2018年5月27日
泉北ニュータウン教会礼拝
説教「キリストに従う道は誘惑を退ける」
『ローマの信徒への手紙』 8章31~36節
『ルカによる福音書』 4章 1~13節
稲山聖修牧師
主イエスは40日間空腹の中で悪魔から誘惑を受けた。まず救い主イエスに向けられたことばとは「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。もし初めから悪魔がその姿を誰にも分かるように現しているならば、誘惑は成り立たない。誘惑には魅力がつきものだ。限界状況の主イエスには、悪魔そのものよりも「パン」ということばに誘惑の種を見た。実はそれは主イエスが天に昇られて後、教会が抱えずにはおれなかった課題でもあった。この箇所で「悪魔」と訳されるのは「ディアボロス」であり、実につかみどころがない。主イエス・キリストだけには留まらず、初代教会にも、日々の糧をめぐる問題が切迫し、交わりや方向性が歪められた実情が想定される。イエス・キリストは、現在のわたしたちの暮しにあっては何事においても経済効率が優先される社会で虐げられ、将来に不安しかない人々と歩みをともにする。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある」との主イエスのことば。『申命記』8章3節「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」との箇所だ。『出エジプト記』にあってマナとは、神から備えられた食であって、決して神の救いのわざと分断されてはならない。
次に記されるのは権力と繁栄をめぐる誘惑。悪魔はイエスにささやく。「この国々の権力と繁栄は全てわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」。「この国々」とは、旧約聖書に登場する国々だけではなくて、ローマ帝国という大帝国を示している。確かにローマ帝国は広大な領域を治めるに足るだけの寛大さをもっていた。このような権力に阿ねて、あわよくば弾圧や混乱をもたらす諸勢力を教会から一掃しようと提言する者もいただろう。しかし教会が全権を委ねるべきは、教会の外部や神と無縁なところにある権力ではない。あくまでも神の支配を信頼するところに教会の力の源は存する。
第三の誘惑とは「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」。悪魔は詩編91編11節以降を引用する。「主はあなたのために、御使いに命じて、あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」。悪魔をしのぐ聖書の解釈を提唱できなければ、主イエスはその誘惑に屈することになる。悪魔は自己主張を正当化するために聖書を用いる。これに対して、イエス・キリストはあくまでも聖書が何を記しているのかという一点にのみ関心を集中させ、そのことばを証しする歩みを苦難とともに辿った。聖書を用いて侵略戦争を正当化し、宣伝する世の権力とは対照的である。主イエスは答える。「あなたの神である主を試してはならないと言われている」。物語の書き手は主イエスのまことの苦難の場をエルサレムに暗示しながら、「悪魔はあらゆる誘惑を終えた」と記す。
ところでわたしたちは主イエスのように悪魔の誘惑に耐えうるのだろうか。その問いに応じることばが、誘惑の物語に先んじて記されている。それは「さてイエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を『霊』によって引き回された」との文章だ。実はこの箇所では『ルカによる福音書』に暗示された聖霊の働きが暗示されている。主イエスとて自ら勇んで荒れ野に乗り込んだのではない。誘惑は望んでもいなかった状況からもたらされる。しかし書き手は、一連の誘惑の物語を霊の働きと関連づける。イエス・キリストご自身の道を聖書の中に見出し、従うことで誘惑から逃れられる。パウロによれば、それは神の愛の力に依り頼むということだ。「では、これらのことについて何と言ったらよいのだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子を惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか。人を義としてくださるのは神なのです。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取りなしてくださるのです。だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてある通りです」。危険に晒された果てに、キリストでないものの軒下に逃れようと教会は何度試みたことか。「わたしたちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」とは、詩編44編の引用だ。パウロはこの詩編を通して、主の助けを乞い願うイスラエルの民の叫びに、教会の祈りを重ねた。誘惑に苛まれる惨めな歩みを経て、本日の荒れ野の試みの物語は記された。神ならぬ者の誘惑に屈するという教会の挫折。その傷みを癒し立ちあがらせたのが、御子を十字架につけた神。その力こそが聖霊と呼ぶべきものだ。
このような理由からも、わたしたちは聖書を糧としていかなければならない。聖書のことばこそ、天上の兄弟姉妹の絆となるイエス・キリストの証しであるからだ。憎しみや怨みから解放され、キリストを讃美する道が拓かれる。主にある誠実な歩み。インマヌエルの神は、キリストを通して、その力を注いでくださる。三位一体主日に、わたしたちはこの力の中に立つことを確かめる。
2018年5月20日
