2025年10月25日土曜日

2025年 10月26日(日) 礼拝 説教

  ―降誕前第9主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「出会いは神こそがなせるわざ」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章2~12 節
(新約81頁)

讃美= -187.Ⅱ-167.21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
 「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。教会での結婚式のクライマックスである、新郎新婦が神の前で立てる約束。日本基督教団では本日の箇所から引用した聖句を式文として用いています。この箇所だけ切り取りますとまことに荘厳な響きのする一方で、実際の生活に酷く傷つけられた方々には胸傷む場合もあるに違いありません。

 しかし福音書のみならず『聖書』の記事を味わう上で要となりますのは、書かれた文章であるテキストだけでなく、文章としては必ずしも記されていないところの文脈です。この文脈とは物語上に限らず、その時代の生活文脈といったその時代の暮らしに迫るなかで明らかになります。

 そう考えますと「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という誓いの言葉が、ただならぬ緊張感とともに発せられたところに気がつきます。現代のわたしたちの暮らしとは異なり、福音書の重要な舞台となる古代ユダヤ教の世界では、現代の原理主義的なキリスト教やユダヤ教、イスラーム以上に女性は社会的にはその人格を認められていませんでした。なぜ現代の、と申しますと、現代では男女関における不平等というものは必ずジャーナリズムにより批判の俎上にあげられますが、この社会ではかような問題を俯瞰し、その是非を問うこと自体が社会のしくみを脅かすわざとして退けられていたからです。例えば律法学者たちによる裁判に際しては、女性はその発言を証言として重んじられはいたしませんでした。また『創世記』におけるところの族長物語が引用されながら、男性が女性に対してなかなか子を授からないからという理由で三行半をつけることもまた一定の常識の範囲に収まっていました。様々な病気に罹患したときにでさえ、他の口実によって突き放されるのも茶飯事です。なぜならば治癒できない病に罹患するのは、その人自らの「不信仰」または神に対する「不誠実」によると説明されたからです。女性が男性を見限るのは不正であっても、男性が女性を見捨てるのは認められていたという大きな問題がそうとはされないままに放置されていました。

 そのような見捨てられた女性たちを「やもめ」と呼ぶのであれば、イエス・キリストはまさにやもめたちと語らい、その痛みを癒し、謙ってその声に耳を傾けていました。当然それはその時代常識に反します。このような次第ですので常識の柱となる律法学者には目の上のたんこぶとなります。「夫が妻を離縁することは律法に適っているのか」という質問は人の子イエスの態度に向けた直接的な攻撃として今や向けられます。「モーセはあなたたちに何と命じたのか」問う人の子イエスに対する答えは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」。確かに『申命記』24章には「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」とあります。しかしこれは一方的な離婚を認めるというよりは、当時の夫による一方的な離縁にあたって妻が再婚権を失う問題を解決するため、女性に再婚の権利を保障するという意味合いもありました。「目には目、歯には歯」という同害復讐法が実は行き過ぎた刑罰を抑止するための法律であるにも拘わらず、復讐を正当化する解釈へと変容していったように、人の子イエスの時代にはこのような歪んだ解釈がまかり通っていたといえるでしょう。

 そのような律法学者に対して人のイエスは「天地創造物語」を引き合いに出します。つまり当時の時系列としてはモーセの登場よりもはるかに前「神は人を男と女とにお造りになった」「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と語ります。男性も女性もヘブライ語では「アダム」であり、家族のミニマムな単位は血縁のないパートナーとしての夫婦だというのです。だから11節では女性も男性もともに神の前で責任を担うこととなります。

 教会で行われる結婚式の誓いは、離縁についての教えから生まれたこと、則ち身を切り裂くような、うち捨てられた女性の悲しみをイエス・キリストが真正面から受けとめたところから始まります。現在、一人親世帯の経済的な困窮には、高度経済成長期以降、かつてないほどの苦難があります。それは律法学者による詭弁の素材とするにはあまりにも酷であります。しかし様々な痛みや迷いを経て、人はまた新たな出会いを授かってまいります。その出会いを神自らの光に照らして、イエス・キリストの導きに気づかされるとき、わたしたちは深い痛みの中で結ばれた絆を授けられるのではないでしょうか。その絆は何に基を置くのか。それが今問われています。

