2016年9月25日日曜日

2016年9月25日「何が正しく何が間違っているのか」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録26章24~32節

獄中で二年以上の歳月が経過する中、パウロはローマ市民として最大限の権利を行使する。それは皇帝への上訴。自らの身の潔白の証明を通じて全ての人にイエス・キリストは主であると伝えようとする。パウロには身の潔白などどうでもよい。皇帝と連なる人々に福音を伝えるのが究極的な関心である。
実のところ他の使徒はパウロがエルサレムで身柄を拘束されてからパウロを庇うなど一切していない。その意味ではパウロは一人であった。しかしそれは孤独を意味しない。なぜなら獄中にも新たな交わりを育む力を主イエス・キリストは注いでいるからだ。「フェストゥスは大声で言った。『パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎでおかしくなったのだ』。パウロは時の総督フェストゥスから頭がおかしいと罵倒される。この箇所に私たちはマルコ福音書にある、気が変になっているとの噂から身内に取り押さえられようとした主イエスを重ねる。
キリスト者は善悪の基準を世のそれとは別の所から授かっている。フィリピの信徒への手紙でパウロは語る。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕われているのを知って、愛の動機から、そうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう」。
 だがそれがなんであろう!本日の箇所で問われているのはパウロを見捨てるようにして離れていったエルサレムの使徒のあり方でもある。けれどもパウロが仰いでいるのは人ではない。その身に焼き印を帯びているとガラテヤ書で語ったイエス・キリストである。
 それがなんであろう!と聖書は私たちに問いかける。様々な交わりを通して主は人を用いる。病の床に伏せっていてもそこは主が派遣された場所。イエス・キリストを通して私たちはどこにあっても交わりに置かれている。ねたみや争いでさえイエス・キリストは主にある交わりに変えてしまう。行き詰まったとき、私たちは己にイエスの焼き印を見出したい。そのしるしから、全く新しい神の国につながる展望が開かれる。イエスの焼き印を身に帯びた者として新たな一週間、私たちは各々の暮しの場へと遣わされていくのだ。

2016年9月11日日曜日

2016年9月11日「権力を震えあがらせた神の言葉」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録24章24~27節

 総督という役職はローマ皇帝の代官として、その支配を領土隅々にまで行き渡らせる絶大な権力を誇った。しかしその権力は重大な責任をローマ皇帝に負っていた。勇敢な総督とは稀で、実のところは前例のない事柄には拘わりたくないというのが本音であったろう。
 その典型的な例が総督ピラトの振る舞い。福音書でピラトは主イエスの潔白を知っていたが、その事実の前にユダヤの民が暴動を起こす可能性を恐れていた。暴動の勃発は今でいう管理運営能力の欠如を意味する。皇帝からの評価を下げるだけでなく、いのちすら奪われかねなかった。だからこそピラトは自らが下すべき判断を過越の祭の恩赦に転嫁し、群衆の前で手を洗ったりした。実に虚しい営み。この振る舞いの果てに、使徒信条の中でピラトは主イエスを苦しめた責任者として名を刻まれることとなった。
 総督フェリクスがピラトと異なる点はユダヤ人の女性ドルシラを伴侶としたこと。それはフェリクスがユダヤ教をより自らに引き寄せて考えていた可能性を導く。ゆえにこの総督はドルシラを通してパウロを呼びキリスト・イエスの信仰を尋ねた。パウロは大胆に神の正義、主にある節制、そして世の完成におけるところの主の審判について語った。その教えはフェリクスに恐怖の念を抱かせた。「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」。続いてフェリクスは「パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた」。むしろ鍵は「度々話し合っていた」である。これにはドルシラの後押しが大きかったろう。宮廷にあっても女性の地位は男性より低い。他方で新約聖書では女性が縦横無尽の働きと活躍を見せる。例えばマリアは、主イエスの誕生を受けて讃美を歌うが、その言葉には救い主の訪れの前での世の力の無力化が歌われる。初代教会の終末論的な讃美にフェリクスは聞く耳を持っていたからこそ、その恐ろしさに震えあがった。問題はその後。パウロと同じくイエスの焼き印を、フェリクスが身に帯びるかどうか。これがフェリクスに課せられた課題であり、その課題の行方をドルシラは見届ける。世の力に翻弄されながらも、厚い雲から差し込む光や乾いた大地を潤す雨のような主の恵みに包まれた私たち。その恵みに応じつつ新しい一週間を踏みだそう。

2016年9月4日日曜日

2016年9月4日「囚われの身にある自由」稲山聖修牧師

聖書箇所:使徒言行録24章10~23節

 パウロを暗殺者から守るため千人隊長が護送するための備えは百人隊長二名。歩兵二百名、騎兵七十名、補充兵二百名。併せて四七〇名の部隊を編成する。いのちの危機に晒されている一ローマ市民を守るには、千人隊長としてこれだけの備えをするのが務め。加えて千人隊長の記した手紙にはその時代の総督の名が記される。それはピラトではなくフェリクス。手紙通りに兵士たちは「皇帝の街」との意味をもつカイザリアまでパウロを護送する。物語の舞台はエルサレムではなく、ローマ帝国の植民都市カイザリア。この街はユダヤ人の情念からは自由であり、神の前に世の力が公正に振る舞えるかが試される。大祭司とてこの街では権力を思うままに振るえない。24章の2節から4節までは、その時代のローマの総督が、その支配地において権力が絶大だったことがよく分かる。その上での今朝の話。
 「実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者である」との訴え。当時初代教会が、ユダヤ教徒やキリスト教とは直接接点のない人々からどのように観られていたかが分る。『ナザレ人の分派』とはナザレのイエスの分派を意味する。この箇所で一層気づかされるべきは、ローマ市民でも公に権威を認められた者でもなく富裕層でもないかたちを救い主は纏っていた事実。大祭司アナニアとは異なりパウロには弁明の機会が赦される。10節からのパウロの弁明に則せば、礼拝のためエルサレムに上ってから12日しか立っていない。この間どこにあっても、私が論争したり群衆を扇動したりするのを観た者はいない。更に告発の件に証拠を挙げている者は誰もいない。つまりパウロはローマの法律の前には潔白なのだ。
 このゆえに総督は次のような留保をする。それはピラトの二の舞をしないように、決断を直ちに下さず「千人隊長がカイザリアに到着するまで、裁判を延期する」。さらにパウロの監禁を百人隊長に命じた。それはパウロを暗殺者から保護するため。だからこそ自由を与え、友人たちが彼の世話をするのを妨げないようにする。つまり総督公認の下パウロは使徒としての活動が保証された。囚われの身に己をやつして、パウロは千載一遇の機会を神さまから授かった。イエスの焼印を押されたパウロにはいつも平安と自由があった。この平安に私たちも立つのである。