「熱く心が燃えるとき」
説教:稲山聖修牧師
ユダヤ教ではメシアが十字架刑で殺害されるということなどあってはならない。だからキリストの十字架での死は、深い絶望を弟子に抱かせた。美しく描かれる「夕暮れのエマオへの道」。それは「落日のエマオへの道」であり「斜陽の道」。二人の弟子には苦しい道程だった。14節には「この一切の出来事について話し合っていた」とある。
その内容は24章19節以降に記される。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」。エマオへの道の途上での理解では、イエスはあくまでも「預言者」でしかない。そして祭司長や議員たちに対しては「わたしたちの」とあるとおり、二人の弟子は、すでに保身を考慮に入れているかのようだ。「わたしたちはあの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていた」という言葉からは、非ユダヤ人である「異邦人」は眼中にない。どこにもイエスが救い主であるとの理解はなく、復活信仰などどこへやらというありさまであり、それは証言に奔走する女性の群れとは正反対のありかたである。だから17節で、復活のキリストに「その話は何のことだ」と問われても二人は「暗い顔をして立ち止まる」ほかには何もできない。
「イエス・キリストは主である」。これは実にシンプルな信仰告白であるとともに、他人に理解を求めるのが実に困難な言葉でもある。しかしながら、イエス・キリストと同時代に生きた弟子でさえこのありさまであったのだ。むしろ復活のイエス・キリストは、時折、問いかけを挟みながら「暗い顔」をした弟子とともに歩んでいる。この関わりがあるからこそ次の言葉が突き刺さる。「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された、とある。イエス・キリストは「暗い顔をした」「物わかりの悪い」弟子を決して諦めたり、見捨てはしなかった。たとえ弟子にその姿が分からなくてもイエス・キリストは二人を捉えて放さない。
28節から描かれるイエス・キリストも実に寬容に振る舞う。弟子の無理強いを拒まずに夕食をともにするのだ。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」。心に深く刻まれた、食卓を囲むイエス・キリストの姿が眼前で新たに繰り返されたとき、ようやく弟子の目は開けた。イエスだと分かるその瞬間、その姿は見えなくなる。暗い顔をしていたときには、イエスの姿は分からなかった。そしてパンを渡されその人だと気づいた途端、イエスの姿は見えなくなった。それでは何が変わったというのか。それは鬱々とするほかになすすべのなかった二人の弟子が「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と励まし合う、これぞまさに決定的な転換だ。
「イエス・キリストは主である」との告白にいたるまで、わたしたちは挫折と無縁ではあり得ない。生活が逼迫していればなおさらだ。今や少なからざる若者が暮しの困窮と多くの不条理に晒されている。イメージばかりの若さに憧れる、夢見る世代の人々の世界とは全く異なる場所に、ぽつねんと佇むほかない人があふれている。
わたしたちはその人たちの問いかけに沈黙するばかりかもしれない。けれども「やり取りしているその話は何ですか」と声をかけることはできる。その歩みをともにしようと祈ることができる。神には不可能なことはないから、ともに歩むことも不可能ではない。たどり着く先がキリストを中心にした交わりならば、それに勝る喜びはない。「イエス・キリストは主である」。これは押しつけられた言葉ではない。死を貫いていのちを喜ぶ声だ。