2025年4月25日金曜日

2025年 4月27日(日) 礼拝 説教

―復活節第2主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「買収を拒む兵士たちの姿」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』28章11~15節
(新約60頁)

讃美=21-325(148),21-326(154),21-24(539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 人の子イエスの埋葬された墓に封印をして厳重な警戒にあたったものの、イエス・キリストの復活の出来事にすべてを台無しにされ「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」番兵たちの姿がありました。喜びではなく絶えず恐怖によって支配されたその判断力は主体性を失い、新たな命令を求めてエルサレムに戻ります。イエス・キリストに出会った女性たちが弟子のもとに到着するより先にエルサレムに戻ったとされるのも、番兵の狼狽ぶりを表わしています。祭司長も長老もその圧倒的な出来事を前にして即答できず、多額の金を与えて「『弟子たちが夜中にやって来て、寝ている間に死体を盗んで行った』と言え。総督の耳に入ってもうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう」と兵士を買収した上で虚偽報告の命令を重ねます。予想もしない出来事を前に言葉を失った名もない、いつでも斬り捨てられる番兵を人間扱いしていない、神の愛とは対極の姿が描かれているようにも映ります。

 実際にこのような虚偽報告や虚偽申告を強要される犯罪は、巧妙な詐欺が身近なところにある以上わたしたちとも無関係だとは断定できません。つい相手を信用したことで人生を棒に振ってしまった人々をわたしたちは直接ないし間接的に知っています。そしてそこには物事を多角的に検証する余裕のないところまでに追い詰められてしまった悲しみを観るのです。イスカリオテのユダでさえ無実の人の子イエスが十字架で処刑される不条理さに耐えきれず銀貨三十枚を手放しました。しかし他方で番兵は金を受け取り虚偽の噂を流すこととなりました。この人々は物事の判断の根を神以外に求めた態度ゆえに自由に語り、動き、仕える充実さと喜びを失いました。とは言えローマの兵士やエルサレムの警護にあたった番兵とはこのような者ばかりだったのでしょうか。

 ひと口に兵士と言ってもそこには個々人の織りなす多様な姿を福音書は描き出します。その描写は決して一様ではありません。人の子イエスが十字架で叫びをあげ息を引き取ったその折、処刑の現場監督でもあった百人隊長、そして見張りを担当した者はその姿を見て「本当にこの人は神の子だった」と呟きます。『マルコによる福音書』では百人隊長ひとりとなりますが、この言葉には地上の生涯にあったイエスに「あなたはメシアです」と答えたペトロとは根本的に異なる態度が示されます。古代ユダヤ教でのメシアは手に架けられて十字架刑で処刑・殺害されるなどあってはなりません。処刑の場に弟子の姿が描かれないのもそのような理由あってかと考えます。しかしかの百人隊長は十字架で息をひきとった救い主の姿を前にして「本当にこの人は神の子だった」と呟くのです。多くの罪人の処刑に立ち会ってきたこの下級将校である百人隊長の言葉の重みは別格です。

 また本日の福音書の8章では別の百人隊長が自らの僕の癒しを人の子イエスに懇願します。その真摯な態度に感心したイエスは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない」と語ります。イエス・キリストの愛はすでに支配者と圧政を受けている者の末端で苦しむ者双方に及んでいるのです。『使徒言行録』では言わずもがな、キリスト者となるローマ帝国の兵士や将校は後を絶ちません。

 もしもこの番兵たちがその後ピラトから復活したイエス・キリストを追跡するか、さもなければ失われたイエスの亡骸を捜せとの命令を受けたとするならば物語はどのような展開を見せるでしょうか。厳重に封をした墓が弟子に暴かれたのであればそれは番兵の失態でしょうし、極刑に処せられた者の遺体であれば監視者自身が処分されてもおかしくありません。もし番兵が復活したイエスの姿を追い求めていくとするならば、それはいつの間にか祭司長や長老たちの買収への囚われから離れて、イエス・キリストに従うわざへとそのあゆみは変えられ、清められていくものと確信します。もはや番兵たちの判断の尺度は買収の時に受け取った僅かな金子にではなく、出会った人々の語る復活したイエス・キリストの物語に根ざしてまいります。