2025年10月15日水曜日

2025年 10月19日(日) 特別伝道礼拝 説教

―聖霊降臨節第20主日礼拝―

――特別伝道礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「死からいのちへ」
高木総平牧師

聖書=
『マルコによる福音書』4 章35 節
(新約68 頁)
『ヨハネの手紙Ⅰ』3 章14 節
(新約444 頁)

讃美= 21-57.21-575.21-27.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 盟友、渡辺君が牧した教会でこうして奉仕できますことをうれしく思います。
 まずマルコの「向こう岸に渡ろう」との呼びかけは、私たち一人一人への呼びかけ、教会への呼びかけとして受け止めたいと思います。ではなぜイエスはお命じになったのでしょうか。向こう岸に苦しんでいる人たちがいたからです。この人は墓場を住まいとしていました。墓場に住むというのは、生きながら死んだ人のように扱われていたと言えるのです。
かつて友人がフィリピンの教会に宣教師として派遣されたこともあり、最初は教会の青年や牧師たちに呼びかけて、学校に行ってからは生徒や学生、教員に呼びかけて何度もスタディツアーを行いました。ある時、フィリピン合同教会の礼拝に出た後、長老さんたちが支援をしている家族のところへ一緒に行こうということで出かけました。そこはお墓の中にあるスラムの一軒でした。このマルコの記事と同じ世界です。このお墓以外にもスラムに住まざるを得ない貧しい人たちが多くいます。生徒や学生にはよく言いました。決してその環境に屈しているのではなく、いのちのために戦っている人も忘れてはならないと。九州教区ではそれまでの欧米志向を反省しアジアに目を向けようということで始まりました。ここでいう向こう岸でありました。その中で生き生きと目が輝いている子どもたちから大切なものを教えられました。
 また同時に臨床心理士として子どもや青年、時に大人の苦しみ、悩みにかかわることからも、豊かさや便利さを追求してきたこの社会の病める部分を強く感じるようになりました。そのような価値観の中で、この言葉でいうといろいろな「向こう岸」を作ってきたのではないかと思います。特にマイナスと思えることです。死や老い、病気や障害、特に悩むこと苦しむこと、失敗することなどです。宗教も多くの人にとってそうかもしれません。不登校生の高校生が「うちには宗教がない」と叫んだそうです。今のこの社会への大きな問いです。またこの日本の子どもたちの自尊感が他の国々より低いという調査もあります。
 自殺ということではどうでしょうか。私は自死と言った方がいいと思います。この国は先進国の中では自殺者が多いのです。特に気になるのが19歳以下の自殺者の多さには心が痛みます。人は追い込まれたり、いろいろ不幸なことが重なると死を考えるものです。その根底にはこの私など価値がないのだという思いがあることも考えられます。
 マイナスと思える苦難の極致である十字架の向こうに大きな救いがあるということがキリスト教の根本です。この社会は死を避ける文化だと恩師は言いました。少しは変わりつつありますが、まだまだです。死は決して決して暗い恐ろしいものではない、これが十字架の死から復活へと進まれたイエスが明確に強く示してくださったのです。死者も私たちも大きな御手の中にあります。天に帰った渡辺君は今も語り続けています。
 そのいのちを創りだされた神が、いのちに生きることを望んでおられる。それはマイナスと思えること、失敗すること、悩み苦しむこと、病むこと、障がいを持つこと、老いること、そして死ぬこと、それらに向き合うこと、社会の問題に向き合うこと、向こう岸にわたること、そこにいのちに至る道があると教えられます。

2025年10月11日土曜日

2025年 10月12日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第19主日礼拝―

――神学校日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「汗水流して働く者はみな仲間」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』20 章1~16 節
(新約38頁) 

讃美= 21-521(344),504,21-27.
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動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 21世紀も四半世紀を過ぎた現在の就労環境は20世紀とは大きく異なり、社員一人ひとりの机は大抵がブースで仕切られています。会議をする場合には相応の部屋へ移動いたしますが通常は目の前にPCがあり、入社時に出勤を記録するタブレットを押して担当の机に座ります。職場環境はほぼ無音で隣に座る人との会話さえメールで行われます。その理由はハラスメント防止で、直接会話をすることすら憚れるところもあるそうです。会社勤務の人々が時に心を深く病むという場合、背景としてそのような設定もあるのかと考えます。

