聖書箇所:ルカによる福音書24章44~51節
「キリストの昇天」の記事は『ルカによる福音書』の最後と『使徒言行録』の始まりにも記される記事。しかし二つの文書の表現はだいぶ異なる。『使徒言行録』で弟子は世の国としてのイスラエルに強くこだわる。また、何が起きたのか分らないまま昇天するキリストを見つめる。しかし『ルカによる福音書』の場合、主イエスは弟子たちに、今日でいう旧約聖書の文言は必ず実現への道が今始まったと宣言する。
続けて主イエスは聖霊との言葉をはっきり用いないものの、御自身の復活と、悔い改めの出来事が、イスラエルの民の境界線を超えて、世界中に宣べ伝えられるばかりではなく、あらゆる格差やあらゆる階層、言語、家族、身体の特性を包みながら伝えられることが記される。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」。弟子達はこの出来事を目撃し、その証しを立て、その証しがさらなる証しにつながるとの理解が記される。軸は次の一節。則ち、「私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高いところからの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい」。「都に留まれ」とは『ルカによる福音書』ならではの言葉である。
福音書でのエルサレムは、主イエスには「戦いの場」であった。エルサレムの町に入るまでは、主イエスは癒しのわざや、人々に実に潤い豊かな救いの物語を語り聞かせるという、まさに善き羊飼い主イエス・キリストの姿が描かれる。しかしエルサレムが舞台となると状況は一変する。主イエスのわざに慄く人々が論争を挑み、罠を仕掛ける。そして主イエスは「苦難の僕」の道を歩む。十字架の道行きがそこにはある。エルサレムは、聖霊降臨の出来事が始まる場であると同時に主イエスが十字架につけられるという苦難の頂点の場でもある。
けれども主イエスはエルサレムの町に留まれ、都に留まれと語る。それはまさに自らを十字架につけた罪深いイスラエルの民の歴史を通して、また弟子たち自らのライフストーリーを通して、神のわざが世に臨むためである。エルサレムの町そのものが聖なる町ではない。弟子たちの歩みそのものが聖なるものではない。復活されたイエス・キリストとの関わりにおいて始めてエルサレムの町は、キリストの福音の出発点となる。「聖なる都である」のではなく「聖なる都になる」のだ。これが私たちの信仰生活にも重なる重要な事柄だ。
続く文章は使徒言行録にはない特別な記事だ。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された」。「そして祝福しながら彼らを離れ、天にあげられた」。メシアは神の力によって天にあげられた。その間絶え間なく主イエスは弟子たちを祝福している。教会を祝福し、世をも弟子達の働きの故に祝福される。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめ讃えていたとある。
イエス・キリストの昇天の出来事を通じて、世と教会は新しい時代を迎える。それはイエス・キリストのわざを直接仰ぐことのない時の幕開けを意味する。但し、それは恐怖に満ちた暗黒時代の到来ではない。神をほめ讃える歌がエルサレムの神殿の境内から全地の民に及ぶ時代の始まりである。キリストの昇天から神の国の訪れという中間時にあって、教会が向き合う課題は数え切れない。けれども主イエスはそのさまを全て御覧になり祝福されておられる。破れや働きの小ささや弱さにも拘わらず。光あるうちに光の中を進んでいこう。
2017年5月28日日曜日
2017年5月21日日曜日
2017年5月21日「父の招きに喜ぶこの日」稲山聖修牧師
聖書箇所:マタイによる福音書6章1~15節
主イエスの世、祈りの言葉はエルサレムの祭司階級に独占されていた。民衆から尊敬されていたはずのファリサイ派も、庶民と近い距離にあって常に祈りを献げていたとは言い難い。ルカによる福音書は18章9節以降でファリサイ派の祈りと徴税人の祈りを語る。「ファリサイ派の人は立って心の中でこのように祈った」。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら言った」。ファリサイ派の祈りは交わりの中での態度表明ではないばかりか、その実は他者との比較の上に成り立つ事実上の業績報告だ。一方で徴税人はそのものとしては祈りとは表記されず「言った」と記され、胸を打つという言外の動作を伴う。それは「罪人の私を憐れんでください」との言葉に厳粛な響きをもたらす。
