2017年11月26日
泉北ニュータウン教会礼拝説教「よい実を結ぶ地を備えられて」
『マタイによる福音書』13章1~9節
稲山聖修牧師
泉北ニュータウン教会礼拝説教「よい実を結ぶ地を備えられて」
『マタイによる福音書』13章1~9節
稲山聖修牧師
主イエスは湖畔に腰を下ろしていた。集まったのは大勢の群衆。主は舟に乗って一定の距離を置かなければならなかった。主イエスを呑み込まんばかりの群衆の勢い。「群衆は岸辺に立っていた」。固唾を呑んで見守っている群衆とは、ギリシア語で「オクロス」。福音書にあってさえ名を記されない人々がいた。オクロスの民の一縷の望みとして、主イエスの名がその地には知れ渡っていた。
この場で主イエスが口を開かれ、語られたのが種蒔く人のたとえ。「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた」。しかしたとえ話に描かれる農夫の働きぶりはいささか乱暴でもある。「種を蒔く人が種まきに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」。鳥に啄まされてしまった種。しかし考えてみれば、道端に種を落とすような農夫がいるのだろうか。他の種はどうなったか。「石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」。結果が早ければ人は容易く喜ぶ。しかしそこには深く根を下ろすだけの時の積み重ねがない。そのために枯れたのは分るのだが、充分に開墾されない土地に種蒔くような農夫がいるのだろうか。「ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった」。茨の間に落ちた種が、その勢いに負けて育たないのはよくあることだ。けれども茨を取り除くこともなく、種を落とす農夫がどこにいるのだろうか。
この愚かな農夫が誰なのかを神の恩寵の中で見抜くわざが、わたしたちには求められている。思うに農夫は種を蒔く前、懸命に土地を耕したろう。けれどもそこには多くの問題が残されていた。農夫は誰なのか。それは続く箇所の主イエスの解き明かしの記事にもない。しかしおそらくこの農夫は初代教会の使徒たちであり教会に仕えていた人々の姿ではなかったか。それは時として無名の民であった。主イエス・キリストが遣わした人々の働きが「種蒔き」だった。
神の国の言葉の種。それがどこに蒔かれるのかは、種自らの知るところではない。主イエスは種を蒔き続けることによって何を目指しておられたのか。福音書において、主イエスは鳥に啄まれた種に、悪い者に奪い取られた神の国の言葉を重ねようとする。しかし奪い取られた神の国の言葉は、悪い者のありようを変えていく力を秘めている。石だらけの土地に蒔かれた種は、艱難や迫害がもたらす躓きの中で失われるように見える。しかし躓いた者は慟哭の中、イエス・キリストの生涯を再び思い起こす。心配事や富の誘惑の中で神の国の言葉を疎かにする者でさえ、生涯の終わりに、富の誘惑がいかに虚しく、思い煩いに振り回されたのがいかに愚かだったかとの嘆きに直面する。多くの人生行路を経て、わたしたちは神の国の言葉がまことであったと思い知る。主イエスが神の国の言葉を、種まき人の種に重ねるならば、この種は世の全ての誘惑や邪魔立てに打ち勝つのだ。世の国の言葉ではない、神の国の言葉。イエス・キリスト御自身が神の言葉として世に降り給う。待降節の喜びの兆しがこうして暗示される。かくして、道端も、石だらけの土地も、茨の生い茂る土地も、全てがよい土地となるために、耕されていく。それがわたしたちの日々の暮しのありようだ。この種蒔く農夫を用いるのは、他ならぬアブラハムの神、主なる神なのである。
5000年前の蓮の種が芽吹いて花を咲かせた出来事をわたしたちは知っている。眠っているかのように見える神の国の言葉は、イエスを主と仰ぐ神の民一人ひとりに深く根を下ろして、芽吹いた後、たわわに実るそのときを待っている。本日は収穫感謝記念日礼拝を執り行っている。その実りを、感謝とともに神に献げ、後に続く者のために用いていきたく願う。
この場で主イエスが口を開かれ、語られたのが種蒔く人のたとえ。「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた」。しかしたとえ話に描かれる農夫の働きぶりはいささか乱暴でもある。「種を蒔く人が種まきに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」。鳥に啄まされてしまった種。しかし考えてみれば、道端に種を落とすような農夫がいるのだろうか。他の種はどうなったか。「石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」。結果が早ければ人は容易く喜ぶ。しかしそこには深く根を下ろすだけの時の積み重ねがない。そのために枯れたのは分るのだが、充分に開墾されない土地に種蒔くような農夫がいるのだろうか。「ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれを塞いでしまった」。茨の間に落ちた種が、その勢いに負けて育たないのはよくあることだ。けれども茨を取り除くこともなく、種を落とす農夫がどこにいるのだろうか。
この愚かな農夫が誰なのかを神の恩寵の中で見抜くわざが、わたしたちには求められている。思うに農夫は種を蒔く前、懸命に土地を耕したろう。けれどもそこには多くの問題が残されていた。農夫は誰なのか。それは続く箇所の主イエスの解き明かしの記事にもない。しかしおそらくこの農夫は初代教会の使徒たちであり教会に仕えていた人々の姿ではなかったか。それは時として無名の民であった。主イエス・キリストが遣わした人々の働きが「種蒔き」だった。
神の国の言葉の種。それがどこに蒔かれるのかは、種自らの知るところではない。主イエスは種を蒔き続けることによって何を目指しておられたのか。福音書において、主イエスは鳥に啄まれた種に、悪い者に奪い取られた神の国の言葉を重ねようとする。しかし奪い取られた神の国の言葉は、悪い者のありようを変えていく力を秘めている。石だらけの土地に蒔かれた種は、艱難や迫害がもたらす躓きの中で失われるように見える。しかし躓いた者は慟哭の中、イエス・キリストの生涯を再び思い起こす。心配事や富の誘惑の中で神の国の言葉を疎かにする者でさえ、生涯の終わりに、富の誘惑がいかに虚しく、思い煩いに振り回されたのがいかに愚かだったかとの嘆きに直面する。多くの人生行路を経て、わたしたちは神の国の言葉がまことであったと思い知る。主イエスが神の国の言葉を、種まき人の種に重ねるならば、この種は世の全ての誘惑や邪魔立てに打ち勝つのだ。世の国の言葉ではない、神の国の言葉。イエス・キリスト御自身が神の言葉として世に降り給う。待降節の喜びの兆しがこうして暗示される。かくして、道端も、石だらけの土地も、茨の生い茂る土地も、全てがよい土地となるために、耕されていく。それがわたしたちの日々の暮しのありようだ。この種蒔く農夫を用いるのは、他ならぬアブラハムの神、主なる神なのである。
5000年前の蓮の種が芽吹いて花を咲かせた出来事をわたしたちは知っている。眠っているかのように見える神の国の言葉は、イエスを主と仰ぐ神の民一人ひとりに深く根を下ろして、芽吹いた後、たわわに実るそのときを待っている。本日は収穫感謝記念日礼拝を執り行っている。その実りを、感謝とともに神に献げ、後に続く者のために用いていきたく願う。