 最近では若い世代で将来に「お金持ちになりたい」との夢を抱く人々が少なくないといわれるようになりました。金融関係や証券取引、仮想通貨も流行しています。しかしタブレットほどの大きさの金塊を見たとしても、わたしたちの心はそれほど動くでしょうか。それを私物化したいと思うでしょうか。『使徒言行録』でペトロは語ります。「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。きらびやかな財宝よりも強靭な力をわたしたちはイエス・キリストから授けられています。「ディール」という語が独り歩きしがちな世界をイエス・キリストの復活の出来事は揺り動かします。

2025年4月17日木曜日

2025年 4月20日(日) 礼拝 説教

  ―復活節 第1主日礼拝―

―イースター礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「復活の挨拶は『おはよう』」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』28 章1~10 節

讃美=146.21- 575. 
讃美ファイル3番「主の食卓を囲み」.
21- 24(Ⅰ539).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 イエス・キリストの復活の物語ほど、それぞれの福音書の個性が浮き彫りにされる箇所はないと言えます。『マルコによる福音書』の最古の写本では復活のイエス・キリストの姿は直接描かれず、扉の破られた墓を舞台に白い長い衣を着た若者の証言が記されます。『ルカによる福音書』ではエマオという村への途上、復活したイエス・キリストはそうとは知らない弟子と対話しながら旅路をともにし、そのあゆみはやがて『使徒言行録』へと引き継がれます。『ヨハネによる福音書』では墓の外に立ち涙を流すマグダラのマリアに姿を現わします。それぞれの信仰共同体のイエス・キリストの決定的な出来事が露わにされます。それでは本日の『マタイによる福音書』の物語はどこに特徴があるというのでしょうか。

 それは人の子イエスの墓が総督ピラトの合意のもと祭司長の命令により番兵に厳重に封印された墓である、という前置きです。『マタイによる福音書』ではヘロデ王という暴君のもとで救い主の誕生をなきものとするために多くの幼子たちが虐殺された記事があり、絶えずヨセフとマリア、幼子イエスは世の圧政に苦しむ人々と道筋をともにします。そして十字架での死の後に葬られるその最中にも世の圧政は未だに滅びることなく、表向きにはローマ帝国を味方につけた暴君が勝利したかのように映ります。

 しかしその闇に満ち、失意に満ちた静寂は、どのような世の権力でも抗えない力によって打ち破られます。安息日が終り朝日の光に明け初めるころ、大地震が起きたと記されます。その時代には地震とは天地の主なる神のみ可能なわざであると考えられていました。いわば天地もその時代には当然とされていた為政者による圧政も覆されたのです。それが「主の天使」が「天から降って近寄り」「石をわきへ転がした」と今まさに起きている事態として記され墓を封じる蓋が開きます。圧政と権力による封印もこの場面では無力です。これまで『マタイによる福音書』で天使が登場する場面とはクリスマス物語での人の子イエスの父ヨセフの夢の中、そして荒れ野での誘惑を退けた後に仕えるという仕方で描かれましたが、この箇所では「白い長い衣を着た若者」ではなく「天から降ってきた天使」の姿が描かれます。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」とは、かつて人の子イエスが山の上で誡めの授与者モーセ、そして神の言葉を預かる預言者エリヤと語らった際に表現される「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と記事が重なります。反対に番兵たちは恐怖のあまり震えあがり「死人のようになった」とあります。キリストの復活を前にして世の圧政が完全に無力化された事態が示されます。そしてその場にいたマグダラのマリアと恐らくはイエスの母マリアにこの天使は復活の出来事を語りかけ、弟子に「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と、イエス・キリストと弟子の出会いの原点となった場所へと導きます。そして「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」と他の福音書にはない言葉が続きます。復活の謎や畏怖について語る福音書の箇所は多いのですが、喜びを語る場面は本日の箇所に絞られます。人の子イエスが葬られた墓は女性たちには過ぎ去りました。このようなあまりにも非日常の出来事が次々と描かれるなかで、この二人の女性の前に復活したイエス、イエス・キリストがその行く手に立ち「おはよう」と至極日常的な、おそらくは十字架で殺害される前にはいつもそうだったように交わした挨拶とともに語りかけるのです。女性たちも弟子もガリラヤへ赴き、イエス・キリストと語らいます。復活の出来事を前にして無力になった兵士たちは、相も変わらずエルサレムで祭司長から買収され、虚偽申告を強要されます。その姿こそが死に体も同然というものです。神の愛の力はこのように圧政に甘んじる者たちを裸同然にしてまいります。総督ピラトもヘロデ大王もその例外ではありません。