本日の箇所では主の祈りの原型が記される。利己的な願いと祈りの分別がつかなくなる私たちには主の祈りはいわば命綱。病床。不条理な苦しみ。疲労。嘆き。その渦中で父なる神との関係を確かめられる祈りだ。さらに祈りとはその究極的な前提として隠されており、それは隠れたところにおられる神に向けられている。本来は人に聴かせるものではなく、見せびらかすものでもない。注目すべきは、主イエスが人々に伝えた祈りには「神」との言葉が登場しないところ。徴税人、あるいはその徴税人のようにあえて孤立を選び、名誉よりも誹謗や中傷の言葉を選ぶ弟子たち、あるいは困窮にあって分別すら忘れた人々のためにも、主イエスは神を、あえて「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかける。求められるのは、痛みを御手に包んでくださる天の父に全幅の信頼を委ね讃美することだ。讃美されるのは人ではない。天の父だ。次なるは天の父の国の訪れを求める祈りであり、天の父の思いとはかけ離れていく世においてこそ、その思いが実現するようにとの願いである。神の御心の実現には幾世代が必要か。けれどもそれは必ず完成するとの約束に立つのが主の祈りだ。
この祈りの後、切迫した暮しをめぐる祈りが記される。必要な糧を今すぐ、直ちに。この切実な乞い願いは、貨幣経済が世に生まれる前から献げられてきた。また、天の父への讃美の後に初めて献げられる祈りでもある。荒れ野での誘惑の場面で悪魔が真っ先に主イエスに働きかけたのは食を巡る誘いであった。だからこそ私たちは天の父への讃美から祈りを始める。
第四には赦しが祈りに数えられる。誰かとの関わりにある私たち。天の父との間に破れを抱え、負い目を覚えている以上、大切な人との交わりにあってなお私たちは破れを傷みとともに思い起こさざるを得ない。負い目を赦してくださいとの祈りがある以上、赦しが生やさしいわざではないと分る。けれどもわたしたちは赦せるように願い続けなければならない。憎しみは何も生まないからだ。第五には「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。マタイによる福音書の場合、主の祈りはこの祈りが最後に献げられる。それは12節までの祈りが絶えず献げられるならば、誘惑や悪は自ずと遠ざかるからだ。そして最後、15節には今一度赦しが言及される。赦しは困難だ。けれども時を重ねてでも赦さなければ、私たちは平和を築きあげることができない。
全き人の子・ナザレのイエスは血縁ある父との関わりが希薄だ。その孤独を知るがゆえに、父のイメージを神に重ねて呼びかけ、救いの訪れをより確かなものとして伝えようとした。ナザレのイエスが救い主・キリストであるとの宣言に包まれるとき、私たちは父なる神に招かれていることを知る。どのような人も。これこそ私たちが依るべき唯一の尺度だ。この尺度に立つならば、私たちはどんなときでもその喜びを忘れない。
主イエスの世、祈りの言葉はエルサレムの祭司階級に独占されていた。民衆から尊敬されていたはずのファリサイ派も、庶民と近い距離にあって常に祈りを献げていたとは言い難い。ルカによる福音書は18章9節以降でファリサイ派の祈りと徴税人の祈りを語る。「ファリサイ派の人は立って心の中でこのように祈った」。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天にあげようともせず、胸を打ちながら言った」。ファリサイ派の祈りは交わりの中での態度表明ではないばかりか、その実は他者との比較の上に成り立つ事実上の業績報告だ。一方で徴税人はそのものとしては祈りとは表記されず「言った」と記され、胸を打つという言外の動作を伴う。それは「罪人の私を憐れんでください」との言葉に厳粛な響きをもたらす。
本日の箇所では主の祈りの原型が記される。利己的な願いと祈りの分別がつかなくなる私たちには主の祈りはいわば命綱。病床。不条理な苦しみ。疲労。嘆き。その渦中で父なる神との関係を確かめられる祈りだ。さらに祈りとはその究極的な前提として隠されており、それは隠れたところにおられる神に向けられている。本来は人に聴かせるものではなく、見せびらかすものでもない。注目すべきは、主イエスが人々に伝えた祈りには「神」との言葉が登場しないところ。徴税人、あるいはその徴税人のようにあえて孤立を選び、名誉よりも誹謗や中傷の言葉を選ぶ弟子たち、あるいは困窮にあって分別すら忘れた人々のためにも、主イエスは神を、あえて「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかける。求められるのは、痛みを御手に包んでくださる天の父に全幅の信頼を委ね讃美することだ。讃美されるのは人ではない。天の父だ。次なるは天の父の国の訪れを求める祈りであり、天の父の思いとはかけ離れていく世においてこそ、その思いが実現するようにとの願いである。神の御心の実現には幾世代が必要か。けれどもそれは必ず完成するとの約束に立つのが主の祈りだ。
この祈りの後、切迫した暮しをめぐる祈りが記される。必要な糧を今すぐ、直ちに。この切実な乞い願いは、貨幣経済が世に生まれる前から献げられてきた。また、天の父への讃美の後に初めて献げられる祈りでもある。荒れ野での誘惑の場面で悪魔が真っ先に主イエスに働きかけたのは食を巡る誘いであった。だからこそ私たちは天の父への讃美から祈りを始める。
