった。それでは何が変わったというのか。それは鬱々とするほかになすすべのなかった二人の弟子が「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と励まし合う、これぞまさに決定的な転換だ。
「イエス・キリストは主である」との告白にいたるまで、わたしたちは挫折と無縁ではあり得ない。生活が逼迫していればなおさらだ。今や少なからざる若者が暮しの困窮と多くの不条理に晒されている。イメージばかりの若さに憧れる、夢見る世代の人々の世界とは全く異なる場所に、ぽつねんと佇むほかない人があふれている。
わたしたちはその人たちの問いかけに沈黙するばかりかもしれない。けれども「やり取りしているその話は何ですか」と声をかけることはできる。その歩みをともにしようと祈ることができる。神には不可能なことはないから、ともに歩むことも不可能ではない。たどり着く先がキリストを中心にした交わりならば、それに勝る喜びはない。「イエス・キリストは主である」。これは押しつけられた言葉ではない。死を貫いていのちを喜ぶ声だ。

2019年4月21日日曜日

2019年4月21日(日) 説教

「キリストの復活に出会った女性たち」
ルカによる福音書24章1~11節
説教:稲山聖修牧師

殴打され、鞭打たれて槍で刺されたイエス・キリストの骸。見るに堪えない様であったことだろう。一人ひとりと弟子が去って行った一方、最後まで離れずにつき従っていったのは女性たちだ。さまざまな伝承に包まれているマグダラのマリア、領主ヘロデの召使い頭の伴侶であるヨハナ、イエス・キリストの兄弟であるとされるヤコブの名を用いて記される母マリア、そして一緒にいた婦人たち。復活の場面には男性は一人も描かれない一方で、女性たちが十字架における生涯の最期に留まらず、傷みの激しい亡骸を整えにまで墓にまで訪れるという筋立てだ。ユダヤ教の世界で亡骸への接触は穢れを意味する。つまりそのような当時の社会通念をものともせずに墓を訪れたのは女性たちであった。集う女性にはそれぞれが属する家族もある。ヨハナの場合、事が露見すれば家を追い出され、離縁されかねないというリスクを背負う。ヤコブの母マリアは、息子に先立たれるという逆縁の嘆きと悲しみを抱えている。

『ルカによる福音書』の場合、最も初期に記された『マルコによる福音書』とは異なって「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」という戸惑いはない。女性の動揺を書き手は問題にはしない。筆先は「見ると、石が墓のわきに転がしており、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていた」に留まる。「そのため途方に暮れていた」。おそらくは空になった墓の中で、人々はおそらく崩れ落ち涙も涸れ果て、悲しむ力すら失い、ただ佇むほかなかったろう。その中である言葉が墓穴に響き渡る。「輝く衣を着た二人の人」と記される人。二人は天の使いであるとははっきりとは記されない。山の上でイエス・キリストの姿が変わったときに語らっていた、モーセとエリヤでもなさそうだ。けれども次の言葉が響く。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した、そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた、とある。つまり、イエス・キリストが不当に身柄を拘束されて裁判を受け、この世の権力者にたらい回しにされた挙げ句に殺害される以前、弟子たちに三度予告した事柄は、もはやすでに実現したのだと声は告げる。この言葉を前にして弟子たちはうろたえ、おののくばかりであった。そのような受けとめ方しかされなかった受難の予告が、今や入り口を封じていた石が転がされ、何もなくなってしまった墓の中で、喜びとともに知らされる。

 残念なことに「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」。「弟子たち」ではなく「使徒たち」と記される。これは後に初代教会の責任を担っていた弟子ばかりではなく、教会そのものの中にも、イエス・キリストの復活を受容れようとはしなかった群れがあったことを暗示しているのかもしれない。しかしこの理解に留まるならば、救い主の業も行いも生きざまも、あるいは聖書の文書は全て人間の醜悪さを書き記した書物であるか、または道徳の教科書に留まるほかはないだろう。そのようなところからは、いのちが滅びに勝利するという喜びが湧くこともなく、キリストに従う道は整えられもしない。けれども最後までイエス・キリストのもとを離れず、堪え忍んだ女性たちは、弟子たちの遙か先を行き、イエス・キリストの復活を喜び、立ちあがり、一部始終を知らせた。教会のあゆみを記した『使徒言行録』では表だっては描かれないところの女性たち。この人々が教会のわざの要を担っていたかは、使徒パウロの『ローマの信徒への手紙』の最後、16章で多くの名前が列挙され、感謝されていたところに明らかである。今この日本で、女性は果たしてどのような立場に置かれているのだろうか。だからこそ、主の復活の出来事を心から喜び、新たな歩みの力としたい。嘆きと悲しみと不条理に包まれたこの世界を、必ず神の愛が包み込むという壮大な出来事。この出来事をキリストの復活の出来事は指し示す。世にある教会は、不正な権力がもたらす暴力や死に対して、無垢ないのちが勝利する喜びを宣べ伝える。ハレルヤ!主は復活された。新たないのちの光がわたしたちの道を照らすのである。