 この復活の出来事の証言があるからこそ、出来事そのものから50年ほど経た福音書の書き手の時代の教会に関わる人々は、あまたの迫害にありながらも、この圧政はやがて終わりを告げるとの希望を抱くにいたります。わたしたちもまた、個人の力では如何ともしがたい暴力を伴う政治や不公正な世にあってなおも活きいきとした希望に包まれているものと確信できます。さまざまな身体的な限界を覚えながらも、なおも神の愛の証しを立てることができます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と復活したイエス・キリストはわたしたちに今も語りかけます。絶えずガリラヤの原点に立ち返り、日々いつもともにいる復活のキリストに背中を押されて、主なる神を讃美し、この日を祝いましょう。

2025年4月16日水曜日

2025年4月18日(金曜日) 夜 受難日礼拝 説教

―受難日礼拝―

時間:午後7時00分~

場所:泉北ニュータウン教会 カフェテリア

  

説教=「アリマタヤのヨセフの勇気」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』 15章 42~47節

讃美歌=136番 142番

礼拝当日、午後7時より
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【説教要旨】
 人の子イエスは社会のどん底で苦しむ人々を癒し、その苦しみが当然だと諦めるほかなかった人々を励まし、傷みを分かちあい、満たされる喜びをともにし、ユダヤ教徒・異邦の民の垣根を越えて主なる神の愛を、全身をもって証しされました。そしてその称賛の声が広まるほど世の力ある者たちはそのわざを危険視し、濡れ衣を着せて殺害を試み、そしてその計画は表向き成功を収めます。つまりイエス・キリストは一人の犯罪人として処理され、十字架で殺害されます。今宵の受難日礼拝はその抜き差しならぬ苦しみと痛みが誰のためであったのかを確かめるために執り行われます。

 苦難の頂点の象徴でもある十字架での死と、いのちの輝きに満ちた救い主としての復活の出来事。しかしわたしたちはこの十字架での死と復活の光の間には葬りのわざがあるのだとの福音書の記事を忘れがちです。この弔いにあたって福音書の書き手は初めて「アリマタヤのヨセフ」という人物を描きます。この人は『マルコによる福音書』では「アリマタヤ出身で身分の高い議員」、『マタイによる福音書』では「アリマタヤ出身の金持ちでヨセフ、イエスの弟子」、『ルカによる福音書』では「議員であり、善良な正しい人、同僚の決議や行動には同意しなかった」、『ヨハネによる福音書』では「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」と様々に解説されますが、いずれにせよ人の子イエスと親しい、その時代の相応の地位にいた人物だといえます。イエスの時代に近づく福音書の物語ほど、このヨセフの誠実な態度が描かれます。

 とくに本日の箇所では「この人も神の国を待ち望んでいた」とあるだけでなく、「勇気を出してピラトのところへ行き」「イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た」と記されています。この様子をわたしたちは祈りの中で思い浮かべたいところです。

 人の子イエスの亡骸は、荊の冠を被せられ、幾度も鞭打たれただけではなく手足を釘打たれて打撲と内臓の機能不全、全身から出血したままで放置されていました。しかも槍を身体に刺されてその死が確認されたことから、ほぼ身体は原型を留めていなかった可能性すらあります。人から言われなければこの人がイエスと分からないほど痛めつけられた遺体です。十字架刑は国家転覆罪をはじめ極めて悪質な死刑囚にのみ用いられるところから、もしアリマタヤのヨセフがファリサイ派の律法学者であれば自ら死刑囚イエスとの関係を公言しているようなもので、自らの立場だけでなく、仲間の律法学者からも「あの男の仲間」として訴追される恐れがあります。現代でも死刑を経た遺体が家族や身内からも異なる墓に葬られるのを常とされるのが当然です。