 さてさような状況とは逆に、本日の聖書箇所で描かれますのは汗を流して働くぶどう園の労働者の物語です。現在のような電算処理化などされておりませんから、本日の譬え話で描かれた世界には様々な臭いが立ちこめています。町行く人々の声、砂を巻きあげる風。乾燥した空気。照りつける太陽。描かれるのは正規雇用の人々ではなく日雇いの労働者です。「ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出ていった。主人は一日1デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った」。まず注目するのはぶどう園の経営者自ら労働者を集めるためにその場に出かけていく場面です。学生時分に釜ヶ崎に暮らしたわたしには、労働者を集めるのは手配師と呼ばれる人の役目であり、経営者自らがその場に赴くなどとは考えられません。その意味でも譬え話に登場するぶどう園の経営者は不思議な人物です。この経営者は9時ごろにも人々がたむろする広場にやってきます。この時間に広場に立っている人はその日の仕事にあぶれたといってよい者です。この人たちに経営者は「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と呼びかけます。これが正午と午後3時、そして午後5時と続きます。職を得られず「立ちんぼ」するしかない労働者に経営者が尋ねると「誰もやとってくれないのです」との呻きにも似た声をあげます。午後5時の労働者は完全に世の中から見捨てられた様子が分かります。

 しかしながらぶどう園の労働は決して楽ではありません。ぶどうがたわわに実る環境とは適度に乾燥しなおかつ日当たりの良い場所でなくてはなりません。存分に蔓が伸びるためには広大な土地が必要で、収穫物はぶどうの実だけでなく食用に適う葉、細工物に使用する蔓など見極める必要があります。雑草抜きや畝作りもあります。そのような農場に大した計画性もなく連れてこられるのが本日の日雇い労働者です。確かに夜明けに連れてこられた働き手は懸命に働いたことでしょう。ひょっとしたら次から次へと労働者をスカウトしたのは、過酷な農場での働きにローテーションを加えるためだったのかもしれません。しかしその憶測は一人の労働者の言葉によって打ち破られます。則ち「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」との不平です。しかしこの一風変わった経営者は次のように答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか」。このように答えるとは、あまりにも不思議です。この箇所をして「ベーシック・インカム」の雛形だと捉える人もおられますが、わたしはもう一歩立入って考えてみたいところがあります。それはこのぶどう園の経営者の真意とは、働いた成果に関心を寄せていたのではなく、この働きに関わる人の存在そのものが、それが誰であろうと、どのような特性をもっていようとも1デナリオンの値打ちを備えていたのではないかとの考えです。

 私事で恐縮ですが、わたしは15年余り前に天に召された母親を想い起こします。何度か申しあげましたが、母は1942年に現在の長春で生まれています。引揚げて後に結核性のカリエスを患いました。下に三人の弟たちがおりましたが、母の嫁いだ先は養鶏場。決して安定した職場ではなく、終には自宅を売り払って実家に移るという次第でした。しかし母が祖母の世話を献身的にしている間、経済的に苦しんだという経験は一度もありませんでしたし、そのような姿を見せることはありませんでした。弱さを抱える母とわたしたちを母方の兄弟が養っていたのです。しかし祖母が召され、母もわたしの実弟の弟とともに沖縄へ転居しましたところ状況は一変し、仲が良かったはずの母の兄弟は相続をめぐって争い、兄は61歳、次兄は58歳で召されました。表向きには役には立たない母のもつ弱さが家族を結びつける鍵となってはいなかったか。1デナリオンの重さを考える朝です。

2025年10月3日金曜日

2025年 10月5日(日) 礼拝 説教

―聖霊降臨節第18主日礼拝―

――世界聖餐日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「裸で生まれ、裸に還る」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』19 章13~23 節
(新約37頁) 

