2017年12月31日日曜日

2017年12月31日「光の中をあゆむ旅路」 稲山聖修牧師

2017年12月31日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「光の中をあゆむ旅路」
『マタイによる福音書』2章1~12節
稲山聖修牧師
 
栄枯盛衰は世の流れ。チグリス川・ユーフラテス川に挟まれた土地は、多くの国々が栄えては衰える場ともなった。国破れて山河あり。興亡の中、人々は様々な知恵を会得した。その地にあって知恵の頂点に立っていた三人の博士。博士らにはローマ帝国の力でさえ、実に儚いものとして映ったことだろう。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」。三人の博士らにはローマ帝国でさえ歴史の浅い統一国家であり、その行く末は過概ね見当がついている。それだけではなく、ヘロデ王にいたっては、もはや傀儡の王でしかないことも見通せた。
 博士の問いをめぐりエルサレムの街は大混乱に陥る。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」。安定を望むあまり、政権転覆を恐れるヘロデは、三博士との出会いをきっかけにしてメシア抹殺を企てる。神の栄光を喜びとはしない人の闇の姿がある。しかしヘロデは、謀略を進める中、メシアの誕生から一層逃れられなくなる。ヘロデが集めたのはエルサレムの神殿にいる大祭司ではなくて、人々から尊敬を集め、祈りを献げる祭司長・律法学者であることを物語は際立たせる。彼らは御用学者ではない。ヘロデ王の赦しを得た三人の博士は星に導かれ、救い主がおられたことを確信し喜びに包まれる。そしてついに母マリアとともにいるみどり児を礼拝し、聖なる献げものを各々献げた。しかし三人の博士はヘロデ王のお雇い諜報員にはならなかった。御使いの言葉を夢で聞き、別の道を通って帰国したのである。
 博士らは追いつめられた権力者が何をしでかすか、ローマ帝国の支配の及ばない地にあってすでに多くの学びを得ていただろう。争いがどれほど惨たらしい者であるかも知っていただろう。博士らは、自らの祖先が奴隷とした民の中から、ローマ帝国の枠組みを超える、全ての被造物の救い主が出ることを、星を頼りに歩んできた。クリスマス物語にも、聖書ならではの独特のリアリズムがある。人間とは、ひとたび闇に転落するならばかくも残酷になれるとのメッセージがあり、その一方で光の中を探し求め、道を歩む者が遂には救い主を見出して礼拝した後に、その道がどれほど険しくとも、闇に覆われた道ではなく、光に包まれた道へと導かれていく様子が記される。
 山上の垂訓で、主イエスは次のように語る。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを乱す者は少ない」。本日は大晦日であり、明日からは2018年を迎える。私たちは三人の博士たちのように、狭い門にある道を歩んだろうか。そして来る年、不平なしに新たな道を切り拓けるだろうか。その道が見出せるならば、この教会の前途は困難であろうとも安泰に違いない。世の動きがどうであろうと、注意を怠らず、そしてなおも、あたかも何事も起こらなかったかのように、神さまから託された役目を果たしていきたい。三人の博士はその役目を全うしたのであった。それはまさしくキリストに従う道。新たな年に、アブラハムの神のあふれる祝福を祈る交わりでありたい。

2017年12月24日日曜日

2017年12月24日「開かれた恵みのとびら」 稲山聖修牧師

2017年12月24日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「開かれた恵みのとびら」
『ルカによる福音書』2章8~21節
稲山聖修牧師

