聖書箇所:ローマの信徒への手紙5章1~8節、創世記24章1~8節、詩編130編1~8節
ハロウィンの祭が賑やかな中、教会が忘れてはいけないのは、宗教改革記念日。ルターのカトリック教会への問題提起が契機とされる。ルターだけが英雄視されるならば、その記念も歪む。例えば100年前。宗教改革400年記念は、第一次世界大戦の最中に行われ、祭はドイツの戦勝祈願にも似たという。420年記念は、ゲルマン民族主義の熱狂的な高揚の中で行われ、歪んだ選民思想の中人々は茶色の服を着て右腕を高く上げた。今日、世界教会の時代にあって宗教改革を覚えて何をすべきかと言えば、ルターの英雄視ではなくて、ルターが民衆の言葉に訳した聖書を繰り返し味わいつつ、神の恵みに応える姿勢を確かめることだろう。
本日の旧約聖書の箇所は『創世記』24章1節から8節。アブラハムも齢を重ね、老人となった。登場するのはアブラハムの他に、長く歩みをともにした僕(しもべ)。齢を重ねながら、長い人生を神の光の中、己の影と向き合いながらも歩んできた二人。アブラハムは名を記されない僕に語りかける。「手をわたしの腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れてくるように」。この誓いには一族の存亡がかかった大事としてイサクの結婚が描かれる。この「許嫁探しの物語」は決して安易な結論を求めない。即ち、「今住んでいるカナンの娘からとるのではない」。カナンの地域にあるような、魅惑的な男性らしさや女性らしさはアブラハムの眼中にはない。何が大切なのか。それはアブラハムの主への深い信頼の言葉から明らかだ。「天の神である主は、お前の行く手に御使いを遣わす」。これがアブラハムの確信だ。老いてなおアブラハムの眼差しは過去にではなく、イサクとの関わりの中で未来に開かれている。これこそイエス・キリストにあって異邦人である私たちにも開かれた、恵みに応えるキリスト者の姿でもある。
本日の『ローマの信徒への手紙』の箇所は有名な箇所だ。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。信仰とはルターの言葉によればキリストへの信頼と深く関わる。個人の所有物ではない。その信頼の中で次の言葉が記される。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。私たちが味わう苦難はただの苦難ではない。イエス・キリストへの信頼の中にあっての苦難だ。狼狽。落涙。閉じこもり。不信や猜疑が私たちを襲う。けれども、イエス・キリストへの信頼が全てに勝る。絶望の只中に置かれ、無力感にうちひしがれていたとしたとしても、イエス・キリストによって開かれた神の愛は、私たちの抱える苦難、すなわち不信、狼狽、猜疑、妬み、疑い、そして絶望を完膚なきまでに打ち砕く。
詩編130編には、罪人の苦しみが癒され、変容される姿が記される。この詩編は異邦人ルターが繰り返し味わい、神の恵みを信頼する罪人の姿を心に刻んだ古代イスラエルの民の詩でもある。今日宗教改革という言葉がなお意味をもつならば、神の言葉への深い信頼なしにはあり得ない。改革は神の国の訪れの時まで終わらない。「私たちの『内なる人』は日々新たにされていく」(『コリントの信徒への手紙Ⅱ.4章16節』)。待ちつつ、仰ぎつつ、望みつつ、キリストの恵みに包まれて、私たちは神の光の中を歩むのだ!