 さらには人の子イエスの処刑はローマ帝国の名の下で執行され、本来なら晒されるところです。ですから遺体の引き取りは総督ピラトのもとへ直々に願い出なければ不可能です。十二弟子はもはや姿を消しました。ファリサイ派の律法学者アリマタヤのヨセフだけが恐らくは兵卒や下役とともにイエスの亡骸を十字架から引き剥がし、手足に打たれた釘を抜き、亜麻布を巻いて遺体の姿を整えて、準備させた墓へと納めたのかもしれません。救い主がこのようなありさまになろうとは、当時のユダヤ教徒には到底考えられませんでした。だからこそアリマタヤのヨセフには社会的地位もいのちの危機もこの亡骸を前にしてはもはやどうでもよいものだと映っていたのかもしれません。ヨセフはイエス・キリストにすべてを賭けました。洗礼者ヨハネがそうであったように、この人こそ救い主であるとの確信あればこそ、です。

 さてイエス・キリストが葬られているあいだを「使徒信条」ではどのように表現しているでしょうか。それは「陰府にくだり」とあります。死後の世界について『旧約聖書』は神の国の訪れまで死者の亡骸は地の底で眠りについたままです。ギリシア語で描かれた世界には死後には死者の世界、天国には天の国があります。この陰府がわたしたちの文化でいう地獄であったらいかがでしょう。欧米文化でいう煉獄や氷で閉ざされた地獄であればどうでしょう。復活の出来事にいたるまでの三日の間、イエス・キリストは本来ならわたしたちが赴くべき阿鼻叫喚の場へと、まさしくその場に相応しい傷ついた身体とともに降られたこととなります。本来ならばわたしたちが永遠の炎によって焼かれるはずの場へとイエス・キリストは赴かれ、そして復活の備えをされます。イエスの両脇で十字架に架けられた強盗たちも、この場で救いに与るはずです。あらゆる絶望の闇を打ち破った神の愛の勝利がヨセフの行動を裏づけています。かの時の人々とともに祈りつつ復活の時をわたしたちも待ちましょう。

2025年4月10日木曜日

2025年 4月13日(日) 礼拝 説教

       ―受難節第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「自分を救わなかった人の子イエス」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』27章32~44節
(新共同訳聖書 57ページ)

讃美=21-306.(Ⅱ177)
Ⅱ.-182.21-24(Ⅰ539).

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【説教要旨】
 地中海に面した北アフリカ、現在はリビアの領内の一部を指すキレネ。現在ではキレナイカという名で知られています。地中海を北上すればギリシアやイタリア半島がありますが、多くの遺跡がありこの時代としてはかなり栄えた町であったかもしれません。この地域出身のユダヤ人シモンは海路・陸路を伝ってようやく念願かなってエルサレムへと過越祭を詣でに来たはずです。しかしキレネ人シモンが神殿へと続く沿道で目のあたりにしたのは、意味も訳も皆目分からずこれから十字の杭に打ちつけられて処刑されるところの、「ユダヤ人の王」と刻んだ板で罪状を告げられている人の子イエスでした。沿道には鞭打たれ傷だらけになったその人を囃したてる人々が人垣を作って口々に罵っています。旅人シモンにはこの様子は全く異様に映りますが、沿道の人々は体のよい見世物とばかりに囃し立てるばかりです。そして恐ろしいことにその様尋常ではない人々を制していたローマの兵士は、茫然とするシモンにイエスの背負う杭を「ともに背負うように」とばかりに無理やり担がせます。人の子イエスの十字架刑ほど不条理なものはないと感じるのですが、このシモンはそれ以上に驚愕と絶望を憶えたことでしょう。イエスの弟子はみな逃げました。見知らぬ傷だらけで無力な、それこそ苦しみのあまり悪態をつくなど一切ない死刑囚とあゆむこととなったのです。シモンのあゆみはエルサレムの神殿とは正反対の処刑場に到着し、そこでようやく解放されるのです。シモンにも立ち入れない一線がその先にはあります。