創世記の族長物語に描かれる羊飼い。アブラハムに導かれ、家畜の世話をしつつ旅を続けた人々。その行くところ神の祝福があった。転じて土地は神に属し、部族全体の居場所と出会いの豊かさを湛えていた。それからほぼ2000年を経たクリスマス物語に描かれる羊飼い。この羊飼いは、領主、即ち大地主の農場で働く労働者に過ぎない。それだけではなく、皇帝アウグストゥスによる人口調査の勅令の適用外にあった。人として数えもされなかった羊飼いの暮し向きは果たして。
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」。果たして羊飼いが夜通し羊の群れの番をしていたのは、羊を護るためだけであったのか。
例えば。ホームレスの方々は、凍死や暴力から逃れるため、厳寒の夜に身体に毛布や布団を巻いて一晩中歩き回るという。朝日が昇るころに眠りに就く人々。丸腰のホームレスは身を護るために夜通し歩かなければならない。羊飼いたちは羊を護るだけでなく、自らを守るために夜通し羊の群れの番をしなければならなかったかもしれない。人の力による光の影に隠れてしまっている人々を、福音書の書き手は物語の舞台へと招く。
「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」。主の栄光に包まれた羊飼いたちは主の栄光を前にして恐怖する。人は神の栄光を前に直ちに喜びに包まれるのではなくて、恐怖し狼狽える。主の栄光を前にしてあらゆる人生設計や、日々の暮らしの段取りや拠り所が突き崩され、狼狽えるほかはない。その中で次の声が響く。「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの街で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。天使の告げる「民全体」とは、皇帝の勅令の中でも人として扱われない人々、言葉の異なる人々、ユダヤ人も異邦人も全てを指す。関係が分断され、棄民扱いされる者と皇帝とが全て等しい地平に置かれ、救い主を中心とした交わりを新たに創造する。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。聖書に描かれる全ての人々が「民全体」として数えられる。アブラハムの神による日々の糧の再分配が、神の国の実現を目指して始まる。
それだけではない。「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ』」。無力な羊飼いたちは、ひときわ神と深く関係づけられる。天の大軍はローマの軍団でさえ無力化する力を秘めているからだ。聖書は世俗の現実を無視しない。その中心に据えられるのは「地には平和、御心に適う人にあれ」。抑圧と暴力装置による抑圧と恐怖による平和ではなく「御心に適う人」に神の平和が授けられる。この出来事によって、暮しの不安と恐怖によって土地に縛られていた羊飼いたちの態度が一変し、「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った」。救い主の訪れが告げられた後、羊飼いたちは極めて雄弁に、これまでとは異なる世界へ足を踏み入れようと、実に積極的なあり方へと変貌する。「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」。もっとも虐げられたところに置かれていたはずの人々に、神の恵みの扉は開かれた。
 世の誉れを中心にした繁栄とは反対に、主にある貧しさは、人々を強く結びつける力を秘めている。「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」とは『ルカによる福音書』6章20節にある山上の垂訓の箇所だ。クリスマスの喜びを深く噛みしめるわたしたちである。

2017年12月17日日曜日

2017年12月17日「悲しみが喜びに変わるとき」 稲山聖修牧師

2017年12月17日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「悲しみが喜びに変わるとき」
『ルカによる福音書』2章1~7節
稲山聖修牧師

 『ルカによる福音書』の書き手はローマ帝国の支配秩序を明晰に論じる。皇帝アウグストゥスを頂点とし、その下にはシリア州総督キリニウスを記す。さらにその下でヘロデ大王が傀儡政権として君臨した。主イエスが成長し、十字架と復活、昇天の出来事から50年ほどの時を経て『ルカによる福音書』が成立する。この福音書は冒頭に「テオフィロ」というローマ帝国の高級官僚への献呈辞を冠する割にはローマ帝国の統治原理を突き放して論じている。
 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」。勅令は服従なしには処罰される。「これは、キリニウスがシリア州の総督であったときの行われた最初の住民登録であった」。人頭税を効率的に徴収するアイデアの実現。納税申告のために日常を中断して無理やり帰郷する旅路は殺気立ち、誰にも目もくれない集団となる。「ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」。産み月に入っているマリアさえこの申告を免除や延期を赦されない。そして故郷の誰もこの夫婦を顧みない。同じような境遇の中で母子ともに命を脅かされた人が果たして何人いたか。
詩人の栗原貞子が描く『生ましめんかな』は被爆直後の夜、避難所となったビルの地下室で産まれたみどり児と、重傷をおしてお産を助け、力尽きた助産婦の姿を対照的かつ荘厳に描く。だがしかし、あの凄惨な場所でさえ助産婦はいたのだ。『ルカによる福音書』のクリスマス物語にはマリアを気遣う姿はどこにもない。見方を変えれば、核爆弾の投下されたその日の夜の地下室にも増して、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という一文は、皇帝の勅令の異様さと暴力、そしてマリアとヨセフのこの世的な無力さを物語っている。それでは、マリアとヨセフ、そして幼子イエスは、吹き荒れる世の権力のなすがままにされるだけだったのか。そうではなかったことを、マリアの神讃美の歌からわたしたちは知る。
マリアは世の権力者に対する神の国の審判を神讃美とともに歌う。「主はその腕で力を奮い、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で観たし、富める者を空腹で追い返す」。この歌は、神の国ならではの自由と平等を先取りして、世のいかなる革命歌よりも高らかに人々の解放を歌い、力強く神を讃えつつ、救い主の誕生を祝う。いのちがけで出産を助ける助産婦すらいない、家畜小屋の飼い葉桶をつつむ神の栄光が『生ましめんかな』の世界をも照らし、息絶えた人々をいのちと甦りの希望の光につつむ。マリアの神讃美の歌は、幾度も続いたユダヤの民の対ローマ戦争を越えて、ローマ帝国最後のキリスト教迫害者ユリアヌス帝の最期の言葉に結実する。「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」。迫害者の臨終にそう言わしめた勝利者キリストの誕生が近づいている。飼い葉桶に眠るキリストにあって、人には癒しがたい悲しみでさえ、神の恵みにあふれた深い喜びに変えられる。その深い癒しと平和を導く力を深く信頼しつつ、わたしたちはクリスマスの訪れを待ち望む。