2017年10月29日日曜日
2017年10月22日日曜日
2017年10月22日「見知らぬ人の厚意への切なる感謝」稲山聖修牧師
聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章18~25節、創世記23章10~22節
科学の道で最先端を行く人は人智を越えた力を感じずにはおれないという。今日の聖書箇所に記されるヘトの人々も常日頃からその意識が強かったと考えられる。この人々は宇宙から飛来した隕鉄を精錬し人類史上初めて鉄器を用いたとされる。今日の箇所から察するに、その目的はより強度のある農具の製造にある。農具は日常品だけに後世には残らない。けれども鉄の農具は農耕の民にはかけがえのない財産だ。ヘトの人々は畏れとともに夜空を仰ぎ、アブラハムと思いをともにしたかも知れない。
ヘト人エフロンは衆目の前でアブラハムに答える。「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴(ほらあな)も差し上げます。わたしの一族が立ち会っているところで、あなたに差し上げますから、早速亡くなられた方を葬ってください」。アブラハムの依頼そのものは唐突であっても、死という出来事を受け入れる心備えは人々には日常であった。「わたしの願いを聞き入れてくださるなら、どうか畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。そうすれば、亡くなった妻をあそこに葬ってやれます」。この時代に鉄は銀よりも貴重なレアメタルだ。アブラハムが当時はなかった貨幣の代わりに銀の塊を準備する。エフロンは銀で畑を売ろうと思っていない。その銀は何よりも土地売買のためにではなく感謝のしるしである。このしるしにより、アブラハムは堂々とサラの墓地を建て、ヘトの人々は一同そろってアブラハムの誠意に応えて畑を献げることができる。畑を開墾するにかかる手間は想像を絶する。たとえ銀塊でもその汗を量ることはできない。この深い交わりの中で、サラの墓地が建てられる。今やサラの墓はヘトの人々とアブラハム一族のかけがえのない絆の証しともなる。
しかし時が移ろう中、この絆がほころび、破られるさまを私たちは目撃する。アブラハムの時代よりもはるか後のダビデ王の振る舞いがそれだ。王の権威を私物化し、ダビデが手をかけるのはバト・シェバ。その夫はダビデの忠実な家臣であり、エフロンの末裔ヘト人ウリヤ。ヘブライ人の倣いと戒めによれば、これは明らかにモーセの戒めの違反。醜聞が表沙汰になる前にダビデは策を弄して忠臣を謀殺し隠蔽しようとする。その様を聖書は「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記す。神はヘト人ウリヤの側に立つ。そして権力に翻弄される女性の側に立つ。主なる神はダビデの過ちだけでなく、汗水垂らして耕した畑をアブラハムに献げたエフロンの働きを決して忘れてはいない。だからこそ事実として是は是、非は非というわざを、ダビデを始めイスラエルの民に下すのだ。しかしそのわざはイスラエルの民を一重に滅ぼすためであったのか。
その問いを噛みしめながら『ローマの信徒への手紙』を味わえば、実のところ神が何を見ておられ、何をされ、関心を置かれるのかが分る。アブラハムにはダビデのように私物化しようにも私物化できる権力などなかった。アブラハムは家族や近親者の部族を守らなければとの責任、目の前に広がる荒れ野で行く道を見極める判断、そして多くの係争がありながらも一人息子のイサクをサラとの間に授かっただけだ。パウロはサラとの関わりを踏まえて、アブラハムには神から賜わる垂直の力によって諸力の源が備えられていたと記す。私たちに欠けているのはこの垂直の視点なのだ。神の交わりへの招き・人々の間にある垣根を越えていく力は、神のわざへの感謝として、イエス・キリストを通してすでに備えられている。「見知らぬ人への厚意」に頭を垂れたアブラハムの謙遜さ。イスラエルと異邦人の和解、隣人との和解と赦しという宝がそこに秘められている。
科学の道で最先端を行く人は人智を越えた力を感じずにはおれないという。今日の聖書箇所に記されるヘトの人々も常日頃からその意識が強かったと考えられる。この人々は宇宙から飛来した隕鉄を精錬し人類史上初めて鉄器を用いたとされる。今日の箇所から察するに、その目的はより強度のある農具の製造にある。農具は日常品だけに後世には残らない。けれども鉄の農具は農耕の民にはかけがえのない財産だ。ヘトの人々は畏れとともに夜空を仰ぎ、アブラハムと思いをともにしたかも知れない。
