聖書箇所:使徒言行録15章1~5節
パウロとバルナバの働きに、ユダヤ教の意識強い群れから「待った」がかかる。「ある人々がユダヤから下ってきて、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた」。救いの理解について袂を分かとうとする人々がエルサレムに集まった。「ファリサイ派から信者になった人が数名立って、『異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ』と言った」との記事から、パウロとバルナバと批判した人々が、ファリサイ派との関わりを暗示する。しかしパウロも「ファリサイ派から信者になった人々」の一人であった。
事態の深刻さは、ガラテヤの信徒への手紙1章8節から9節の記事からも推し量れる。「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」。ギリシア語で呪いを示す「アナテマ」の意味は「滅ぼす」、後の教会では破門をも意味する。
昨年来、泉北ニュータウン教会の主任担任教師として赴任して一年が経とうとしている。先代が退任された理由には、教会の刷新というまことに重大なテーマが含まれていた。託された役目に関して申しあげれば、今は見極めの時と備えの時。私たちは困難な時代に敢えてその変貌のわざにじっくりと取り組む。性急な変革には常に排除が伴うからだ。アナテマと言い得たのは危機的状況下に真理問題が脅かされた初代教会だったからこそ。真理問題について原理的には分っていても、私たちにはその場の雰囲気に巻き込まれ、本来言わなければならない事柄に沈黙する弱さがある。真理問題を曖昧にしないために、かつて教えられたことをより発展させていくために、今は奉仕のわざとともに学びを深めなければならない。それは、イエス・キリストの歩みを問い尋ねることに他ならない。主イエスが「わたし」だけでなく「あなた」の苦しみを一身に担われた出来事への確信なしには教会は成り立たないのである。
2016年2月28日日曜日
2016年2月21日日曜日
2016年2月21日「早春音楽伝道礼拝ショートメッセージ」稲山聖修牧師
聖書箇所:コリントの信徒への手紙二.12章9節
ほんの数秒間の出来事とともに、人生の全てが変わり果ててしまう。本日の合唱で歌われた曲の詩を作られた星野富弘さん。24歳、群馬県・高崎市立の中学に体育教師として着任して二ヶ月後、体操部の模範演技中の事故で頸椎を損傷し、肩から下の機能を失ってしまう。1970年、高度経済成長期にあたる昭和45年のこと。急速に経済発展を遂げる社会の中で、人は「役に立つか、役立たぬか」とのふるいにかけられる。そして経済成長に貢献できない者は片隅に追いやられていく。身体に障害を負った方には、その意味で自らを受け入れるのがまことに困難な時代であったはずだ。星野さんは9年間におよぶ入院生活の間に、口にくわえた筆で水彩画、ペン画を描き始め、後に詩を加え、退院後は「花の詩歌集」として数々の作品を創作されるにいたった。それは、時代のあり方を憂うる人を軸に深い共感の輪を広げていった。
星野さんの詩には「暗く長い土の中の時代にあった。いのちがけで芽生えた時もあった。しかし草は、そういった昔をひとことも語らず、もっとも美しい今だけを見せている」とのごく短い作品もある。実に短い詩、アフォリズムにも似た詩でありながら、その言葉は期せずして今の時代の現実をも浮き彫りにしながら、涙に暮れる人々を力強く励ます。暗く長い土の中の時代。それはどのような時代だったろうか。いのちがけで芽生えた時、それはどんな瞬間だったろうか。その果てに記されるのは、花ではなく草。
世に草莽という言葉がある。有名な、鮮やかに花咲かせる人々ではなく、無名ながらも社会を根底から支えてきた人々を「草莽」と称する。「草は、そういった昔をひとことも語らず、もっとも美しい今だけを見せている」。春の嵐の過ぎた朝。アスファルトを突き破って咲くたんぽぽの力。人の抑圧を突き破る神の愛の力をそこに観た詩人。「わたしの恵みはあなたに充分だ。力は弱さの中で十分に発揮されるのだ」とパウロは語る。今朝は早春音楽伝道礼拝。病床で聖書に触れた星野富弘さんを思い出しつつ、礼拝をともにしたい。春の雨ととともに、大地に深く根を下ろす草のような力を注いでくださる主なる神に、これからの一週間を委ね、いのちの勝利を確信しながら苦難の道を恐れなかった主イエスの十字架を仰ぐ者として。