 それではその後にキレネ人シモンの五感に飛びこんできたのは何だったのでしょうか。それは見るも無惨な人の子イエスの姿とその体臭です。掲げられた罪状書を見なければその顔の表情すら分かりません。荒い呼吸のなか何も言わずに血と汗にまみれた木材を担いで運んでいるのです。幾度もいくども躓く姿にシモンは心痛を憶えずにはおれなかったことでしょう。それだけではありません。「ゴルゴダ:髑髏」と呼ばれる刑場に到着するや本来は苦痛を麻痺させる薬草を溶かし込んだ薬を服用させられます。しかし人の子イエスはそれを拒否します。訳も分からず処刑用の木材を担がされた出来事こそ、キレネ人シモンとイエス・キリストとの出会いでした。
それは人の子イエスよりも先に一人は右の、もう一人は左の十字架につけられた強盗の言動でした。両隣にはゼベダイの息子ではなく強盗がいたのですが、この二人が人の子イエスの両隣から罵るには「神の子なら、自分を救ってみろ、そして十字架から降りて来い」との声でした。そしてこの強盗の声と人の子イエスを罵る祭司長や律法学者、神殿の長老の声がともにイエスを侮辱していたのです。キレネ人シモンにはこれも衝撃的な出来事でした。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りてこい」。シモンには、悪人とは明らかに異なるこの人の子に、強盗の罵りと同じ言葉を、本来ならば尊敬に値するべき祭司長や律法学者、それに神殿の長老たちが浴びせている光景に衝撃を憶えたことでしょう。決してこのような場面は過越の祭を祝いに来たキレネ人シモンには出くわしたくない出来事でした。このように罵りや罵声の中に置かれながらシモンの人生はイエス・キリストの苦難の渦巻きへと、その深淵へと巻きこまれます。

 キレネ人シモンがその後どうなったのか、『マタイによる福音書』は記しません。しかし本日はこの箇所に紡ぎたい無名の人が記した詩を味わいたく存じます。「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさをあるいていた。暗い夜空に、これまでの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人分の足跡が遺されていた。ひとつはわたしの足跡、もうひとつは主の足跡だった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしはあの足跡に目を留めた。そこにはひとつの足跡しかなかった。わたしが人生でいちばんつらく、悲しいときだった。このことがわたしのこころを乱していたので、わたしはその悩みを主にお尋ねした。『主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたはすべての道とともにあゆみ、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばん辛いとき、ひとり分の足跡しかなかったのはなぜですか。いちばんあなたを必要としていたときに、あなたが、なぜわたしを捨てられたのか、わたしには分かりません』。主は囁かれた。『わたしの大切な子よ。わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに、足跡がひとつだったのは、わたしがあなたを背負っていたからだ』」。キレネ人シモンはこのようにして人の子イエスの苦難を分かちあい、やがて復活の報せを耳にして喜んだことでしょう。キレネ人シモンはこの出会いに不平を洩らさず沈黙を守ります。イエス・キリストが自らを救わなかったように。

2025年4月4日金曜日

2025年 4月6日(日) 礼拝 説教

        ―受難節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「たがいに支えあうために」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』20章20~29節

讃美=21-57(Ⅲ.5).
   21-463(Ⅰ 494).
   21-24(Ⅰ 539)
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 大阪市の学校給食を見てみますと、コッペパンが異様に大きく、トングひとつまみの酢の物のようなおかずに汁物、フルーツと牛乳という具合で、その少なさに驚かされるところがあります。牛乳と汁物を除く惣菜は耐熱プラスチック製のプレートに配膳されており、アルマイトのお椀に入れられていた時代からするとお代わりしづらい作りとなっています。もともと学校給食は欠食児童、つまり事情で昼食を摂れない児童のために当初はララ物資に始まり、後には公共の福祉という観点に基づいて児童の充分な発育に資する滋養の提供という動機に始まったはずですが、何事につけて民営化という行政の方針から21世紀に強まり、心配を要する時代となりました。脱脂粉乳や鯨肉がまずかったという時代は逆に豊かだったかも知れないとの逆説が生まれつつあります。

 公教育でさえそのようなありさまです。親御さんが「コストパフォーマンス」「タイムパフォーマンス」に惹かれたとしても無理からぬところがあるかもしれません。手っ取り早く成果をあげたいとの気持ちはあるでしょうが、その気持ちが焦るほどにこどもたちは友人や家族の絆をじっくり育むことが難しくなります。