ヘト人エフロンは衆目の前でアブラハムに答える。「どうか、御主人、お聞きください。あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴(ほらあな)も差し上げます。わたしの一族が立ち会っているところで、あなたに差し上げますから、早速亡くなられた方を葬ってください」。アブラハムの依頼そのものは唐突であっても、死という出来事を受け入れる心備えは人々には日常であった。「わたしの願いを聞き入れてくださるなら、どうか畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。そうすれば、亡くなった妻をあそこに葬ってやれます」。この時代に鉄は銀よりも貴重なレアメタルだ。アブラハムが当時はなかった貨幣の代わりに銀の塊を準備する。エフロンは銀で畑を売ろうと思っていない。その銀は何よりも土地売買のためにではなく感謝のしるしである。このしるしにより、アブラハムは堂々とサラの墓地を建て、ヘトの人々は一同そろってアブラハムの誠意に応えて畑を献げることができる。畑を開墾するにかかる手間は想像を絶する。たとえ銀塊でもその汗を量ることはできない。この深い交わりの中で、サラの墓地が建てられる。今やサラの墓はヘトの人々とアブラハム一族のかけがえのない絆の証しともなる。
しかし時が移ろう中、この絆がほころび、破られるさまを私たちは目撃する。アブラハムの時代よりもはるか後のダビデ王の振る舞いがそれだ。王の権威を私物化し、ダビデが手をかけるのはバト・シェバ。その夫はダビデの忠実な家臣であり、エフロンの末裔ヘト人ウリヤ。ヘブライ人の倣いと戒めによれば、これは明らかにモーセの戒めの違反。醜聞が表沙汰になる前にダビデは策を弄して忠臣を謀殺し隠蔽しようとする。その様を聖書は「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と記す。神はヘト人ウリヤの側に立つ。そして権力に翻弄される女性の側に立つ。主なる神はダビデの過ちだけでなく、汗水垂らして耕した畑をアブラハムに献げたエフロンの働きを決して忘れてはいない。だからこそ事実として是は是、非は非というわざを、ダビデを始めイスラエルの民に下すのだ。しかしそのわざはイスラエルの民を一重に滅ぼすためであったのか。
その問いを噛みしめながら『ローマの信徒への手紙』を味わえば、実のところ神が何を見ておられ、何をされ、関心を置かれるのかが分る。アブラハムにはダビデのように私物化しようにも私物化できる権力などなかった。アブラハムは家族や近親者の部族を守らなければとの責任、目の前に広がる荒れ野で行く道を見極める判断、そして多くの係争がありながらも一人息子のイサクをサラとの間に授かっただけだ。パウロはサラとの関わりを踏まえて、アブラハムには神から賜わる垂直の力によって諸力の源が備えられていたと記す。私たちに欠けているのはこの垂直の視点なのだ。神の交わりへの招き・人々の間にある垣根を越えていく力は、神のわざへの感謝として、イエス・キリストを通してすでに備えられている。「見知らぬ人への厚意」に頭を垂れたアブラハムの謙遜さ。イスラエルと異邦人の和解、隣人との和解と赦しという宝がそこに秘められている。
2017年10月15日日曜日
2017年10月15日「いのちの根を下ろす」稲山聖修牧師
聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章13~17節、創世記23章1~9節
アブラハム物語を辿るとき、サラの生涯が注目されるのは稀だ。「サラの生涯は127年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」。サラに寄せたアブラハムの悲嘆の記事はこの箇所のみ。だからこそこの悲嘆には言葉にできない思いが凝縮される。サラは名を改める前から奇異な存在であった。「サライは赴任の女で、こどもができなかった」と、必要もないのにわざわざ系図に記される通りだ。ハランの町でアブラハムは神の招きを受けたが、エジプトに入ればサラはアブラハムの保身のためにファラオの側女にさせられる。その後なおも正妻ながらこどもを授からない苦しみを味わい続け、女奴隷ハガルをアブラハムのもとに遣わすが、その後ハガルに覚えたのは喜びよりも妬みであった。御使いたちにイサク誕生の予告を受けたときも、老いたサラには自嘲するより他に道がない。その乾いた笑いがイサク誕生による喜びに包まれた後、ハガルの息子イシュマエルとの確執に襲われる。この物語では母親としてイサクを護ろうとする鬼のような姿が露わになる。イサク奉献の物語には母としてのサラの影は薄く、その出来事が終わるや、サラは静かに生涯を終える。