第四には赦しが祈りに数えられる。誰かとの関わりにある私たち。天の父との間に破れを抱え、負い目を覚えている以上、大切な人との交わりにあってなお私たちは破れを傷みとともに思い起こさざるを得ない。負い目を赦してくださいとの祈りがある以上、赦しが生やさしいわざではないと分る。けれどもわたしたちは赦せるように願い続けなければならない。憎しみは何も生まないからだ。第五には「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。マタイによる福音書の場合、主の祈りはこの祈りが最後に献げられる。それは12節までの祈りが絶えず献げられるならば、誘惑や悪は自ずと遠ざかるからだ。そして最後、15節には今一度赦しが言及される。赦しは困難だ。けれども時を重ねてでも赦さなければ、私たちは平和を築きあげることができない。
全き人の子・ナザレのイエスは血縁ある父との関わりが希薄だ。その孤独を知るがゆえに、父のイメージを神に重ねて呼びかけ、救いの訪れをより確かなものとして伝えようとした。ナザレのイエスが救い主・キリストであるとの宣言に包まれるとき、私たちは父なる神に招かれていることを知る。どのような人も。これこそ私たちが依るべき唯一の尺度だ。この尺度に立つならば、私たちはどんなときでもその喜びを忘れない。
2017年5月14日日曜日
2017年5月14日父母の日礼拝「共に生きる恵み―親子であること、親子となることー」大阪キリスト教短期大学 森田美芽教授
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 12:15「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
本日の主題は3つあります。第一に親であることの問題、第二に、子どもたちの置かれている現状と子を受け入れるということ、第三に、その関係性をいかによりよいものにしていくか、ということです。まず親であること。私たちはみな、未熟な親です。親であることは、たとえば保育士さんなどとは違い、1年365日継続する関係性であり、もともと容易なことではありません。にもかかわらず、私たちは親となることを許されているのです。足りない者であっても、親となり、親であることを神さまからいただいた者として、その恵みを分かち合える者です。
親が親であろうとするとき、私たちはしばしば、自分の親との間に解決されていない葛藤を持っています。 私たちが親子であるとき、忘れてならないことは、子どもは親の願望を代理で実現する道具ではなく、ましてかわいがるだけのペットではなく、私から独立した一人の人格であり、神が与えられた尊い一人の人間であり、やがて私たちにとっては、人生の最もよき友となり得る存在である、ということです。私たちは、親としてどうかだけでなく、人としてどうかが問われています。私たちは子どもの姿を通して、愛することのできない自分に気づきます。そこで私たちは、実は傷ついて助けを欲している自分自身に気づきます。私たちがその傷に気づき、癒しを願うとき、真の神であられる方の癒しと救いが自分のものになります。イエス・キリストは、私たちの弱さを理解できないような無慈悲な方ではありません。
さて、子どもたちの現状で、注目されるのがいじめの問題です。いじめは軽い冗談の延長から、仲間同士の結束のため、特定の人物を対象にいじめ行為を行う場合や、さらにエスカレートすると、犯罪性を帯びることもあります。なぜいじめるのかといえば、結局仲間同士で盛り上がり、いじめることで痛快さや優越性を感じるから、というのが最も大きいようです。なぜ親や教師が気づかいかと言えば、被害者である子ども自身が、親や教師に知られることを何よりも嫌がる傾向にあるからです。子どもにとっていじめられるということは自尊心に関わり、自分がいじめられるような存在であることは、自分の自尊感情をひどく傷つけるものだからです。このいじめにあわないために、仲間たちの「目につく」ことを避けようとする傾向があります。それが「空気を読む」「同調し、個性を出さない」ことにつながります。このいじめに対抗するためには、幼少期から、自分が愛され、尊重されていると感じること、家庭の中では少なくとも、人格として尊ばれ、自分が何も言わなくても受け入れられていると感じることが力のもととなっています。
第三に、これからの関係性について、何よりも「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」と言う関係は、親子というかけがえのない絆の中で生まれるものです。子が親を人として尊敬し、親は子を一人の人間として尊重する、互いに相手の成長と人格の完成を喜ぶ、聖書に描かれた家族への戒めが具体的なものとして意味を持ってくるのだと思います。
本日の主題は3つあります。第一に親であることの問題、第二に、子どもたちの置かれている現状と子を受け入れるということ、第三に、その関係性をいかによりよいものにしていくか、ということです。まず親であること。私たちはみな、未熟な親です。親であることは、たとえば保育士さんなどとは違い、1年365日継続する関係性であり、もともと容易なことではありません。にもかかわらず、私たちは親となることを許されているのです。足りない者であっても、親となり、親であることを神さまからいただいた者として、その恵みを分かち合える者です。