讃美= 74,21-155,讃美ファイル3,21-27
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【説教要旨】
 わたしたちは『聖書』の言葉を気持ちに併せて断片的に受けとめたり引用したりしがちですが、実は各々の段落がその連なりの中で新たに輝き始めもいたします。そういたしますとこれまで分かりきっていたかのように思えた言葉の響きに一層の深さを感じるにいたります。今朝の『聖書』では祝福を求めて集まってきた人々が弟子に叱られたところイエス・キリストが「こどもたちを来させなさい。わたしのところ来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」と諫める箇所が描かれ、続いて「金持ちの青年」の物語が描かれます。金持ちの青年が人の子イエスに「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と問いますと、その時代のユダヤ教徒であればこどものころから暗唱する「十戒」が論じられ「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と答えます。対してイエスは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と応じますが、青年はその声を聞いて悲しみながらその場を去る、つまりその時には人の子イエスからは直ちには祝福を授かれずに終ったというお話が描かれます。

 弟子たちに叱られたところのこどもを連れた人々と、豊かな資産をもった青年。実はこの物語はイエス・キリストを軸にして対比されているとも読みとれます。人の子イエスのもとに近づいてきた人々にしっかり手を結ばれたこどもたち。この大人たちとこどもたちとの関わりがどのようなものであったか、福音書ははっきりとは記しません。親子であったかもしれず、逆に血のつながりはなかったのかもしれません。しかし文章からすると弟子が歓迎せずに去らせようとしたところから極度に貧しいところに置かれたこどもたちだった線も色濃く考えられます。貧困層のこどもたちのいのちは、飢餓状態に置かれており明日をも知れません。中には栄養不足に由来する病に虫の息のこどもたちもいたかもしれません。事態はそこまで窮迫していたからこそ、人々は人の子イエスにこどもたちの癒しを求めてきたとも考えられます。

 他方で富める青年はこれまで十全な教育を受け、裕福な暮らしの中で学びを深めてきたからこそ「先生(ラビ)」と礼儀正しく呼びかけ人の子イエスに問いかけたと思われます。しかしイエスは問答や対話という仕方で青年に答えを授けようとはしません。むしろ全生活に及ぶ態度による応答を求めます。それは「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施す」というあり方です。つまり人の子イエスの左側には裕福な育ちをしてきた青年がおり、その右側には群衆出身の弟子でさえ退けようとした名も無き人々とこどもたちがいます。文章全体の構成から申しますと、イエス・キリストは富める青年に貧しいこどもたちへの富の再分配を促しているように思えます。現代の言葉で言い換えればキリスト自ら手を広げて神の「ノーブレス・オーブリッジ」、裕福な者は貧しい者に対して責任を担うというあり方を青年に求めているとは言えないでしょうか。現代では裕福な立場の者は何らかの財団を設立して収益の一部を社会貢献に用いて始めて「富める者」としての信頼を授かります。反対に富める者は貧しい人々に仕え交わるわざにより視野を広げ、その実りとして社会にその富と暮らしに必要な糧が行き渡ります。
 ただしイエス・キリストのこの求めはより深いところから湧き出ているようです。それは『旧約聖書』の『ヨブ記』に明らかです。義しい人ヨブは理不尽な苦難に遭う中、さらに息子達を自然災害で失います。その報せを聞いてヨブは衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言うのです。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった、とあります。『ヨナ書』と異なるあり方も、神の前に立つ人の姿として記されます。

 穀物の高騰が止まない現在、ときにわたしの家でも政府の支援米に伴侶が工夫して季節感を出そうとサツマイモやジャガイモを入れて併せ炊きする場合があります。すると戦争経験者の言葉とは反対に、栄養的にはバランスの取れたご飯が炊けてしまいます。食べる量こそ少なくなりましたが、ひもじさを覚えてはいません。その意味では自ら食するものを貧しい人々に差し出したかつての伝道者や闇米を拒み餓死した判事には及びません。しかし本日の聖書箇所をそのように読みますと、「児孫に美田を残さず」にも繋がる考え、則ち食前の祈りにおいて、わたしたちは世界中で困窮しているこどもたちと無縁ではないどころか深く関わっていることを思い出します。財産に執着する生き方もある一方で、貧しさを分かちあう生き方もあると今朝の御言葉から気づかされます。

2025年9月24日水曜日

2025年 9月28日(日) 礼拝 説教

         ―聖霊降臨節第17主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「弱さ」
吉村厚信補教師

聖書=『コリントの信徒への手紙Ⅱ』12 章1~10 節
(新約339頁)
讃美=21-529(333),21-579(355),21-26
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YouTube中継・編集動画メッセージは
担当者不在のため休止します。