ほんの数秒間の出来事とともに、人生の全てが変わり果ててしまう。本日の合唱で歌われた曲の詩を作られた星野富弘さん。24歳、群馬県・高崎市立の中学に体育教師として着任して二ヶ月後、体操部の模範演技中の事故で頸椎を損傷し、肩から下の機能を失ってしまう。1970年、高度経済成長期にあたる昭和45年のこと。急速に経済発展を遂げる社会の中で、人は「役に立つか、役立たぬか」とのふるいにかけられる。そして経済成長に貢献できない者は片隅に追いやられていく。身体に障害を負った方には、その意味で自らを受け入れるのがまことに困難な時代であったはずだ。星野さんは9年間におよぶ入院生活の間に、口にくわえた筆で水彩画、ペン画を描き始め、後に詩を加え、退院後は「花の詩歌集」として数々の作品を創作されるにいたった。それは、時代のあり方を憂うる人を軸に深い共感の輪を広げていった。
星野さんの詩には「暗く長い土の中の時代にあった。いのちがけで芽生えた時もあった。しかし草は、そういった昔をひとことも語らず、もっとも美しい今だけを見せている」とのごく短い作品もある。実に短い詩、アフォリズムにも似た詩でありながら、その言葉は期せずして今の時代の現実をも浮き彫りにしながら、涙に暮れる人々を力強く励ます。暗く長い土の中の時代。それはどのような時代だったろうか。いのちがけで芽生えた時、それはどんな瞬間だったろうか。その果てに記されるのは、花ではなく草。
世に草莽という言葉がある。有名な、鮮やかに花咲かせる人々ではなく、無名ながらも社会を根底から支えてきた人々を「草莽」と称する。「草は、そういった昔をひとことも語らず、もっとも美しい今だけを見せている」。春の嵐の過ぎた朝。アスファルトを突き破って咲くたんぽぽの力。人の抑圧を突き破る神の愛の力をそこに観た詩人。「わたしの恵みはあなたに充分だ。力は弱さの中で十分に発揮されるのだ」とパウロは語る。今朝は早春音楽伝道礼拝。病床で聖書に触れた星野富弘さんを思い出しつつ、礼拝をともにしたい。春の雨ととともに、大地に深く根を下ろす草のような力を注いでくださる主なる神に、これからの一週間を委ね、いのちの勝利を確信しながら苦難の道を恐れなかった主イエスの十字架を仰ぐ者として。
2016年2月14日日曜日
2016年2月14日「もろ手をあげて主なる神を讃え続けよう」稲山聖修牧師
聖書箇所:使徒言行録14章1~20節
ピシディアのアンティオキア、イコニオンで失敗に終わったかのようなパウロとバルナバの宣教活動。実は活動にはこれまで見られなかった力強さが備えられている。それは13章46節と14章3節には「勇敢に」語った、と記される。これからの旅の見通しが、駄目になるかもしれない中で、神の力を全面的に信頼する中で沸き立つ凄み。その凄みを帯びた言葉は、時には殺意すら引き起こす。例えばイコニオンでは、互いに牽制し合っていた異邦人とユダヤ人が「一緒になって」二人に石を投げつけようとする。古代ユダヤ教の倣いでは石打とは処刑を意味する。二人は首の皮一枚で難を逃れる。この道こそ伝道旅行の新たな道を開拓する。二人の使徒は同調圧力には決して屈しない。
それはリストラで起きた出来事でも何ら変わらない。先天的に足の不自由な男性にパウロは大声で「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と語る。この癒しのわざがきっかけになり、パウロとバルナバは「生き神様」として群衆に祭りあげられる。その直後には、ピシディアのアンティオキアとイオニコンからやってきた憎悪に燃えた人々が、直ちに群衆を抱き込んでパウロに石を投げつけて気を失わせる。