親が親であろうとするとき、私たちはしばしば、自分の親との間に解決されていない葛藤を持っています。 私たちが親子であるとき、忘れてならないことは、子どもは親の願望を代理で実現する道具ではなく、ましてかわいがるだけのペットではなく、私から独立した一人の人格であり、神が与えられた尊い一人の人間であり、やがて私たちにとっては、人生の最もよき友となり得る存在である、ということです。私たちは、親としてどうかだけでなく、人としてどうかが問われています。私たちは子どもの姿を通して、愛することのできない自分に気づきます。そこで私たちは、実は傷ついて助けを欲している自分自身に気づきます。私たちがその傷に気づき、癒しを願うとき、真の神であられる方の癒しと救いが自分のものになります。イエス・キリストは、私たちの弱さを理解できないような無慈悲な方ではありません。
さて、子どもたちの現状で、注目されるのがいじめの問題です。いじめは軽い冗談の延長から、仲間同士の結束のため、特定の人物を対象にいじめ行為を行う場合や、さらにエスカレートすると、犯罪性を帯びることもあります。なぜいじめるのかといえば、結局仲間同士で盛り上がり、いじめることで痛快さや優越性を感じるから、というのが最も大きいようです。なぜ親や教師が気づかいかと言えば、被害者である子ども自身が、親や教師に知られることを何よりも嫌がる傾向にあるからです。子どもにとっていじめられるということは自尊心に関わり、自分がいじめられるような存在であることは、自分の自尊感情をひどく傷つけるものだからです。このいじめにあわないために、仲間たちの「目につく」ことを避けようとする傾向があります。それが「空気を読む」「同調し、個性を出さない」ことにつながります。このいじめに対抗するためには、幼少期から、自分が愛され、尊重されていると感じること、家庭の中では少なくとも、人格として尊ばれ、自分が何も言わなくても受け入れられていると感じることが力のもととなっています。
第三に、これからの関係性について、何よりも「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」と言う関係は、親子というかけがえのない絆の中で生まれるものです。子が親を人として尊敬し、親は子を一人の人間として尊重する、互いに相手の成長と人格の完成を喜ぶ、聖書に描かれた家族への戒めが具体的なものとして意味を持ってくるのだと思います。
2017年5月7日日曜日
2017年5月7日「主イエスの背中を見つめて歩む」稲山聖修牧師
聖書箇所:コリントの信徒への手紙Ⅰ12章3~13節
こどもさんびかには大人のあり方を問われる作品がある。例えば「どんなときでも」。作詞は高橋順子さん。骨肉腫の手術の数日前に書いた詩に、召天後メロディーがつけられ歌われるようになった。八年間の生涯を振り絞って作られた詩を私たちは用いている。
この讃美歌からは人生には限りがあり、終わりがあるという厳粛な事実が読み取れる。この事実は高齢者だけの現実ではない。それは老いも若きも包み込む出来事だ。それゆえにこそ、教会はより包括的な働きを目指さなければならない。その理由は教会の立つところが、そしてキリスト教信仰の核が、イエス・キリストの復活への確信にあるからだ。被造物としての私たちは死に至るという厳粛な事柄に勝る出来事をイエス・キリストが明らかにされ、死に対する命の勝利が謳われたところから始まるのが、私たちの歩み。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の刺はどこにあるのか」(『コリントの信徒への手紙Ⅰ』15章54節)。このパウロの言葉に立てば、葬儀をめぐる問いが終末の時、神の国の訪れの時への備えとしての意味に転換されなければならない。
私たちの信仰生活にはイエス・キリストと向き合う面と、復活したイエス・キリストの背を見つめて追いかける面がある。「キリストに従う」わざの内実だ。旧約聖書では神の背中を仰ぐという表現は『出エジプト記』にある。旧約聖書では今、この時にあって、神と人とが顔と顔を合せることはできない。神の愛の力は破れに満ちた私たちには過分であるとの理解が垣間見える。
けれども本日の箇所ではどうか。『出エジプト記』では神の力が及ぶときには被造物である人の命はリスクにさらされるが、イエスが主であるとの告白の際には、助け主・弁護者としての聖霊の執成しが働く。イエス・神・聖霊という三位一体の神の働きが今朝の箇所には簡潔に記される。そして教会を構成する人々の賜物が聖霊によって結ばれる。人と人とを結びつけているのは、定まらない気分や趣味判断、好みやプライドの問題や打算ではない。派閥や党派の問題でも勿論ない。4節から7節には「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、全ての場合に全てのことをなさるのは同じ神です。一人ひとりに全体の益となるためです」とある。どの賜物が勝っているか、どの奉仕が優れているかをパウロは記さない。