それでは問う。サラは幸せな人生を辿れたのだろうか。アブラハム以上に身を挺して神の祝福に応えようと苦闘せざるを得なかったのがサラの生涯だった。それを誰より知っていたのがアブラハムであり、だからこそアブラハムは胸を打ち、嘆き、一般の遊牧民とは異なるわざにとりかかる。「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。『わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです』」。アブラハムの振る舞いはサラへの哀惜の念を際立たせ、時を超えた共感をもたらす。さらにはサラの葬りの申し出が、ヘトの人々との交わりを生み出す。サラの逝去と葬りのわざはヘトの人々にも悼みを分かち合うこととなり、異邦人との交わりの種がまかれる。サラの墓前に、いのちの根を下ろした、そして民の壁を越えた交わりが生れる。
『ローマの信徒への手紙』4章13節には「神がアブラハムやその子孫に世界を受けつがせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた」とある。16節でパウロは「恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です」と記す。私たちは聖書に書き記された物語を通して、聖書がそれとしては記されなかった世のアブラハムとサラの歴史を知る。聖書が信仰に不可欠なのは、かの時代の人々を包み込んだ神の恵みの力に思いを馳せ、その歴史を暮らしに刻むためだ。この力は次の言葉に収斂される。「死者にいのちを与え、存在してない者を呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となった」。この箇所にはイエス・キリストの復活を通して私たちに示された神の愛の力が示されている。イエス・キリストの甦りは、イスラエルの民とならび異邦人である私たちにも、いのちの勝利をもたらした。サラもその例外ではない。救い主が私たちの間に命の根を下してくださった出来事。深く感謝したい。
アブラハム物語を辿るとき、サラの生涯が注目されるのは稀だ。「サラの生涯は127年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」。サラに寄せたアブラハムの悲嘆の記事はこの箇所のみ。だからこそこの悲嘆には言葉にできない思いが凝縮される。サラは名を改める前から奇異な存在であった。「サライは赴任の女で、こどもができなかった」と、必要もないのにわざわざ系図に記される通りだ。ハランの町でアブラハムは神の招きを受けたが、エジプトに入ればサラはアブラハムの保身のためにファラオの側女にさせられる。その後なおも正妻ながらこどもを授からない苦しみを味わい続け、女奴隷ハガルをアブラハムのもとに遣わすが、その後ハガルに覚えたのは喜びよりも妬みであった。御使いたちにイサク誕生の予告を受けたときも、老いたサラには自嘲するより他に道がない。その乾いた笑いがイサク誕生による喜びに包まれた後、ハガルの息子イシュマエルとの確執に襲われる。この物語では母親としてイサクを護ろうとする鬼のような姿が露わになる。イサク奉献の物語には母としてのサラの影は薄く、その出来事が終わるや、サラは静かに生涯を終える。
それでは問う。サラは幸せな人生を辿れたのだろうか。アブラハム以上に身を挺して神の祝福に応えようと苦闘せざるを得なかったのがサラの生涯だった。それを誰より知っていたのがアブラハムであり、だからこそアブラハムは胸を打ち、嘆き、一般の遊牧民とは異なるわざにとりかかる。「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり、ヘトの人々に頼んだ。『わたしは、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです』」。アブラハムの振る舞いはサラへの哀惜の念を際立たせ、時を超えた共感をもたらす。さらにはサラの葬りの申し出が、ヘトの人々との交わりを生み出す。サラの逝去と葬りのわざはヘトの人々にも悼みを分かち合うこととなり、異邦人との交わりの種がまかれる。サラの墓前に、いのちの根を下ろした、そして民の壁を越えた交わりが生れる。
『ローマの信徒への手紙』4章13節には「神がアブラハムやその子孫に世界を受けつがせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされた」とある。16節でパウロは「恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です」と記す。私たちは聖書に書き記された物語を通して、聖書がそれとしては記されなかった世のアブラハムとサラの歴史を知る。聖書が信仰に不可欠なのは、かの時代の人々を包み込んだ神の恵みの力に思いを馳せ、その歴史を暮らしに刻むためだ。この力は次の言葉に収斂される。「死者にいのちを与え、存在してない者を呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となった」。この箇所にはイエス・キリストの復活を通して私たちに示された神の愛の力が示されている。イエス・キリストの甦りは、イスラエルの民とならび異邦人である私たちにも、いのちの勝利をもたらした。サラもその例外ではない。救い主が私たちの間に命の根を下してくださった出来事。深く感謝したい。