泉北ニュータウン教会
ペンテコステ礼拝
説教「まかれた種が芽ばえるとき」
『ローマの信徒への手紙』8章29~30節
『マルコによる福音書』4章26~34節
稲山聖修牧師
『マルコによる福音書』4章26節~34節。この箇所にはペンテコステの出来事を語るうえで、決して欠かせない言葉が隠されている。使徒言行録1章には「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とある。つまり聖霊降臨の出来事に始まるペンテコステの出来事を語る場合、神の国、神の支配の訪れへの確信を忘れるわけにはいかないからだ。宇宙万物を創された創造主なる神が、直接御自身によって被造物を統治されるという世界観。『マルコによる福音書』は、神の国の訪れという終末論に立つ福音書の筆頭である。福音書は物語という独特の表現で神の支配の訪れを語る。興味深いのは主イエスが用いる譬えに登場するのは農作物の話が多いところだ。「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫のときがきたからである』」。種には爆発的ないのちの力が秘められているが、人の知るところではない。その種を日常として蒔くのが農夫である。神の国はわたしたちの日々の暮しの交わりの中にある。その暮しにある神の国との関わりは、必ず芽ばえて成長するものの、その理由は蒔いた人自身にすら知られるところではない。
また、別の譬えでは神の国は「からし種」に重ねられる。地上のどんな種よりも小さいその種もまた、爆発的ないのちの力を秘めている。けれども蒔くと成長してどんな野菜よりも大きくなり、やがて葉の陰に空の鳥が巣を作れるようになる。「からし種」の譬えは、種の実りに留まらず、空の鳥が巣を作る暮しの場であり、新しいいのちが育まれる場として神の国が描かれる。いのちの多様性と交わりの中で神の国が語られるその視点は、実に斬新ですらある。
それでは、わたしたちの日々の暮しと神の国とはどのように関わるのだろうか。確かにわたしたちがキリストから目を逸らし、世の事柄にのみ眼差しを向けるならば、自分の無力さに悲しみを覚える。けれども人の目から見たその無力さやちっぽけさの中に、福音書で主イエスが譬えた「成長する種」と「からし種」の姿がはっきりと示されているならば、聖書の民の姿に、神の支配にこそ来たるべき現実を見る人々の力強さを見てとれる。
これは日々感じることだが、あまりにも軽々しく「現実」という言葉を口にしすぎて、聖書の物語が夢物語であるかのようなねじれた意識にわたしたち陥ってはいないだろうか。本当は逆なのだ。神の国こそが、爆発的ないのちの宿る現実であり、それこそがイエス・キリストにあって開かれた神の愛の力である聖霊に押し出されてきた教会の現実ではないだろうか。パウロは「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者を召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお授けになるのです」と記す。イエス・キリスト自らが十字架で殺され捨てられることによって、わたしたちが受けるべき苦しみと死から解き放たれて、召し出された者として栄光を授けられている。キリストは、人の暮らしを召された兄弟姉妹の憩う場との壁をぶち抜いてくださった。縦横無尽な聖霊のわざを、わたしたちは深く信頼したい。
2018年5月13日
父母の日礼拝
メッセージ「あたたかい生命と温かいいのち」
聖書:『コロサイの信徒への手紙』4章2節
止揚学園 園長 福井生先生
報告:稲山聖修牧師
カレンダーでは「母の日」として日本社会にも定着した、母親に感謝を表わすこの日。泉北ニュータウン教会では、滋賀県東近江市にある「止揚学園」より福井生(ふくい・いくる)園長、うたの保母さんとして西竹めぐみ先生、東舘容子先生をお招きし、こひつじ保育園と泉北ニュータウン教会合同礼拝として「父母の日礼拝」を行いました。定常の礼拝では説教壇に立つ稲山はこの礼拝では司会として奉仕、メッセージを福井先生が担当されました。礼拝堂には、礼拝後に保育園PTA総会が行われることもあり、うたの西竹先生・ピアノ伴奏の東舘先生による清らかな声につつまれながら、かけがえのない特性をもつお子さんと日々向きあう保護者の方々が多くお越しになり、喰い入るような眼差しとともに福井先生のお話に耳を傾ける気迫に圧倒されました。
福井生先生は、止揚学園の創立者である福井達雨(ふくい・たつう)先生から2015年に園長職を引き継がれるまでの間、重度の知的障がいを特性として持ちながら、毎日を懸命に、そして笑顔とともに生きてこられた止揚学園の「なかま」のみなさんとの出会いとふれあいから授けられた影響と、新たに園長職を授かることで見えてきたこれからの展望だけでなく、今の時代の中で福祉の世界が置かれている厳しさと、その厳しさを超えて備えられる喜びについて、時に説教壇を叩きながらエネルギッシュにお話をされていました。その中心となったのが、福井先生がお伝えくださった聖書の言葉「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい」との言葉です。
準備した椅子をさらに増設しなければならないほど会衆が集った礼拝堂にこだましたのは、時に社会から排除される悲しみを味わい続けた「なかま」のみなさんと深く結ばれた「当事者」たろうとする福井園長の渾身の叫びでした。泉北ニュータウン教会とこひつじ保育園も、「教会と保育園は車の両輪」としての関係を重んじながら、今年度新たに「放課後等デイサービスこひつじ」がその働きを始めたことにより、三位一体的な関係を重視しながらキリストを軸とした動きに導かれましたが、その関係はまだ始まったばかりです。1954年に着想されたという止揚学園でさえも「なかま」のみなさんとの関わりでは一日いちにちが新しい発見に満ちており、出会いとともにある発見は、いつも自分たちを砕いていくとのメッセージは強く印象に残りました。