さらに11節からは「これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人ひとりに分け与えてくださるのです。身体は一つでも、多くの部分から成り、身体のすべての部分の数は多くても、身体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分であろうと、皆一つの身体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。パウロの構想した教会がいかに多様性に満ちているかが分る。「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと」との言葉。初代教会にはヘブライの伝統に堅く立とうとする群れと、ギリシア語を用い、ヘブライの伝統には直接与しない群れには争いが絶えなかった。教会のわざは赦しから始まらずにはおれなかった。同時に「奴隷であろうと自由な身分であろうと」。そこには絶望的な身分・経済格差による交わりの断絶がある。けれどもパウロはそこに復活されたキリストによる一致と和解を説く。定型文としての信仰告白の芽生えとともに、読み書きのできない人もまたその信仰をもって義とされた豊かさ。私たちも包括的な礼拝共同体に立って神の国の訪れに備える群れを整えたい。
こどもさんびかには大人のあり方を問われる作品がある。例えば「どんなときでも」。作詞は高橋順子さん。骨肉腫の手術の数日前に書いた詩に、召天後メロディーがつけられ歌われるようになった。八年間の生涯を振り絞って作られた詩を私たちは用いている。
この讃美歌からは人生には限りがあり、終わりがあるという厳粛な事実が読み取れる。この事実は高齢者だけの現実ではない。それは老いも若きも包み込む出来事だ。それゆえにこそ、教会はより包括的な働きを目指さなければならない。その理由は教会の立つところが、そしてキリスト教信仰の核が、イエス・キリストの復活への確信にあるからだ。被造物としての私たちは死に至るという厳粛な事柄に勝る出来事をイエス・キリストが明らかにされ、死に対する命の勝利が謳われたところから始まるのが、私たちの歩み。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の刺はどこにあるのか」(『コリントの信徒への手紙Ⅰ』15章54節)。このパウロの言葉に立てば、葬儀をめぐる問いが終末の時、神の国の訪れの時への備えとしての意味に転換されなければならない。
私たちの信仰生活にはイエス・キリストと向き合う面と、復活したイエス・キリストの背を見つめて追いかける面がある。「キリストに従う」わざの内実だ。旧約聖書では神の背中を仰ぐという表現は『出エジプト記』にある。旧約聖書では今、この時にあって、神と人とが顔と顔を合せることはできない。神の愛の力は破れに満ちた私たちには過分であるとの理解が垣間見える。
けれども本日の箇所ではどうか。『出エジプト記』では神の力が及ぶときには被造物である人の命はリスクにさらされるが、イエスが主であるとの告白の際には、助け主・弁護者としての聖霊の執成しが働く。イエス・神・聖霊という三位一体の神の働きが今朝の箇所には簡潔に記される。そして教会を構成する人々の賜物が聖霊によって結ばれる。人と人とを結びつけているのは、定まらない気分や趣味判断、好みやプライドの問題や打算ではない。派閥や党派の問題でも勿論ない。4節から7節には「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、全ての場合に全てのことをなさるのは同じ神です。一人ひとりに全体の益となるためです」とある。どの賜物が勝っているか、どの奉仕が優れているかをパウロは記さない。さらに11節からは「これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人ひとりに分け与えてくださるのです。身体は一つでも、多くの部分から成り、身体のすべての部分の数は多くても、身体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分であろうと、皆一つの身体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。パウロの構想した教会がいかに多様性に満ちているかが分る。「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと」との言葉。初代教会にはヘブライの伝統に堅く立とうとする群れと、ギリシア語を用い、ヘブライの伝統には直接与しない群れには争いが絶えなかった。教会のわざは赦しから始まらずにはおれなかった。同時に「奴隷であろうと自由な身分であろうと」。そこには絶望的な身分・経済格差による交わりの断絶がある。けれどもパウロはそこに復活されたキリストによる一致と和解を説く。定型文としての信仰告白の芽生えとともに、読み書きのできない人もまたその信仰をもって義とされた豊かさ。私たちも包括的な礼拝共同体に立って神の国の訪れに備える群れを整えたい。
登録:
投稿 (Atom)