2017年12月10日日曜日

2017年12月10日「洗礼者ヨハネが示す救い主」 稲山聖修牧師

2017年12月10日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「洗礼者ヨハネが示す救い主」
『ルカによる福音書』1章67~80節
稲山聖修牧師

イザヤ書40章1~5節までの言葉を語りつつ、「最後の預言者」と呼ばれる洗礼者ヨハネは罪の赦しを得させるための洗礼を宣べ伝えた。これは四つの福音書全てに記されているだけに、救い主の訪れを想う上で不可欠の記事だ。このヨハネの父ザカリヤは祭司であり、エリサベトを伴侶としたと、『ルカによる福音書』は記す。あるときザカリヤは神殿の聖所で主の天使から「恐れることはない。ザカリヤ、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む」。ザカリヤはこの言葉を受け入れない。「わたしも妻も老人である」のがその理由だ。天使が答えるには「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを告げるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことはできなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。祭司の口が封じられる。それは職能上の障りだけでなく、祭司の役割を定める律法を破ることでもある。ザカリヤは務めを果たせないどこか、心ならずも御使いの力によって律法に相応しく暮らすことができなくなる。ザカリヤは祭司としての一切の力を封じられてしまう恐怖を味わう。ザカリヤの舌が動くようになるのは、エリサベトが男の子を授かり、律法が定めた割礼の日に、父として名をつけるその時。ザカリヤはこの場で息子の名前を記す。「この子の名はヨハネ」。そのとき舌のほどけたザカリヤは神をほめ讃える。「イスラエルの神である主」「僕ダビデの家」「聖なる契約」「我らの父アブラハム」「いと高き方の預言者」「我らの歩みを平和の道に導く」という、旧約聖書の預言者が担った働きとともに、ヨハネが担う役目が記される。そして「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの民の前に現れるまで荒れ野にいた」と実に麗しく、クリスマス物語に相応しい展開でひとまず終わる。それではヨハネ自身は、生涯を一貫して雄々しく救い主の訪れを語り得たのか。
 ヘロデに幽閉されたヨハネは、『ルカによる福音書』7章18節以降で、人生の終わりを前に、二人の弟子たちを遣いに出し、次のように主イエスに問いかける。「来るべき方はあなたですか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。ヨハネ自ら「わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない」と語り、ヨルダン川で清めの洗礼を授けたはずの主イエスについてこのように呟かざるを得ない。己の限界を知り、悶え苦しむ姿が赤裸々に描かれる。それは当然のことだ。ヨハネは救い主の前に立つ、一介の預言者に過ぎないからだ。思えば孤独の中で喘ぎ、苦しみ身悶えしながら旧約の預言者たちは神の言葉を証ししたのだった。主イエスはヨハネの弟子に語る。「死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしに躓かない人は幸いである」。これこそ、救い主にのみ備えられた権能である。神の国の訪れの前には、死はその力を失い、不正な世にあって苦難の極みにある人々に喜びが告げ知らされており、それは神のわざの中で時がくるまで隠されている。すなわち「わたしに躓かない人は幸いである」。多くの人が、イエスが救い主であることに気づかない中、「わたしに躓かない者は幸いである」との答えが堂々とヨハネに伝えられる。「来るべき方はあなたですか。それともほかの人を待たなければなりませんか」との問いこそが、ヨハネがまことの預言者であったことを証し、同時にイエス・キリストを指し示してもいる。飼い葉桶に生まれた救い主は、ヨハネにもそのような戸惑いを生ぜしめた。だからこそ、御子イエス・キリストは、まことの救い主だとの確信が与えられる。クリスマスの出来事は、わたしたちだけが覚える記念に留まらず、神が自らに刻んでおられる、癒しと慰めに満ちた救いの出来事なのだ。