2019年4月14日日曜日

2019年4月14日(日)説教

「キリストに会いたがったヘロデ」
ルカによる福音書23章6~23節
説教:稲山聖修牧師

棕櫚の主日礼拝は受難週の始まり。キリストの受難の道にあって明らかになったのは、イエス・キリストと「たまたまそこに居合わせた」どころか、キリスト自らの招きを通して弟子の列に連なった人々が、その道行きの中で一人、またひとりと姿を消していった事実だ。イエス・キリストとの関わり、そしてイエス・キリストが指し示す隣人との関わりの中での当事者たること。これは逃れようとするほど「あなたはどこにいるのか」と追いかけてくる問いとなる。
では弟子とは異なるところでイエス・キリストとたまたま出くわすこととなった人々は、どのような振る舞いに及んだのか。まずはローマ帝国の総督ポンテオ・ピラト。イエス・キリストの身柄を拘束した祭司長は、エルサレムの最高法院を用いて何としてでも有罪判決を出そうとする。しかしその追求が過酷さを極めるほど、この裁判の支離滅裂さが露わになる。キリストの裁判は夜に行われたが、この時間帯は本来裁判を行う時間ではない。詮議の内容も証言がまちまちで、誰もキリストを罪ある者として裁けなかった。このゆえにキリストの命を奪おうとする者は、次はローマ帝国の代表でもあるピラトのもとに、あたかもたらい回しをするかのようにキリストを送る。ピラトは祭司長、そして煽られた群衆に「わたしはこの男に何の罪も見出せない」と言うほかない。煽られた群衆は「この男は、ガリラヤから初めてこの都にいたるまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動している」と根も葉もないことを言うほかには何も出来ない。そこでピラトはイエスがガリラヤ出身であることを確かめ、その地方を治めていた領主ヘロデに、これまた、たらい回しをするかのようにキリストを送る。
それではガリラヤの領主ヘロデの振る舞いとは。領主ヘロデは、クリスマス物語に登場するヘロデ大王の息子であると言われる。ピラトとは異なり、領主ヘロデはイエスを見ると「非常に喜んだ」とある。その理由は二つ。第一には「イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていた」こと、第二には「何かしるしを見たいと望んでいた」ということ。この箇所に、領主ヘロデの「救い主への歪んだ関心」を窺い知ることができる。例えばヘロデの家で使用人の監督にあたっていた人物の伴侶ヨハナは、自分の財産を持ちだしてまでイエス・キリストと弟子たちに奉仕していたとの記事が『ルカによる福音書』にはある。またヘロデ自身もイエスとその弟子たちの働きについて聞き「ヨハネならわたしが首を刎ねた。一体、何者だろう、耳に入ってくるこんなうわさの主は」と言いながら、イエスに会ってみたいと思った、と記される。ヘロデは、自分の思いつきとは別の動機でイエス・キリストに会いたいと考えていたようだ。なぜならキリストの噂は、すでにヘロデの家中にも、また家族にも響き渡っていたと思われるからだ。語る者のいのちを奪ったところで、決して消すことのできない神の言葉の力を、ヘロデは感じ取っていたことではあろう。しかし領主ヘロデは、イエス・キリストに全てを献げて従うには、あまりにもこの世の力という鎖に支配され、身動きがとれなくなっていた。イエス・キリストはヘロデからの問いかけに一切応じない。むしろ響き渡るのは殺害を目論む祭司長や律法学者のイエスへの訴えだ。ヘロデにはこの世の権力に身を阿ねた人々の言葉が心地よく、反対に沈黙するイエス・キリストの眼差しに堪えられない。「ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した」。ヘロデの目からすれば、イエス・キリストとの出会いは期待外れに終わった。むしろ口を開かず、なすがままの無力な者として立ち尽くす救い主がそこに立っていたのであり、洗礼者ヨハネのように諫めの言葉を激烈に語るという姿はなかった。しかしイエス・キリストをたらい回しにした人々は気づいていなかった。このたらい回しによって、福音書に描かれたところの、キリストの殺害を目論む者全てが、イエス・キリストの救いの出来事の逃れようのない当事者となったことに、である。キリストの十字架と復活の出来事を前にして、わたしたちはこの出来事の当事者とならずにはおれない。この当事者である事実からは逃れられないと胸に刻み、その喜びの中で、主の復活を待ち望みたいと願う。


