―待降節 第4主日礼拝―
――クリスマス礼拝――
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
わたしたちの住まう地であるこの国に、教会の建設が公に承認されたのは明治6年、1873年だと申します。当時は大日本帝国その姿はどこにもない、明治太政官新政府による近代化を急ぐ中、国際社会への仲間入りを望んでの政治的判断でした。それまで様々な弾圧があっても屈しなかったローマ・カトリックのいわゆる「切支丹」と呼ばれた方々には朗報でした。また貧しさ原因は努力不足にあるという自己責任論が当たり前だった時代に、貧民窟と揶揄された地域には新たに教会や様々な福祉施設が設立されていきます。宣教師は出身国のキリスト教の問題を知っていましたから、志を高く抱き、自分たちが本国ではなし得なかった開拓伝道の地として日本を訪れました。福祉の世界では身を削るようにして周囲から散財だとして誹謗されても、自宅を開放して孤児や貧しく病んでいる人々に仕える人々が登場するという新しい時代が訪れました。もちろん、現代の常識からすればまだまだ種々の問題があったとはいえ、であります。 ところで『マタイによる福音書』では、クリスマス物語が『ルカによる福音書』とは異なる調子で描かれるところにお気づきでしょうか。表向きには『ルカによる福音書』は「ローマ帝国とは異なる、神の愛の支配による救い主の教え」、『マタイによる福音書』では「古代ユダヤ教の世界に向けた宣教のわざ」という色合いが強調される機会がありますが、とくに『マタイによる福音書』では実のところ救い主の誕生をめぐる人間の葛藤の描写、それも普段は目にしない社会や人心の揺れ動きの描写に長けています。例えば救い主の誕生の箇所をめぐっては、マリアの救い主の懐胎が「聖霊による身ごもり」として一行で記され、旅の困難さやマリアをめぐる親族の物語には触れられません。その一方で、ヨセフの苦悩、則ち妊娠が明らかになった場合、マリアが晒し者にされて石打の刑に処せられるという恐怖の中で悶々とする様子が描かれ、マリアのいのちを守るそのために離縁を決意するという覚悟にまでいたる様子が描かれます。しかしその苦悩にあって見た夢の中で父ヨセフは主の天使のメッセージを授かり、厳粛な事実を受け容れ、『聖書』の約束が徐々に完成されていくという筋立てになります。さらにエルサレムの人々にあっては、ヘロデ王始めエルサレムの人々は東方の三博士の訪問に「不安を抱いた」と記され、ヘロデ大王にいたってはその王権を否定された怒りの中で不安のもとを絶とうとベツレヘムで虐殺行為にまで及び、間一髪でみどり児とマリア、そしてヨセフはエジプトへ逃れるという鳥肌もののお話が描かれます。ローマ帝国の皇帝を凌ぐ権能を与えられた救い主が、皇帝からすれば数のうちに入らない人々とその誕生の時からともにいたとの物語とは明らかに異なるのです。
わたしたちがまだ聞かない重要なメッセージがあるとすれば、主なる神は人間の裏も表もご存じであり、そのただ中に救い主を授けたときに全てが明らかになるという出来事が示されていると思うのです。つまり救い主イエス・キリストの誕生によってそれまで当然とされていた権力や社会の常識が大地震のように揺り動かされながらも、名もない人々には必ず逃れの道が備えられ、それは『旧約聖書』にある約束の完成でもあるとの理解です。
コロナ禍から五年を経た今、明治維新の時代のように世の中は大きく揺れ動いています。SNSで地球上のすべてが繋がったかのように思われた一方で、戦争や難民の人々に対する偏見が増し加わる時代。弱者叩きが当たり前のように思われる今、すべてを神の前に開き、その上で神の愛がそそがれるという、いのちといのちのつながりの育みが新しく生まれようとしています。わたしたちはその芽生えを飼葉桶に眠るイエス・キリストの誕生から気づかされ、新しい年への備えを始める勇気を主なる神から授かります。クリスマスおめでとうございます。