【説教要旨】
本日の説教題、「弱さ」は、仕事で何か失敗したとき、上司に叱責されたりしたとき、部下に揶揄されたりしたとき、家庭で自分が家族に対してなにか引け目のあることで孤独になったとき、ご自身であれば御病気や御怪我をして心身ともに落ち込んでしまったとき、ときには絶望感に満たされること、など、ご自身の様々な状況で表出します。今日の聖書箇所コリントの信徒への手紙Ⅱ12:1-10は、使徒パウロが誇ることの愚かさを自ら自覚し自分を誇ることの無益さをお話するところから始まります。パウロは自分を第三者のように述べ始め「第三の天」(「楽園」)に引き上げられたパウロ自身と同時に「弱さ」を誇る自分がいることも表します。自身の弱さは個人的傲慢さも表現しています。自分の行為や発言は決して誇らず、「神から与えられた神の恵み」を誇り「弱さ以外に誇らない」のだ、と説明しています。6節では思い上がることのないように「とげ」が与えられます。三度のお祈り、そしてキリストの恵みが宿り拠りどころに出来る、だから大いに時分の弱さを誇れるのだ、とパウロは説きます。いちばんパウロが言いたいこと、それは「弱いときにこそ強い」という逆説。自分の力ではなくて、「キリストの力=恵み」がパウロを強くしてくれています。このパラドックスは、キリスト教が「救いの宗教」だからです。人間には原罪があります。それが人間の「弱さ」です。その結果が同じ人間なのにも拘わらず、戦争・殺人・貧困・人種差別・いじめなどを引き起こします。この問題を解決するには、道徳・倫理と言った人間の世界での解決は決して出来ません。聖書の中で、「いちばんの被害者はイエス・キリスト」です。人間の不安・嫉妬・憎しみ・怒りの犠牲として十字架に架かり、等しく隣人に寄り添う点に於いて人間の怒り・恐れ・憎しみを除きお互いを許し合う道に導きます。そのことが「キリストの恵み」として与えられるから、人はその弱さを「強さ」として誇れるのです。約2年間クリスチャン系介護施設でチャプレンとして業務、昨年6月から施設職員としても入居者の定期的病院送迎や施設内で食事介助に関わりました。同じくインド北東部ミゾラム州にクリスチャン若年層の方々対象に介護職員養成の一環としての日本語学校を設立、昨年10月から現地責任者として同州アイゾール市に赴任しました。学校は会社の都合によって6月末に閉校、9月からインドに残された生徒の就職支援に乗り出しています。縁あって北海教区浦河教会・元浦河教会も訪ね、障害者就労支援施設「ベテルの家」で研修滞在させて頂きました。様々な施設に関係しながらの牧会も視野に入れることが出来ました。現在就労支援B型作業所で利用者作業の見守りをしています。企業定年後、神学校修了後補教師で奉職しようとして挫折しましたが、そのあと申し上げた現場のその場面場面に遭遇したとき、足らない自分を前に施設の方々、作業所での知的障碍者・身体障碍者の方々の笑顔を頂いて寄り添わねばならない自分以上に力に支えられ「自分の弱さこそ故に、その方々にキリストを見る」、そのような出会いを頂いたように思いました。牧者の信徒への寄り添いとは、実は様々な方々の御支えによって、寄り添いを頂いて、「牧者は生かされているのだ」、という逆説を教えられます。神さまはそのことを教えて頂いています。


