2024年12月18日水曜日

2024年 12月22日(日) 礼拝 説教

   ―待降節 第4主日礼拝―

――クリスマス礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「クリスマスのよろこび」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』1章18~25節
(新共同訳 新約  1 頁)

讃美= 99,106,103,讃美ファイル 3,21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
  わたしたちの住まう地であるこの国に、教会の建設が公に承認されたのは明治6年、1873年だと申します。当時は大日本帝国その姿はどこにもない、明治太政官新政府による近代化を急ぐ中、国際社会への仲間入りを望んでの政治的判断でした。それまで様々な弾圧があっても屈しなかったローマ・カトリックのいわゆる「切支丹」と呼ばれた方々には朗報でした。また貧しさ原因は努力不足にあるという自己責任論が当たり前だった時代に、貧民窟と揶揄された地域には新たに教会や様々な福祉施設が設立されていきます。宣教師は出身国のキリスト教の問題を知っていましたから、志を高く抱き、自分たちが本国ではなし得なかった開拓伝道の地として日本を訪れました。福祉の世界では身を削るようにして周囲から散財だとして誹謗されても、自宅を開放して孤児や貧しく病んでいる人々に仕える人々が登場するという新しい時代が訪れました。もちろん、現代の常識からすればまだまだ種々の問題があったとはいえ、であります。

 ところで『マタイによる福音書』では、クリスマス物語が『ルカによる福音書』とは異なる調子で描かれるところにお気づきでしょうか。表向きには『ルカによる福音書』は「ローマ帝国とは異なる、神の愛の支配による救い主の教え」、『マタイによる福音書』では「古代ユダヤ教の世界に向けた宣教のわざ」という色合いが強調される機会がありますが、とくに『マタイによる福音書』では実のところ救い主の誕生をめぐる人間の葛藤の描写、それも普段は目にしない社会や人心の揺れ動きの描写に長けています。例えば救い主の誕生の箇所をめぐっては、マリアの救い主の懐胎が「聖霊による身ごもり」として一行で記され、旅の困難さやマリアをめぐる親族の物語には触れられません。その一方で、ヨセフの苦悩、則ち妊娠が明らかになった場合、マリアが晒し者にされて石打の刑に処せられるという恐怖の中で悶々とする様子が描かれ、マリアのいのちを守るそのために離縁を決意するという覚悟にまでいたる様子が描かれます。しかしその苦悩にあって見た夢の中で父ヨセフは主の天使のメッセージを授かり、厳粛な事実を受け容れ、『聖書』の約束が徐々に完成されていくという筋立てになります。さらにエルサレムの人々にあっては、ヘロデ王始めエルサレムの人々は東方の三博士の訪問に「不安を抱いた」と記され、ヘロデ大王にいたってはその王権を否定された怒りの中で不安のもとを絶とうとベツレヘムで虐殺行為にまで及び、間一髪でみどり児とマリア、そしてヨセフはエジプトへ逃れるという鳥肌もののお話が描かれます。ローマ帝国の皇帝を凌ぐ権能を与えられた救い主が、皇帝からすれば数のうちに入らない人々とその誕生の時からともにいたとの物語とは明らかに異なるのです。

 わたしたちがまだ聞かない重要なメッセージがあるとすれば、主なる神は人間の裏も表もご存じであり、そのただ中に救い主を授けたときに全てが明らかになるという出来事が示されていると思うのです。つまり救い主イエス・キリストの誕生によってそれまで当然とされていた権力や社会の常識が大地震のように揺り動かされながらも、名もない人々には必ず逃れの道が備えられ、それは『旧約聖書』にある約束の完成でもあるとの理解です。

  コロナ禍から五年を経た今、明治維新の時代のように世の中は大きく揺れ動いています。SNSで地球上のすべてが繋がったかのように思われた一方で、戦争や難民の人々に対する偏見が増し加わる時代。弱者叩きが当たり前のように思われる今、すべてを神の前に開き、その上で神の愛がそそがれるという、いのちといのちのつながりの育みが新しく生まれようとしています。わたしたちはその芽生えを飼葉桶に眠るイエス・キリストの誕生から気づかされ、新しい年への備えを始める勇気を主なる神から授かります。クリスマスおめでとうございます。



2024年12月21日(土) 夜 クリスマスイヴ燭火礼拝 説教

ークリスマスイヴ燭火礼拝ー

時間:午後7時30分~


 