2019年4月7日日曜日

2019年4月7日(日) 説教

「畏れなくてはならないもの」
ルカによる福音書20章13~15節
説教:稲山聖修牧師
 ぶどう園の創立者が長旅に出るにあたり農地を農夫たちに貸していた最中に起きた出来事。ぶどうが収穫を迎えたので、その収穫を納めさせるためにぶどう園の主人は自分の僕を農夫のもとに送ったのだが、こともあろうに農夫は主人からのメッセージを伝えに来た僕に耳を貸さず袋だたきにする。ぶどう園の実りを、農夫たちは独占して山分けにしたことが暗示される。主人は別の僕をぶどう園に派遣する。しかしこれまた袋だたきにされて追い出される。そして三度目。三人目の僕も傷を負わされて放り出される。明らかになったのは、農夫たちが「ならず者」と化して、ぶどう園を占拠・実効支配しているという目を覆わんばかりの世界だ。ただし、この農夫でさえ、ぶどう園の創立者から雇用され、長旅に出る際には農園を借り受けていた。これは相応の信頼を得ていたこととなる。ぶどう園の主人は愚かなまでに、僕がどのような酷い目に遭ったとしても農夫への信頼をやめない。それどころか「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子なら多分敬ってくれるだろう」と、跡取りでもある一人息子をぶどう園へと送ろうとする。愚かさを通り越して、ぶどう園の主人には、わたしたちの世の尺度からすれば狂気すら感じる。
 実はわたしたちは、物語のつくりとしてはよく似た物語を知っている。それは旧約聖書の『創世記』2章に記される、エデンの園の中での神とアダム、すなわち神と最初の人間の物語だ。2章15節では「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とある。エデンの園は人が土を耕す労働の場でもあった。しかし、当初人にはその働きは何ら苦痛を伴わなかった。そして主なる神が命じるには「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。実はこの話は謎に満ちている。
人、すなわちアダムは、どの樹が善悪の知識の木であるかどうかを知らない。食べると死んでしまうとあるが、命令を受けたときには、人はそもそも死とは何かが分かってはいない。食べてはいけない善悪の木が、エデンの園にはあるのだと、主なる神は宣言する。この宣言がなければ人は善悪の知識の木を食べずに済んだだろう。けれども神は、ここまで愚かな姿をさらしてまで、人に真実であろうとする。真実の愛とは愚かなものではないか。
「『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子なら多分敬ってくれるだろう』。農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』」。背筋が寒くなる謀議だ。一人息子はぶどう園の外にほうり出され、殺害された。「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人に与えるにちがいない」。キリストのこの話に、その場にいた民衆は「そんなことはあってはなりません」と答えた。
エルサレムの城壁の内側にも神の正義に応えようとする民衆の姿があった。「そういうことはよくあることですよ」と応えてしまうような人の姿を福音書の書き手は描こうとはしない。あくまでも「そんなことはあってはなりません」との声が響く。ぶどう園の外にほうり出されて命を奪われていく一人息子の姿を思い浮かべては悲しみ憤る無名の人々の姿が描かれる。「イエスは彼らを見つめて言われた」。人の子イエス・キリストはこのような人々と深い関わりの中に立ち『家を建てる者の棄てた石、これが隅の親石となった』という言葉の意味を問う。狂暴な農夫にほうり出された殺害されたぶどう園の一人息子の姿と、ローマ帝国の庇護のもと誇らしくエルサレムの神殿を建てた者の力から棄てられ、苦しみを受けて十字架に架けられるキリストの姿が重なる。しかし神の愛はそのような力には決して屈しない。死にうち勝つ復活の光の中で、隅の親石、日本家屋では大黒柱を立てる土台、それなくしては人も教会もさまざまな働きを担うわざも事業体も立ちゆかない土台になるのである。イエス・キリストは自らがその石だと宣言される。イエス・キリストをなきものにしようと企む人々は、誰を畏れるべきかを知る民衆に怯むほかなかった。耳を傾けるべき声を聞き分ける祈りを大切にしたい。