聖書箇所:使徒言行録24章24~27節
総督という役職はローマ皇帝の代官として、その支配を領土隅々にまで行き渡らせる絶大な権力を誇った。しかしその権力は重大な責任をローマ皇帝に負っていた。勇敢な総督とは稀で、実のところは前例のない事柄には拘わりたくないというのが本音であったろう。
その典型的な例が総督ピラトの振る舞い。福音書でピラトは主イエスの潔白を知っていたが、その事実の前にユダヤの民が暴動を起こす可能性を恐れていた。暴動の勃発は今でいう管理運営能力の欠如を意味する。皇帝からの評価を下げるだけでなく、いのちすら奪われかねなかった。だからこそピラトは自らが下すべき判断を過越の祭の恩赦に転嫁し、群衆の前で手を洗ったりした。実に虚しい営み。この振る舞いの果てに、使徒信条の中でピラトは主イエスを苦しめた責任者として名を刻まれることとなった。
総督フェリクスがピラトと異なる点はユダヤ人の女性ドルシラを伴侶としたこと。それはフェリクスがユダヤ教をより自らに引き寄せて考えていた可能性を導く。ゆえにこの総督はドルシラを通してパウロを呼びキリスト・イエスの信仰を尋ねた。パウロは大胆に神の正義、主にある節制、そして世の完成におけるところの主の審判について語った。その教えはフェリクスに恐怖の念を抱かせた。「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」。続いてフェリクスは「パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた」。むしろ鍵は「度々話し合っていた」である。これにはドルシラの後押しが大きかったろう。宮廷にあっても女性の地位は男性より低い。他方で新約聖書では女性が縦横無尽の働きと活躍を見せる。例えばマリアは、主イエスの誕生を受けて讃美を歌うが、その言葉には救い主の訪れの前での世の力の無力化が歌われる。初代教会の終末論的な讃美にフェリクスは聞く耳を持っていたからこそ、その恐ろしさに震えあがった。問題はその後。パウロと同じくイエスの焼き印を、フェリクスが身に帯びるかどうか。これがフェリクスに課せられた課題であり、その課題の行方をドルシラは見届ける。世の力に翻弄されながらも、厚い雲から差し込む光や乾いた大地を潤す雨のような主の恵みに包まれた私たち。その恵みに応じつつ新しい一週間を踏みだそう。