祭りあげるわざも見くだす態度も、誠実に相手に向き合う姿勢とは言い難い。いつのまにか、かけがえのない交わりが、重苦しいしがらみと化していく。私たちは受難節の日曜日を迎えた。教会がしがらみに満ちたただの集まりか、十字架の苦しみと死を通して世をあるがまま映し出し、いのちの勝利をお示しになったイエス・キリストを仰ぐ群れなのかを確かめる季節を迎えた。本日の説教題は「もろ手をあげて主なる神を讃え続けよう」とある。モーセが民を祝福し導いた際に献げた祈りの姿勢に倣っているともいわれる祝祷の姿勢。これは神に向けて、あらゆる抗いを止めること、降参することを同時に示しているという。主に委ねるとは、それまで心に根を下ろしてきた倣いや伝統を全て神に返却することである。泉北ニュータウン教会のこれからは、一重に「もろ手をあげて主なる神を讃え続けられるか」否か、二心なく隣人に仕えることができるか否かにかかっている。時代の闇を恐れずに教会は旅を続けてきた。福音を恥としなかったパウロ。失敗を恐れぬ勇気と大胆さは、その恥知らずな姿から始まる。
ピシディアのアンティオキア、イコニオンで失敗に終わったかのようなパウロとバルナバの宣教活動。実は活動にはこれまで見られなかった力強さが備えられている。それは13章46節と14章3節には「勇敢に」語った、と記される。これからの旅の見通しが、駄目になるかもしれない中で、神の力を全面的に信頼する中で沸き立つ凄み。その凄みを帯びた言葉は、時には殺意すら引き起こす。例えばイコニオンでは、互いに牽制し合っていた異邦人とユダヤ人が「一緒になって」二人に石を投げつけようとする。古代ユダヤ教の倣いでは石打とは処刑を意味する。二人は首の皮一枚で難を逃れる。この道こそ伝道旅行の新たな道を開拓する。二人の使徒は同調圧力には決して屈しない。
それはリストラで起きた出来事でも何ら変わらない。先天的に足の不自由な男性にパウロは大声で「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と語る。この癒しのわざがきっかけになり、パウロとバルナバは「生き神様」として群衆に祭りあげられる。その直後には、ピシディアのアンティオキアとイオニコンからやってきた憎悪に燃えた人々が、直ちに群衆を抱き込んでパウロに石を投げつけて気を失わせる。
祭りあげるわざも見くだす態度も、誠実に相手に向き合う姿勢とは言い難い。いつのまにか、かけがえのない交わりが、重苦しいしがらみと化していく。私たちは受難節の日曜日を迎えた。教会がしがらみに満ちたただの集まりか、十字架の苦しみと死を通して世をあるがまま映し出し、いのちの勝利をお示しになったイエス・キリストを仰ぐ群れなのかを確かめる季節を迎えた。本日の説教題は「もろ手をあげて主なる神を讃え続けよう」とある。モーセが民を祝福し導いた際に献げた祈りの姿勢に倣っているともいわれる祝祷の姿勢。これは神に向けて、あらゆる抗いを止めること、降参することを同時に示しているという。主に委ねるとは、それまで心に根を下ろしてきた倣いや伝統を全て神に返却することである。泉北ニュータウン教会のこれからは、一重に「もろ手をあげて主なる神を讃え続けられるか」否か、二心なく隣人に仕えることができるか否かにかかっている。時代の闇を恐れずに教会は旅を続けてきた。福音を恥としなかったパウロ。失敗を恐れぬ勇気と大胆さは、その恥知らずな姿から始まる。
2016年2月7日日曜日
2016年2月7日「もう一つのふるさとへ」稲山聖修牧師
聖書箇所:使徒言行録13章13~25節
ピシディアのアンティオキアの会堂で、パウロが語るイスラエルの民の歴史は、出エジプト記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記へといたる。これは神に選ばれたはずのイスラエルが本筋から外れていく影をも併せ持つ。特に王の時代を記すサムエル記に納められた「キシュの子サウル」の物語。サウル王は出身部族と改名以前のパウロの名に重なる「もう一人のサウロ」でもある。