2017年10月8日日曜日
2017年10月8日「人に知られずに備えられる神の道筋」稲山聖修牧師
聖書箇所:ローマの信徒への手紙4章1~12節、創世記22章9~19節
古代ギリシアの都市国家スパルタでは肉体的な健康が何よりも尊ばれた。先天的に戦に向かない特質をもって生れたこどもは城壁の外に捨てられた。このような考えは今日も克服されていない。但し更に昔の遺跡からは、長期にわたり障がいのケアーを受けた形跡のある遺骨が発見されてもいる。今昔いずれの人の暮らしがいのちを重んじているか、あるいは進歩しているかという問いそのものが無意味になりつつある。
ではなぜ神はアブラハムに息子を献げよと命じたのだろうか。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げものはどこにありますか」と父に問うイサク。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答える父親。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物をとり、息子を屠ろうとした」。父が自分の一人息子を人身御供として神に献げるという実に不条理な場面。実はこのような箇所にこそ、創世記ならではのメッセージが隠されている。「そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分ったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった』。」。
神はアブラハムの信仰を弄んだのではない。天地創造の神は、御自身に模って創造された人間に「エデンの園の中心にある木の実は食べてはいけない。食べると死んでしまうから」と語る。「死ぬな」と人に語る神ならば、イサクを人身御供として奪うことはない。さらにイサクの奉献の仕方である「焼き尽くす献げもの」が持つ意味は、本来は神への感謝のしるしとして行われ、喜びをもたらす。イサクが献げられたところで誰が喜ぶだろうか。肝心なのはアブラハムが神以外の何者も命じることのできない命令に応え、それを気持ちの問題ではなく、黙々と態度に示した現場を神は見ていたところだ。神の隠された愛に応じる証しがそこにある。
私たちはアブラハムがイサクを受けとり直したその喜びを、イエス・キリストとの関わりの中で自己点検できているだろうか。『ローマの信徒への手紙』4章でパウロが用いる言葉に「行いによらず」という文言が再三登場するが、それは信仰を字面だけ辿ればよいと語っているわけではない。喜びを伴っているのかどうかが問われる。神の恵みに応じる喜びは、異邦人もユダヤ人も問わないばかりか、先達への敬意を伴いながら、絶えず伝統を乗り越えていく型破りな創造性をも生み出す。証しにも多様性がある。黙々と薪を割るだけでも、病床にあって呻くように祈るだけでも、そこに喜びを待ち望む希望があるならば、備えられた神の道筋がある。
神が備えた信仰の道は、時に隠されている。真っ直ぐな道ばかりではない。その道はあらゆる世界に、あらゆる交わりに開かれているとパウロは語り、それは主イエスの自由で伸びやかな歩みに重ねられる。一人子すら惜しまなかった神の愛を、私たちはそのように受けとめたい。
古代ギリシアの都市国家スパルタでは肉体的な健康が何よりも尊ばれた。先天的に戦に向かない特質をもって生れたこどもは城壁の外に捨てられた。このような考えは今日も克服されていない。但し更に昔の遺跡からは、長期にわたり障がいのケアーを受けた形跡のある遺骨が発見されてもいる。今昔いずれの人の暮らしがいのちを重んじているか、あるいは進歩しているかという問いそのものが無意味になりつつある。
ではなぜ神はアブラハムに息子を献げよと命じたのだろうか。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げものはどこにありますか」と父に問うイサク。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答える父親。「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物をとり、息子を屠ろうとした」。父が自分の一人息子を人身御供として神に献げるという実に不条理な場面。実はこのような箇所にこそ、創世記ならではのメッセージが隠されている。「そのとき、天から主の御使いが、『アブラハム、アブラハム』と呼びかけた。彼が『はい』と答えると、御使いは言った。『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分ったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった』。」。