障がいを特性としてもつ「なかま」のみなさんは、数値化される成果を求める社会では確かに深い生きづらさを強いられてはいるが、逆にその生きかたが、わたしたちにいのちをめぐる重い問いを投げかけてはいないだろうか、とりわけ何でもかんでも枠にはめ込む式の関わりが通じないことが、いのちの温かさを静かに伝えてはいないだろうか、とのお話を繰り返されるその度毎に、礼拝堂に集められた教会員や保育園職員だけでなく、他ならない保護者の方々が深く頷かれる姿に、心打たれる思いがいたしました。
礼拝後に行われた止揚学園の先生方を囲んでの懇親会では、PTA総会の後に、なおも続けて出席してくださった保護者の方々から真剣な問いかけや感想が率直に語られ、家庭での女性のありかたが「専業主婦」から「ダブルインカム」の時代に突入し、そのライフスタイルが当り前になった時代への問いかけだけでなく、保護者の方々が日頃いだいている思いを分かちあうことができました。今の厳しい時代にあって「子育て世代」にあたる保護者の方々の悩みは決して軽くはありません。齢を重ねた方々の若かりし時代とは全く異なるだけでなく、人間関係が寸断されているだけに時として実に冷酷かつ残忍な一面を見せる世にもなり果てました。その日常に止揚学園の先生方の語りかける言葉一つひとつは、文字通り光の道を備えたのではないかと感じ入りました。世の闇が深まるほどに、キリストにしたがう人々の交わりが輝く波紋を広げていく様子を目の当たりにした一日。この日に降った大雨すらもいのちを潤す水だと得心できたこの日。この一日の礼拝に心より感謝申しあげます。
2018年5月6日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「神の愛につつまれる喜び」
『ローマの信徒への手紙』8章26~28節
『ヨハネによる福音書』16章 16~22節
稲山聖修牧師
『ヨハネによる福音書』が向き合った課題に終末遅延の問題があった。権力者の迫害と支配のもと、苦しみに耐えながら神の支配の訪れを待つ民には、「御国を来たらせ給え」あるいは「マラナ・タ(主イエスよ、来てください)」との切なる祈りがもたらされた。
旧約聖書では、納得できない苦しみを、原因にさかのぼり本人に納得させようとする一面がある。主イエスの時代、そして教会の中でも繰り返されてきた原罪という理解。これは因果応報の理解につながる。確かにこの理解では、本人がどうしてその苦しみを味わっているのかについて、痛みを伴わない立場からあれこれと論じられるが、どこか上から目線だ。『ヨブ記』に描かれるヨブの友人も、当事者性ぬきでヨブの苦しみをあれこれ論じる。それでは真の癒しは得られない。
神の支配の訪れがすでに訪れてはいるものの、未だ完成していない世にあって『ヨハネによる福音書』はわたしたちに特別の道筋を示そうとする。本日の箇所は「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」との言葉から始まる。この言葉は、イエス・キリストが十字架で処刑され、墓に葬られ、そして三日の後に復活した後に、復活された主イエスが天に昇られ、神の支配の訪れとともに世の完成を祝い、世に再び来られるまでの期間を指すという。終末遅延の問題は、天地創造の時と天地万物を含めた世が神の支配により完成する「時の間」という中間時との理解を教会にもたらした。「時の間」にあって、わたしたちが味わう悲しみを『ヨハネによる福音書』の書き手は「女性の産みの苦しみ」に重ねる。神の支配と結びついた喜びと悲しみを「女性の産みの苦しみ」に重ねるのは実に画期的だった。
旧約聖書で描かれる女性の立場。女性が蔑まれ、時に人格すら認められないという事態がある。その女性がイエス・キリストの再臨を待ち望む、神の支配の完成を待ち望む人々の譬えとされる。
それだけではない。嬰児を世に送り出すわざは将来へと展望を拓く。悲しみの諸元を過去にさかのぼり説明せずに、神の計画のうちに祝福された悲しみという、将来に向かう喜びが秘められた状態として肯定する。第三には、誕生した嬰児の特性は一切問われていない。『ヨハネによる福音書』の場合は女児であれ男児であれ、特別な課題があれ、いのちの誕生は全て喜びだと述べる。日々の苦しみ以上の苦しみ、悲しみ以上の悲しみである「イエス・キリストがおられない」という異常事態の中で、教会は隠された恵みに気づきつつ歩むという新しい段階を迎えた。
イエス・キリストはこの中間時に、ご自身の働きを通して明らかにされた神の愛の力である聖霊をわたしたちに贈ってくださった。パウロは『ローマの信徒への手紙』で次のように語る。それは「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもってとりなしてくださるからです」。パウロは人々が言葉で祈ることすら能わない苦しみに遭うのを見抜いてこの手紙を書く。続いて「人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます」。これはキリストに示された神自らを示す。「霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」。聖書は主の御心にかなった悲しみと願いを強調する。この世をキリストを通して肯定し神の支配と固く結ぶ。悲しみだけでなく、疑いと猜疑のない世界もまた、神の支配のもつ特性だ。わたしたちは世の現実を、神の愛につつまれて受けとめたい。聖霊の風が、五月の風のように、行く手を遮る霧を晴らしてくださるからだ。