―聖霊降臨節第11主日礼拝―
時間:10時30分~説教=「十二弟子が旅立つとき」
稲山聖修牧師
聖書=『マタイによる福音書』10章1~15節
(新約17頁)
讃美=21-466(404),21-529(333),21-24聖書=『マタイによる福音書』10章1~15節
(新約17頁)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
酷暑が続きます。みなさまにはお具合いかがでしょうか。牧師は14日(木)には釜ヶ崎で内科医として献身的に働き、そして殺害された高崎南教会員矢島祥子さんに関するチラシ配布を西成区鶴見橋商店街で行いました。その折、目の前をナツアカネ(赤とんぼ)がすっと飛んでいくさまを見ました。暑さと豪雨の繰り返しで天気予報には気をつけなくてはなりませんが、それでも少しずつ季節は移ろっているのだなと実感いたしました。
今や下町の商店街には様々な国籍の方々が往来されています。受け取ってくださるかどうかは別として相手の目を見てにこやかに挨拶をすれば日本人以上にレスポンスを返してくださるのはありがたいところです。
本日の『マタイによる福音書』では人の子イエスが弟子を招き、汚れた霊を追い出す権能を授ける様子を描きます。集められたのはペトロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人マタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダの名があがります。イスカリオテのユダもまたこの箇所に記されているという点では、イエス・キリストのたどった苦難の道でのその振舞いが、ユダだけの責任に帰して問われているのではなく、十二弟子全体のありかたを問いかける徴として描かれています。
そしてその後の十二弟子に対する人の子イエスの言葉は次のように記されます。「異邦人の道に入ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた家の失われた羊のところへ行きなさい」。この箇所に触れて『聖書』をお読みの方は首を傾げるかもしれません。この福音書より10~20年ほど早くまとめられた『マルコによる福音書』では「まずこどもたちに十分食べさせなくてはならない」と語る人の子イエスに、悪霊に憑かれた娘を癒してほしいと願うギリシア人の女性が食いさがり、その結果福音書でいう悪霊が去る、則ち病が癒されるという物語が記されているからです。それでは諸国の民の間にある垣根を設けるようあえてイエスの命令として記さなければならない理由とはどこにあったのでしょうか。
『マタイによる福音書』ではこの垣根を越えていく神の愛のわざを決して軽々しくは扱いません。それは世にある人としてのイエスを知る弟子のなかに、ある人物の名が欠けているところからも明らかです。則ち、初代教会の立役者となった使徒パウロの名です。パウロは人の子としてのイエスとの面識はなく、イエスが昇天された後、聖霊降臨の出来事のなかで使徒となった弟子の口から救い主の生きざまと復活の出来事を知ったと伝わります。むしろこの人が律法学者サウロと称していた時代のほうが字義どおりにこの命令を受け入れやすかったことでしょう。それほどこの壁を破るために初代教会は深い痛みを経験しました。その象徴がユダの裏切りを経ての救い主の処刑です。同時にそれは十二弟子の離反をも示していました。しかしギリシア語で「パラドゥーナイ」とされるこのわざは「裏切る」というよりも「引き渡す」「委ねる」との訳が適切だと申します。そうしますと現代人の目からすればイスカリオテのユダよりも、使徒パウロのほうがより罪深く考えられます。そのパウロの働きを通して、広く異邦人にもサマリア人にも福音が宣べ伝えられ、神の深い愛がイエス・キリストの福音の核として伝えられました。ちなみに本日の箇所では、まだ弟子たちは救い主の苦難に満ちた歩みと十字架での死、そして復活の出来事の告知を人の子イエスからは受けていません。そこには素朴に人の子イエスに従おうとする人々の群れが描かれます。やがて神の国の訪れを前にして諸国の民の壁が打ち払われ、その時代すでにあったところの貨幣経済による貧富の格差も打ち破られていきます。だからあえて旅支度をせず「平和があるように」と挨拶を交しなさい、とあります。脆さも含めて弟子は派遣されます。争いや差別ではなく「主の平和」です。
どの旅の備えでも金銭は確かに重要です。ただ福音書のメッセージでは社会を循環し、分かちあうところのツールとして相対化され、そのものとしては神から授かったいのちを値づけしません。もちろんそれは礼拝の対象にもなりませんが、困難の中で金銀に目を奪われていく教会も多かったことでしょう。ユダはその躓きの徴として、他の弟子の破れとともに数えられます。他方でパウロを軸として異邦人とともに歩む教会は、復活したイエス・キリストとともに新たないのちの息吹を注がれてまいります。この二つの流れは、神の愛によってひとつにされ、今のわたしたちに流れ込んでまいります。主にある多様性の基には、いのちの尊厳への目覚めが、どのような人にも敬意を払える態度とともにあります。戦争の過ちを繰り返さないために他者への尊厳を求め祈ります。






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