説教=「天使の観た世界とは」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』2章 1~12節

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 クリスマスは12月25日、クリスマスイヴは12月24日と倣いが決まっているもの、つまり固定聖日であるとの認識に基づいて、これまでの日本ではクリスマスがお祝いされました。しかし最近では他宗教への配慮という観点から「メリークリスマス」ではなく「ハッピーホリデー」との呼び方もされます。とはいえ日本でキリスト教はファッションとして、商業化された祝祭としての理解が殆ど。思えばムスリームやムスリーマへの偏見と差別も目立つようになりました。それだけに、教会のようにあえて日曜日、則ち聖日をクリスマス礼拝に指定する態度もひとつの表明かと考えます。むしろその方が大勢の人々が寝泊まりした宿屋からは相手にされなかった父ヨセフと母マリアの見守る中で、飼葉桶に安らうみどり児イエスの誕生を祝うには相応しいかもしれません。
 さて本日の週報をご覧になりますと、クリスマスに因んだ讃美歌が列挙されています。その中でこれまでの日本のクリスマスの讃美歌の倣いからは違和感を覚える歌はないでしょうか。そう、頌栄の「主よ、おいでください」と訳された讃美歌がそれです。『讃美歌21』には「アフリカ民謡」と記されます。しかしこれはアフリカ民謡ではありません。アフリカから北米大陸へと連れてこられたアフロ・アメリカン、黒人奴隷を先祖にもつアメリカ人が、祖母や祖父の代から大切してきた部族の歌、日本でいう民謡に己の生活状況を重ねて歌い継がれてきた讃美歌です。歌詞には今のところ四つの版があるそうですが「泣いている人がいます(Someone’s crying, my Lord, kumbay ya)」という歌詞を「嘆きを聞いてください、クンバーヤー(Hear me crying my Lord, kumbay ya)」とする版もあり、この訳ですと救い主を待ち望むという気持ちがより切実になります。また二つの歌詞を並べますと、悲しみに打ちひしがれている人と、その人に寄り添おうとする人との関係を歌う内容にもなります。クンバーヤーは「こちらに来てください」の意味で、歌う人々のキリストの訪れを待ち望む切々たる叫びです。キリストの救いを願い歌う讃美歌であり、飼葉桶のキリストを訪ねた人々を包むメロディーでもあり、今、人生の行方を前に途方に暮れている方々を包む歌声だとも言えます。

 「本当のクリスマスをあなたに」という種々のポスターを見かける季節でもありますが、本当のクリスマスとはいったい何でしょうか。それは「誰とともにいるのか」という問いかけに決してたじろがないクリスマスを指すのではないでしょうか。『聖書』のクリスマス物語に描かれる天使そのものは、神ではなく、人でもなく、救い主でもありません。けれども今なおわたしたちを見つめ、世の常識からすれば出会うことのなかった人々をイエス・キリストのもとに招き、勇気づけ、冷たい夜に熱い神の愛をそそぎ、明日への希望を告げ知らせた声ではなかったかと思います。イエス・キリストを通して、その声は今も人々に向けて主イエス・キリストの誕生を呼びかけています。

2024年12月11日水曜日

2024年 12月15日(日) 礼拝 説教

  ―待降節 第3主日礼拝―

――アドベント第3主日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 
説教=「牢獄から届くクリスマスの讃美の声」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』11 章2~9 節
(新共同訳 新約  19 頁)

讃美= 21-242,Ⅱ49,21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 牧師である以上、刑務所伝道とは無縁ではおれません。けれども刑務所内の懲役刑に服する人々との接見を赦されたり、宗教的な講話を行う「教誨師」という役職は法務省から委託されたりするものであり、自ら名乗りあげるわけにもまいりません。服役囚にはそれぞれの宗教サークルに属する自由があり、ある者は刑務官の監視のもとクリスマスを祝い、または経典の意味を僧侶に解説していただく機会が、他の労務に較べて緩やかに持たれていることは存じています。釈放されても前科のある者として過酷な前途が待つ人々が自暴自棄にならないためにはぜひとも欠かせないプログラムであろうかと考えます。

 しかし最近は「無敵の人」と呼ばれる人が刃傷沙汰を起こして収監されるケースが増えてきたと申します。一般社会の暮らしに絶望した人が刑務所に入りたいがために事件を起こし、その生活の中で安らぎを得るというものです。「刑務所は衣食住があたりまえであり、友人も仕事も娯楽も全て用意してもらえる。社会ではこれらを得るために努力しないといけないのだ。ところが刑務所は努力しなくてもよい。社会にいる時にあれだけほしかった食べ物、どうしても得ることができなかった食べ物が、ここでは食べないと食べてくださいとお願いされる。―略―仮釈放は怖い。もう二度とシャバ(社会)には出たくない」。虐待を受けるばかりの幼いころ、身内や知り合いの家を転々としたころ、ホームレス同然の暮らしを経た彼には失うものは何もありません。いずれは自分がどのような大ごとをしでかしたのかも忘れていく日々。新幹線の中で刃を振るった青年には、実質的な意味での無期懲役という量刑は意味をもちません。「無敵の人」則ち何も失うものがないとの絶望は人をかくまで追い詰めます。このような苦しみ喘ぐ人々の社会復帰には従来の自己責任論とは別の手立てが求められています。