神はアブラハムの信仰を弄んだのではない。天地創造の神は、御自身に模って創造された人間に「エデンの園の中心にある木の実は食べてはいけない。食べると死んでしまうから」と語る。「死ぬな」と人に語る神ならば、イサクを人身御供として奪うことはない。さらにイサクの奉献の仕方である「焼き尽くす献げもの」が持つ意味は、本来は神への感謝のしるしとして行われ、喜びをもたらす。イサクが献げられたところで誰が喜ぶだろうか。肝心なのはアブラハムが神以外の何者も命じることのできない命令に応え、それを気持ちの問題ではなく、黙々と態度に示した現場を神は見ていたところだ。神の隠された愛に応じる証しがそこにある。
私たちはアブラハムがイサクを受けとり直したその喜びを、イエス・キリストとの関わりの中で自己点検できているだろうか。『ローマの信徒への手紙』4章でパウロが用いる言葉に「行いによらず」という文言が再三登場するが、それは信仰を字面だけ辿ればよいと語っているわけではない。喜びを伴っているのかどうかが問われる。神の恵みに応じる喜びは、異邦人もユダヤ人も問わないばかりか、先達への敬意を伴いながら、絶えず伝統を乗り越えていく型破りな創造性をも生み出す。証しにも多様性がある。黙々と薪を割るだけでも、病床にあって呻くように祈るだけでも、そこに喜びを待ち望む希望があるならば、備えられた神の道筋がある。
神が備えた信仰の道は、時に隠されている。真っ直ぐな道ばかりではない。その道はあらゆる世界に、あらゆる交わりに開かれているとパウロは語り、それは主イエスの自由で伸びやかな歩みに重ねられる。一人子すら惜しまなかった神の愛を、私たちはそのように受けとめたい。
2017年10月1日日曜日
2017年10月1日「キリストに委ねる平和、キリストから授かる勇気」稲山聖修牧師
聖書箇所:ローマの信徒への手紙3章27~31節、創世記22章1~8節
「鳥居」と名乗る女性の短歌集『キリンの子』が爆発的に売れている。『サラダ記念日』とは異なり、鳥居が詠むのは地べたを這う者が陽
だまりに手を伸ばすような願い。「目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ」。この歌集の購読者の生活状況に思いを馳せる。核家族のあり方が極限まで達し、「ワンオペ育児」が増える。その中で虐待に至るというケースが後を絶たない。これに経済格差が追い討ちをかける。鳥居は児童養護施設で虐待を受け精神科病棟への入院とホームレスを経験し、義務教育も受けずに育った。新聞と辞書が短歌の世界を開いた。
創世記の物語はそのような社会の谷間に暮らす人にどのように映るのか。「あなたの子孫を浜の砂粒のようにする」との祝福を通して授けられたのはイサクただ一人。この一人息子との関わりをめぐり、神はアブラハムに命じる。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山のひとつに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。
この不条理な命令にアブラハムは黙々と従う。黙々と薪を割るアブラハム。アブラハムは狂信者ではなかった。幾たびも彼の部族は切羽詰まった中で授けられたその知恵に助けられたことだろう。しかし神はイサクを名指しにしていることから、アブラハムには身代わりになる余地は残っていない。「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。『お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる』」この文を読むと、アブラハムは薪を割りながらも一縷の望みを抱いているようでもある。それは神がそのようなことをなさるはずがないとの信頼だ。絶望的な命令を前にしてなおもアブラハムは神の命令に対して鎬を削るような葛藤を伴う信頼を抱く。「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いていった」。何も知らない息子は父に「わたしのお父さん」と呼びかける。アブラハムは「ここにいる。わたしの子よ」と答える。ただ一人のこどもを「わたしの子よ」と呼ぶ。この「わたしの子」という言葉に表わされる親子関係が根底から新たにされる時が近づく。アブラハムには隠されているその時。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げものにする小羊はどこにいるのですか」とのイサクの問い。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。アブラハムは事態の瀬戸際まで神に信頼を置く。神が割って入る親子の関係にいたるまでアブラが刷新される。濃密な親子関係が陥りがちな共依存と独占の関係。イサクはアブラハムに独占されなかった。それが今後の展開となる。