 本日の『マタイによる福音書』の箇所ではゼベダイの子ヤコブとヨハネの母が、息子と一緒にイエスのところに来て願い事をしたとあります。12人の弟子の中でも特別の顧みを、との願いです。そしてその内容は神の愛による統治の際に「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れると仰ってください」というものでした。救い主に向けられた「神の統治の密約」とでもいうべきものかもしれません。しかしこの母は知りません。イエスは古代ユダヤ教で待ち焦がれた単なる一民族の解放者ではなく、すべての民を神の愛で包まれる方であり、そのためには十字架での死という苦い杯を呑まねばならないということを。ヤコブとヨハネの母が申し出たのは、神の国の私物化であり、人の手にその行く手を委ねられた「民営化された神の国」であり、その国で優劣をつけ、采配を振るうための競争が果てしなく続くという競争社会の延長でしかありません。けれども、わたしたちが自分の承認願望を満たすよりも先に、主なる神がわたしたちをお認めくださっているのですから、俄然事情はこの申し出とは異なってまいります。

 イエス・キリストのあゆみはそれまでのユダヤ教のメシアのイメージを根本から覆していきました。先だっては「山上での変容」の物語をみなさまとともにしましたが、カール・ヤスパースという精神医学者であり哲学者でもあり、かつその時代のドイツの全体主義政権を鋭く批判し続けた人物は、『旧約聖書』の預言者をして「聖なる統合失調症の罹患者」という表現をしました。多くの人びとからその主張が受け容れられなくても託された神の言葉を語り続け、停滞した雰囲気を読まず神の息を人々に吹き込もうとしたのが預言者でした。イエス・キリストはその時代の虐げられた人や心身ともに病み、まさしく重度の病に罹患した人とその孤独を十字架への道をたどりつつ癒していったのです。なにがしかの人の力や能力に依存するありかたは、結局は何者かを敵に仕立て上げなくては共同体を維持できません。もともと人類の共同体は飢えなり災害なり自らを脅かす事柄から身を守るために共同生活を始めたこともあり、これは避けられないことなのかもしれません。イエス・キリストは自ら排除されるその役を引き受けて「支配者への命令による服従」ではなく「仕えることの喜び」を、不穏な雰囲気に包まれた弟子の間に分かちあおうとされました。「大勢の群衆がイエスに従った」とある通りです。

 端的に申しあげれば「命令」とは人を一定の型や枠にはめ込もうとする試みであり、その枠や型にはめられない者は排除されていきます。病人、とりわけ心を病んだり知的な特性を否定的に見なされたりした人が、一般的な社会から遠ざけられていく悲劇は過去も現在も問いません。必ず誰かにしわ寄せが向かうように作られているのが命令のみに基づいた組織の特徴です。

 しかし「奉仕」には自発性があります。そしてお互いの特性を喜ぶ交わりがあります。祈りのうちにある吟味の中で、譬えその人が病に伏していても、その病を経なくては分からない世界をともにし、人を大切にする交わりが生まれます。その交わりを根底から支えてくださっているのがイエス・キリストです。イエス・キリストが人の子であったとき、誰からも理解されず仲間はずれにされていきました。恐るべき孤独の中で一人献げた「ゲツセマネの園での祈り」には、その場から逃げるか、主なる神に全てを委ねるかの極みがありました。その中で、イエス・キリストは苦い杯をお引き受けになったとの物語を尊びたいと願います。たがいに支えあうために。

2025年3月28日金曜日

2025年 3月30日(日) 礼拝 説教

        ―受難節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の愛は苦難を貫いて輝く」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』17章1~13節