2025年9月18日木曜日

2025年 9月21日(日) 礼拝 説教

         ―聖霊降臨節第16主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「さまよう羊を追いかける羊飼い」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』18章10~14節
(新約35頁)
讃美=239,21-402(502),21-26
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 先日来阪した実弟家族と食卓を囲む機会を与えられました。弟夫妻が授かった一番歳下の女の子は小学校五年生、次男は中学生、そして長男は中学卒業後高校には進まずひたすら読書と武道に明け暮れる暮らしです。昭和の学校制度の枠組みが大きく変わる中で、思えば弟もわたしも集団行動が苦手であったと思い起こしながらの懇親の時でした。『聖書』の中で「羊」という言葉が用いられますとわたしたちはただ群れなす家畜であるかのようなイメージを抱きがちですが、人の子イエスの譬えに登場する羊の場合、現代でいうところの去勢がされてはいない羊が飼育されていたとの話も聞きます。そのような事情を踏まえますと、この時代の羊飼いという仕事は並大抵ではなかったようにも思います。羊飼いたちはわたしたちがいうところの「読み書きそろばん」を殆どの場合体得してはいません。しかし羊飼いは羊一匹いっぴきの性別や体格差、振舞いの特徴や表情を見抜いて名をつけ、その名を呼び、羊の群れを牧羊犬とともに統率していました。しかしその飼育が順調だったかどうかは分かりません。牧場の経営者と羊飼いの考え方の対立も否定できませんし、経営者は単に羊一匹を大事に扱うというより業務上の効率を求めていたと考える方が現実的です。

 そのような事情を知りながらも人の子イエスは次のような譬えを語ります。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」。もしこの場で羊を追いかける役目が経営者自らであれば、譬えこの一匹が迷い出たとしても、全体の損益を考えて迷い出た羊を放棄し、危険は冒さないとの判断を下すかも知れません。経営者には羊はあくまでも資源であり、全体におよぶリスク管理の観点からすれば九十九匹を残すとの判断を下したとしてもおかしくはありません。しかしわたしにはこの人の子イエスがこの譬え話で用いた「ある人」とは間違いなく羊飼いであったと映ります。その理由は、その動機が決して合理性では割り切れないところにあるからです。きっと様々な特性のある羊がいることでしょう。中には羊同士の衝突により群れから弾き飛ばされた生体もいたと考えられます。しかしこの場で描かれる羊飼いは合理的な計算ができない代わりに、迷い出た羊を追いかけてやまないのです。そして同時に見落としてはならないのは、その背中を九十九匹の羊たちもまた見つめているところにあります。この羊飼いの必死な姿を見て他の多くの羊たちも「人と家畜」という関係性を超えて、この羊飼いならば大丈夫だとの深い信頼と安心感を授かったのではないでしょうか。

 家畜を飼育しながらの暮らしは実に厳しい選択を強いられる場面に遭遇します。養鶏場を経営していたわたしの父方一族の場合、もし鶏舎に1羽でも病気に罹患した鶏が出たならば、その鶏舎すべての鶏を処分しなければなりません。しかもこれが一度ならず十年に一度のペースで起きる算段もしなくてはなりません。その都度経営者は保険や雇用など重要な判断を下します。そのような苦労を重ねた父親は精神のバランスを崩し虚言癖・失踪癖に走り、そして年老いた今は施設に入所しています。思えば十数年前鳥インフルエンザが流行したときに西日本大手の養鶏場経営者は自死、息子である社長がその責任を民事訴訟にて求められる事態となりました。迷い出た羊を追いかけるわざも過酷です。しかし「神に出来ないことはない」、とイエス・キリストは語ります。

 「これらの小さな者が一人でも滅びることは、わたしたちの天の父の御心ではない」とイエス・キリストが伝えようとする神の愛とは、自らあらゆる危険をわが身に担い、苦しみや痛みを負いながら多数の羊を活かすためにも一匹の羊を決して見殺しにはしない羊飼いの姿に重ねられてまいります。その姿は時として愚かであり、経営失格だとの烙印を世間や地域から押されるのかもしれません。しかし一匹の羊のために傷ついた足をひきずり歩くその姿に、わたしたちはただただ感謝の涙を流すほかはないのです。そのようにイエス・キリストは『聖書』を通してわたしたちに問いかけています。「わたしたちは羊の群れ」と『イザヤ書』53章6節を引用するならば、今は様々な毛や性格の羊がおり、溢れる数多の特性の羊が同じ草原に暮らしています。そのような羊一匹いっぴきの特性を見抜き、とかく争いや問題を起こしがちな交わりを平和に導きながら、キリストは更に広い草原へと導きます。わたしたちの置かれた牧場は決して狭く、居場所に窮してはいません。遠くの山の端から射す光に照らされ、わたしたちは羊飼いのもつ杖に導かれて歩みを重ねていきます。主の平安をともに祈りましょう。