サウル王の働きは目覚ましく、数多の勝利を手に入れる。次第に勝利に酔いしれていくサウル。戦の前の礼拝はサムエルの役目であるにも拘わらず、彼は勝手に犠牲を捧げる。王の職能が神からの預かり物であることを忘れたサウル。その結果人心が離れ孤独の中で病にいたる。神なき自己信頼と裏返しに、王の職能の重圧に押し潰されていく者の狂気と悲しみが露わとなる。魂の行き場を失ったサウルは口寄せを訪ね、世を去ったサムエルを呼び出しては「なすべき事を教えていただきたい」とすがる。答えは「主はあなたを離れ去り、敵となられた」。その後の合戦でサウルは自刃する。
このサウル王の生涯を間違いだと、神なき時代の誰が断じ得るというのか。安寧を貪ろうと王を求める民の歪みを背負うために油注がれたサウル王は、懸命にその役目を果たそうとして自滅したのだ。サウル王の過ちから学ぶことがあるとするならば、堂々と采配を振るうべき者が主への信頼を忘れ、その代わりに亡きサムエルを都合よく担ぎ出すくだり。この点を乗り越えていくのがパウロである。
初代教会には世を歩まれたイエスと出会い、十字架を前に立ち尽す他なかった群れと、聖霊の働きを通じ使徒として召された群れに分かれる。パウロは後者。教会への迫害を通し主イエスに生き方を転換させられた者。サウル王と同じくパウロも一度は死んだ身である。しかし紙一重の違いは救い主の訪れの確信に立つところ。パウロの説教ではキリストの贖いにサウル王も包まれる。
今朝も私たちはこの礼拝に招かれた。この礼拝こそもう一つのふるさとである「神の国」へと開かれた扉である。この扉から吹くいのちの息吹に充たされ、私たちは安らかに眠り、新たな旅を始められる。もう一つのアンティオキア、もう一人のサウロは、もう一つのふるさとへの道を示している。サウル王の悲劇と苦しみをも主イエスは担ってくださった。
ピシディアのアンティオキアの会堂で、パウロが語るイスラエルの民の歴史は、出エジプト記、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記へといたる。これは神に選ばれたはずのイスラエルが本筋から外れていく影をも併せ持つ。特に王の時代を記すサムエル記に納められた「キシュの子サウル」の物語。サウル王は出身部族と改名以前のパウロの名に重なる「もう一人のサウロ」でもある。
サウル王の働きは目覚ましく、数多の勝利を手に入れる。次第に勝利に酔いしれていくサウル。戦の前の礼拝はサムエルの役目であるにも拘わらず、彼は勝手に犠牲を捧げる。王の職能が神からの預かり物であることを忘れたサウル。その結果人心が離れ孤独の中で病にいたる。神なき自己信頼と裏返しに、王の職能の重圧に押し潰されていく者の狂気と悲しみが露わとなる。魂の行き場を失ったサウルは口寄せを訪ね、世を去ったサムエルを呼び出しては「なすべき事を教えていただきたい」とすがる。答えは「主はあなたを離れ去り、敵となられた」。その後の合戦でサウルは自刃する。
このサウル王の生涯を間違いだと、神なき時代の誰が断じ得るというのか。安寧を貪ろうと王を求める民の歪みを背負うために油注がれたサウル王は、懸命にその役目を果たそうとして自滅したのだ。サウル王の過ちから学ぶことがあるとするならば、堂々と采配を振るうべき者が主への信頼を忘れ、その代わりに亡きサムエルを都合よく担ぎ出すくだり。この点を乗り越えていくのがパウロである。
初代教会には世を歩まれたイエスと出会い、十字架を前に立ち尽す他なかった群れと、聖霊の働きを通じ使徒として召された群れに分かれる。パウロは後者。教会への迫害を通し主イエスに生き方を転換させられた者。サウル王と同じくパウロも一度は死んだ身である。しかし紙一重の違いは救い主の訪れの確信に立つところ。パウロの説教ではキリストの贖いにサウル王も包まれる。
今朝も私たちはこの礼拝に招かれた。この礼拝こそもう一つのふるさとである「神の国」へと開かれた扉である。この扉から吹くいのちの息吹に充たされ、私たちは安らかに眠り、新たな旅を始められる。もう一つのアンティオキア、もう一人のサウロは、もう一つのふるさとへの道を示している。サウル王の悲劇と苦しみをも主イエスは担ってくださった。
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