讃美=526.515.21-88(Ⅱ255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
ヨーロッパの絵画やステンドグラスでもよく知られる「山上の変容」。わたしたちも聖日礼拝説教のテキストとして幾度もとりあげてまいりました。人の子イエスが弟子のペトロ、ヤコブとヨハネだけを連れて「高い山」に登られた、と記されます。この「高い山」とはユダヤの地域においてはヘルモン山ではないかと言われております。ヘルモン山は標高2814メートル、富士山のようにそびえる山というよりも、滋賀県の比良山のような尾根が連なるような姿。凹凸の続く山頂には雪が積もりその姿は日本アルプスの尾根のようでした。
 但し標高3000メートル近い山並みは遠くから観れば絶景なのですが、実際に登るとなるとかなり険しい山道ではなかったかと考えられます。遠くから観れば美しい連山も、実際に登ろうとするならば立入る者を拒むような場所も多かったと考えられます。
 そのような危うい場所に人の子イエスは立入ってまいります。弟子達はそこで異様な出来事を目のあたりにします。それは則ち、モーセとエリヤが現れ、太陽のように顔が輝き、衣が光のように白くなったイエス・キリストと語らっているという場面です。山に登った弟子が過労によってそのような幻を観たとは福音書は記しません。むしろ次のような解き明かしが可能です。モーセは『旧約聖書』の『律法(トーラー)』を体現し、そしてエリヤは『預言者の書(ネビイーム)』を代表する預言者であり、律法の完成と預言の実現を救い主イエス・キリストに見るという理解です。しかし果たしてそのような説明に終って充分なのでしょうか。
 思えばモーセもエリヤも神のいる山と深く関わった人物でした。モーセとエリヤは二人とも神の山ホレブとの関わりで結ばれています。モーセはその尾根でエジプトに苦しむ奴隷の解放のメッセージを託されました。その招きは圧倒的であり、モーセ自らの五回の拒絶を徹頭徹尾拒むものでした。イスラエルの民が奴隷解放のわざに不平を公言したとき、モーセは再びホレブの山で十戒を授かったとの物語が記されます。さらに預言者エリヤは神の誡めを忘れたアハブ王と妃イゼベルの追っ手から逃れるためにホレブ山へとたどり着きながら、疲れのために自らの死まで願ったものの、ホレブで御使いの養いと神の語りかけによって、イスラエルの民を神の御旨に気づかせるために新たに目覚め、力を授かります。モーセの物語もエリヤの物語も、恐らく『新約聖書』の舞台では伝説と化していたかもしれません。実のところモーセやエリヤが最も苦しんだのはイスラエルの民全体の神への猜疑心であり、鼻で息をする者しか見えなくなった人々の欲望でした。アハブ王もまたイスラエルの王でした。
 人の子イエスの弟子はこのような経緯を受けとめるにはあまりにも素朴な人々でもありました。それは人の子イエスの変容に驚愕したペトロが、この三人を奉るための小屋を建てようとする言動からも透けて見えます。「これはわたしの愛する子」と響く声はバプテスマのヨハネによる洗礼の折とは異なる畏れにあふれていました。さらにイエスは改めて自らの死と復活を語った上で、時を遠く経た時代にはモーセやエリヤが英雄化されるものの、実際のところイスラエルの民はこの二人を畏れ敬うどころか軽んじて好きなようにあしらったと語ります。この「好きなようにあしらう」との言葉は「なぶり者にする」「陵辱する」という、一切の尊厳を認めなかったとするまことに強い意味をもつ言葉です。
 『旧約聖書』に描かれる人間像を、もし神の愛なしに読み込もうとした場合、おそらくそこにはわたしたちがこれまで味わったことのないグロテスクな人間像が描かれていることでしょう。イエス・キリストはその道筋を神とともにあゆみ、隠された神の愛を人々に示すだけでなく、自らの苦難を通してその光で世を照らした救い主でした。初代教会がまずキリストの十字架への苦難と死、そして復活の出来事をクリスマス物語よりも先に置いたわけがそこにあるように感じられてなりません。顧みてわたしたちの交わりはいかがでしょうか。教会の交わり、もっと言えばキリスト教の世界にありながらグロテスクな人間像に辟易された方々はいないでしょうか。もしも行き詰まりを感じるならば、人の姿に理想を求めるのではなく、イエス・キリストがどのようなあゆみをたどられたかを繰り返し思い起こす祈りが求められます。その祈りは救い主が世に遣わされる前から、『旧約聖書』の時から一貫して流れる神の愛によるものです。この祈りに目覚める者は決して多くはありません。しかしその多くはない人々はイエス・キリストを通してやがて「地の塩・世の光」として「我知らずして」神の愛と出会い、豊かに用いられ、その途上で出会う人々を苦難から解放するのです。わたしたちもその群れに数えられています。