2017年12月3日日曜日

2017年12月3日「失意を喜びに変える約束」 稲山聖修牧師

2017年12月03日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「失意を喜びに変える約束」
『エレミヤ書』31章31~36節
稲山聖修牧師

「聞け、イスラエルよ」と呼びかける預言者の姿。待降節第1主日を迎えてわたしたちが目を注ぐのは預言者エレミヤ。彼は超大国バビロニア王国の要求を全て呑み、主の計らいを前にしたイスラエルの残りの民の悔い改めを望んだ。しかしイスラエルの残りの民は、もはや神ではなく、人の力に頼ろうとする。エレミヤはイスラエルの民に自ら悔い改め、主に立ち返るというわざをもはや期待しない。むしろ、バビロニアの捕虜となることで、出エジプトの解放だけでは砕かれなかった民の頑なさを打ち破ろうとした。エレミヤは、侵略者であるはずのバビロニア王国の王を、「アブラハムの神の僕」とさえ称するのだ。
 バビロン捕囚にいたるまでの道筋に希望を見出すならば、アブラハムの神がイスラエルの民のありようを徹底的に新たにする中で光を見出す他にはない。『エレミヤ書』31節以降では「見よ、わたしはイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心をそれに記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。その時、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。掟破りの常習犯と化したイスラエルの民に新たに授けられるとのしらせ。それはもはや石にではなく、人々の心に刻まれる誡めだ。重要なのは、アブラハムの神とイスラエルの民との関係が赦しの中で本来の姿を取り戻すだけでなく、すでに人は立場を問わず主を知っており、互いに「主を知れ」といって教えることはない、とのくだりだ。旧約聖書の中で、誡めに基づく神との関わりから、終末論的な律法の完成を視野に入れた民の救いが伝えられる。虜囚の民は救い主を待ち望むという神との関わりへの新たな転換を迎える。エルサレムの神殿は徹底的に破壊されたが、イスラエルの民は生き延びたのだ。イスラエルの残りの民は異邦人の権力に屈しつつ歩む。その苦難が深まるほど、民はメシアにいのちの希望を託した。
 新約聖書では洗礼者ヨハネが「最後の預言者」として描かれる。『マルコによる福音書』の冒頭には「神の子イエス・キリストの福音の始め」と端的に記される。イスラエルの民がどれほど救い主を待ち望んでいたか。書き手はイザヤ書を引用する。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」。『マルコによる福音書』は、美しいクリスマス物語を省略してまで、ヨハネに語らせる。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちすらない」。
『マルコによる福音書』成立時には、主イエスの時代のエルサレムの神殿もまた廃墟と化していた。ローマ帝国の支配への絶望的な反抗の結果、神殿は完膚なきまでに叩き潰された。廃墟に先立つ混乱の中から預言者が待ち望んでいた救い主が世に現れる。その方こそイエス・キリスト。預言者エレミヤがはるかに仰ぎ見た、律法の成就である。パウロは「イエスの焼き印を身に帯びている」と語った。神の愛よりも世の権能と虚しい繁栄を追い求める民の深い失意と絶望は、イエス・キリストの誕生にあって大いなる喜びに変えられる。救い主の誕生を待ち望む希望を新たにしたい。