2025年9月11日木曜日

2025年 9月14日(日) 礼拝 説教

        ―聖霊降臨節第15主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「神の輝く真珠を身につけて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章44~50節
(新約26頁)

讃美=
517,520,Ⅱ 192(1 節のみ),21-26
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 大和川から南をおもな範囲とする日本キリスト教団南海地区。個性的な教会が軒を連ねます。そのなかでもわたくしどもの教会と交流が活発なのは日本キリスト教団いずみ教会。いずみ教会の創立に関わる物語としてはその設立に携わった人々が被差別部落とその関係者による奉仕が知られています。2025年度からは吉澤和海牧師が主任として招聘され地域伝道に励まれております。その就任式に際して贈られたのは真珠がついたしおりでした。牧師の就任式に随分と高級なものをと驚いたのですが、実はそれは地域で生まれた「人工真珠」というものでした。

 和泉市の特産品となった人工真珠は、当初は小さなガラス玉に太刀魚の皮を貼り付けて製造した、本物の真珠に庶民の手が届かなかった時代に製造された真珠をいいます。この仕事は手作業で行われるのが殆どでしたが、風雨に負けず仕事を続けられる特徴から皮革業や屋外の作業が中心だった被差別部落の人びとが、天候に左右されない稀な職種でもありました。化学塗料や溶剤の臭いこそあれ、身体にかかる負担は大幅に軽減され、文化活動や社会活動に献げる時間、もっといえば礼拝に献げる時間を勝ち取っていったと申します。

 本日の『マタイによる福音書』には次のように記されます。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」。畑に隠されている宝、一粒の高価な真珠。このようなものは探そうとしても見つけられるものではなく、たまたまそこにあったものを見つけられるか、絶えず注意を払っているのか、いずれにしても世にいうリサーチの結果見つけられるというものではなく、二度と繰り返すことのできない出会いの機会、チャンスをものにできるかどうかという一点に懸かっています。その意味では文字通り一度きり与えられるものとして始めてその意味をなすものだと言えるでしょう。

 その意味で本日のたとえ話の結びとなる箇所は辛辣です。「網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる」。それから先には世の終わりのさまが記されますが、世の終わりの描写の直前にその時代の人々の暮らしが細かく描かれているのが興味深いところです。集められた「いろいろな魚」のうち、人々はその網を岸に上げて良い物と悪い物、則ち食用になるものとそうでないものとを仕分けするというのです。あえて深読みすれば、「魚」とは「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」とのギリシア語の頭文字を集めての略語でもありますから、教会に連なる人々がこのように仕分けされると記されるのですが、いったいどこにその基準があるのかは分かりません。そうなのです。この箇所で記される終末のあり方とは「全世界に福音が宣べ伝えられた」その後の出来事であって、わたしたちには知る由もありません。けれども天の国、則ち神の国の先取りとしての地に隠された宝、一粒のよい真珠という小さなかけらを尊ぶ仕方に気づくや否やという問いにつながってくるかと存じます。その道筋とは、祈りを軽んじず、イエス・キリストとの関わりを片時も離さないという点にあります。

 一粒のガラス玉に魚の皮を張り付け、樹脂でコーティングした人工真珠。その真珠が人々の暮らしを支えるだけでなく、事実上はカルシウムの塊である真珠というまことにデリケートかつ富裕層にのみ身につけることを赦されていた宝物がタフな姿で一気に民衆のお洒落になっていくという様子。工業用にも用いることができるという、本来の真珠では不可能な領域をも開拓していく道筋が拓けてまいります。貴重なまことの真珠をお持ちの方はその宝を大切にしてくださればと願います。そして手作業によって暮らしを成立たせた、日々差別を被るところの人々がもたらした人工真珠もまた、貧困層に属する人々の暮らしを底あげしました。その意味では富の分かちあいを通して神の国のモデルとなる交わりをもたらしたと言えるでしょう。神の輝く真珠がそこにあります。

 本日は「長寿感謝祝福式」を行います。様々な時の経過とあゆみの中で、神の国のかけらを見出してこられた兄弟がこの祝福に加えられます。イエス・キリストを通してこの祝福は、わたしたちにも注がれています。齢を重ねるのはまことに尊いわざです。これまででなくこれからもその賜物を用いてくださればと願います。