2025年3月21日金曜日

2025年 3月23日(日) 礼拝 説教

      ―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  



説教=「涙と挫折こそ信仰の目覚め」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』16章13~23節

讃美=243.21-441(268).
21-88(Ⅱ255).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
  福音書の場合、カイザリアと呼ばれる地域には、概してローマ帝国の軍隊の駐屯地、ならびにその駐屯地を中心にして栄えるユダヤ教徒ではない者たちが集い、繁栄する地域があちこちにありました。とりわけこの町に暮らすユダヤ教徒は絶えずローマ帝国からの圧制を肌身に感じずにはおれなかったことでしょうし、またその圧制に対するところの屈折した生き方や思いも様々であったことでしょう。ユダヤ教徒の暮らす集落には分断と裂け目がいたるところにあったと考えられます。

  そのような呻きの響く地域にあって人の子イエスは各々の弟子に住民の噂を問い尋ねます。噂とは一般には根拠のないもので別段気にする必要もないのですが、むしろその噂のなかに人々の置かれた事情を問い尋ねようとする真摯な向き合いを人の子イエスの姿に見出せるというものです。弟子たちは口々に申します。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。いずれもその時代に人々が求めた『旧約聖書』に記される預言者であり、人の子イエスとの深い関わりにあった「最後の預言者」と称された人々です。共通するのは主の御旨に沿わずに進む道を誤った民衆や、権力を誤って用い、重要な判断を違おうとする王や指導者層に対して諫言を発し、他方で虐げられた人々に神の国の訪れや癒しのわざを行った、「神の言葉」を預かるとして描かれた者でした。いわばその時代のユダヤ教徒には英雄視されていた人々の名が列をなし、その姿が人の子イエスに重ねられていたのも無理はなかったと申せましょう。

  「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。カイザリアの地域の人々の具合を踏まえて、あなたがたはどのように思うのかという、極めて内面に立入った問いかけを人の子イエスは弟子各々に突如として向けます。これまで従ってきた弟子には何を今さらという思いを抱いた者もいたかもしれませんが、そのようなざわめきを『マタイによる福音書』の書き手は第一には記しません。むしろシモン・ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という初代教会の信仰告白に連なるペトロの理解を引き出しながら、「あなたは幸いだ」と祝福した上で、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国での鍵を授ける」との、まことに力強い宣言です。ローマ・カトリック教会ではこの箇所をして初代の教皇がペトロであると主張し、他の教会教派への優越を説きます。

  しかしそれではこのペトロの「あなたはメシア、生ける神の子」との理解は主なる神の御旨に適ったものだったのでしょうか。なるほど言葉としてはその通りでしょうが、この後よりイエスは自分が必ずエルサレムへ行き、長老・祭司長・律法学者から多くの苦しみを受けて殺害され、三日目に復活すると話し始めます。残念なことにペトロは人の子イエスのこの発言が理解できません。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。そのようなペトロにイエスは振り向いて「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく戒められます。片やペトロは幸いだと祝福され、片やペトロは「サタン、引き下がれ」と戒められる、極めて揺れの激しい弟子であるとともに、わたしたちは初代の教皇というよりも、日々の自らの姿をペトロに重ねます。ペトロのメシア理解は誤っていたのであり、鼻で息をする者しか目に入らない者の、実に曖昧な思い込みでしかなかったとも申せます。

  思えば人の子イエスが身柄を拘束され、大祭司の家の中庭に連れてこられたとき、ペトロは鶏の鳴く前に三度イエス・キリストとの関わりを否定しました。しかしイエス・キリストはペトロとの関わりを否定するどころか、その態度に自らの預言の成就を見るだけでなく「わたしは決してあなたがたを見捨てることはない」との神の愛の証しを貫かれました。それは十字架の上で槍に刺し貫かれるよりも強い絆であり、歴史上の教会の分断の危機、交わりの分裂の危機を幾度もいくたびも救うという出来事に示されています。教会もまた、動揺するペトロのようにその態度を貫くことのできない、破れに満ちた交わりという一面ももっています。しかしだからこそわたしたちは、十字架につけられたイエス・キリストを仰ぎながら、「この人こそが救い主イエス・キリストなのだ」との確信を抱くのです。信仰とは個々人の思いや拠り所に留まらない、イエス・キリストとの関わりです。その関わりはいかなる試練のなかにあっても絶たれるどころか、却って強められる神の愛を示しています。