パウロはモーセ五書を踏まえ、人の誇りはどこにあるのかと問う。主なる神の命令を前にしてアブラハムが誇りなど顧みなかった様子は今朝の物語からも読み取れる。続いてパウロが問うのは信仰の法則。これはイエス・キリストを通して示された神の恵みをわが身に重ねるわざである。それは必ずしもモーセ五書を拠り所とはしない異邦人にも開かれている。憂いに佇む私たちの前にはイエス・キリストによって開かれた道がある。その道は世界へと広がり、神の平和を告げ知らせるために用いられていく。経済的な問題や、家族の問題によって生まれた分断の壁をも超えていく。絶望の谷間を照らす光の中で、あらゆる世代の人々とのつながりを大切にしていきたい。『キリンの子』に心動かされる人々にこそ届く交わりを、私たちは神の光の中で祈り探し求める。
「鳥居」と名乗る女性の短歌集『キリンの子』が爆発的に売れている。『サラダ記念日』とは異なり、鳥居が詠むのは地べたを這う者が陽
だまりに手を伸ばすような願い。「目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ」。この歌集の購読者の生活状況に思いを馳せる。核家族のあり方が極限まで達し、「ワンオペ育児」が増える。その中で虐待に至るというケースが後を絶たない。これに経済格差が追い討ちをかける。鳥居は児童養護施設で虐待を受け精神科病棟への入院とホームレスを経験し、義務教育も受けずに育った。新聞と辞書が短歌の世界を開いた。
創世記の物語はそのような社会の谷間に暮らす人にどのように映るのか。「あなたの子孫を浜の砂粒のようにする」との祝福を通して授けられたのはイサクただ一人。この一人息子との関わりをめぐり、神はアブラハムに命じる。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山のひとつに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。
この不条理な命令にアブラハムは黙々と従う。黙々と薪を割るアブラハム。アブラハムは狂信者ではなかった。幾たびも彼の部族は切羽詰まった中で授けられたその知恵に助けられたことだろう。しかし神はイサクを名指しにしていることから、アブラハムには身代わりになる余地は残っていない。「三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。『お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる』」この文を読むと、アブラハムは薪を割りながらも一縷の望みを抱いているようでもある。それは神がそのようなことをなさるはずがないとの信頼だ。絶望的な命令を前にしてなおもアブラハムは神の命令に対して鎬を削るような葛藤を伴う信頼を抱く。「アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いていった」。何も知らない息子は父に「わたしのお父さん」と呼びかける。アブラハムは「ここにいる。わたしの子よ」と答える。ただ一人のこどもを「わたしの子よ」と呼ぶ。この「わたしの子」という言葉に表わされる親子関係が根底から新たにされる時が近づく。アブラハムには隠されているその時。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げものにする小羊はどこにいるのですか」とのイサクの問い。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。アブラハムは事態の瀬戸際まで神に信頼を置く。神が割って入る親子の関係にいたるまでアブラが刷新される。濃密な親子関係が陥りがちな共依存と独占の関係。イサクはアブラハムに独占されなかった。それが今後の展開となる。
パウロはモーセ五書を踏まえ、人の誇りはどこにあるのかと問う。主なる神の命令を前にしてアブラハムが誇りなど顧みなかった様子は今朝の物語からも読み取れる。続いてパウロが問うのは信仰の法則。これはイエス・キリストを通して示された神の恵みをわが身に重ねるわざである。それは必ずしもモーセ五書を拠り所とはしない異邦人にも開かれている。憂いに佇む私たちの前にはイエス・キリストによって開かれた道がある。その道は世界へと広がり、神の平和を告げ知らせるために用いられていく。経済的な問題や、家族の問題によって生まれた分断の壁をも超えていく。絶望の谷間を照らす光の中で、あらゆる世代の人々とのつながりを大切にしていきたい。『キリンの子』に心動かされる人々にこそ届く交わりを、私たちは神の光の中で祈り探し求める。
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