 しかし洗礼者ヨハネは、そのような「無敵の人」ではありませんでした。失うものが何もないからこそ、その時代の古代ユダヤ教の権力者を批判したわけではありませんでした。洗礼者ヨハネには何もなかったのではなく、救い主が必ず訪れるとの確信がありました。『聖書』を神の言葉として受け容れる人にはそれが根拠になりましたし、侮る人々には故無き信仰からの言葉として響いたかも知れません。けれども洗礼者ヨハネは神の言葉にすべてを献げ、メッセージを語り続けました。そして彼は、ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスによって囚われの身になったのでした。彼にとっての牢とは、救い主の希望を待ち望むという祈りの場でした。しかし救い主が誰であるかに関しては覚束ないところあり、人の子イエスのわざを聞くに及んで弟子を遣わし尋ねます。「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、別の方を待たねばなりませんか」。「別の方を待たねばなりませんか」との言葉には、ヨハネの期待と不安が入り交じっています。それでこそ、純然たる神の希望を授かる側の、破れに満ちた心根の正直な告白です。弟子に託したこの言葉に、人の子イエスは自らの行いを淡々と語った後、「わたしに躓かない者は幸いである」と語ります。人の子イエスが淡々と語ったその内容は、本来であれば「無敵の人」を自称する者を慄かせ、別の道を備えるにあたり充分な証しとなっています。洗礼者ヨハネの弟子が帰ると、人の子イエスは語り始めます。「あなたがたは、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。いや、預言者以上の者である」。人の子イエスが、ヨハネを「預言者以上の者である」と民衆に語ったのは、人として世に現れた救い主イエス・キリストと直に関わり、直に清めの洗礼を授けたからに相違ありません。この話の延長線上で「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」との教えが記されます。

 ベツレヘムでマリアとヨセフが探し求めた宿屋。宿屋は街道沿いの道に面して建てられた旅人が身を寄せた場所です。往々にしてそのような宿屋は、異邦人や古代ユダヤ教の戒律とは縁の無い渡世人が身を寄せた場所であったかも知れません。その場にさえマリアが救い主を出産する場所はありませんでした。しかしだからといって、二人はボニーとクライドのような「無敵の人」にはなれませんでした。二人の授かったみどり児が救い主であり、「無敵の人」を「神を畏れる人」に転換する力を授かり、全ての人を囚われの身から解放するキリストであったことに、洗礼者ヨハネの声は見事に届きました。それはクリスマスの讃美の声へとつながっていきます。

2024年12月5日木曜日

2024年 12月8日(日) 礼拝 説教

  ―待降節 第2主日礼拝―

――アドベント第2主日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 

説教=「みどり児はキリストとして生まれた」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13章 53~58 節
(新共同訳 新約  27 頁)

讃美= 96,Ⅱ 119,21-28(545).
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【説教要旨】
 少しずつ歳末を迎えて、シャッター街が増えたと言われる現在でも、人通りの多い商店街はまだまだ健在です。改正道路交通法など気にせず、荷物を自転車に満載して行き交う人々の姿は今でも大阪の下町では健在です。物価が高くなるほど人々は少しでも安いものをとチラシを手にして買い出しに走ります。その慌ただしさはニュータウンの比ではないように思います。
 そのような時に教会のクリスマス関連のトラクトを配る人がいます。その多くが捨てられていきます。それでも人の波の潮目を見極めながら、家族連れやご高齢の方々に笑顔で接する人々は、虎視眈々と安売りの商品を買い求める群れとは異なる表情をしています。日々の暮らしに汲々としている人には分かりませんが、それでも分かる人には分かるという具合です。とは言え、イエス・キリストはどのような人のために生まれたかと申しあげれば、笑顔でトラクトを受けとる人だけでなく、暮らしに汲々としている人々のためにでもあります。
 それでは人の子イエスが譬えをもって教えを語った後に向かったナザレの村人はどのような人々だったのでしょうか。それは言わずもがな日々の暮らしに窮し、その暮らしに追われる他に道がなかったに違いありません。人の子イエスはその時代のユダヤ教の律法学者ではなく、言わんや牧師でも神父でもありません。人の子イエスもまたナザレの村では本来は大工という家業を継ぐべき若者であり、だからこそ次のように会堂で教えている人の子イエスの様子を見て語ります。「この人は、このような知恵とこの奇跡をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹達は皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」。
 暮らしに追われるナザレの村人の目に、人の子イエスがこのようにしか映らなかったとしても無理はなかったことでしょう。村人のこの言葉からは人の子イエスの家族構成こそ分かるものの、「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」という使徒パウロの言葉さえ響くかどうか考えるところです。しかし、それでこそ救い主が人の姿を見にまとって世に現れたという言葉がわたしたちに迫るのではないでしょうか。
 『ルカによる福音書』でイエスの母マリアと父ヨセフは徴税のための「住民登録」のために皇帝アウグストゥスの命令で、このナザレという村から故郷ベツレヘムへの旅を強要されました。皇帝の命令に無理強いされた旅人の群れに夫婦は身を置くほかありませんでした。そしていのちを身に宿したままの旅という危なさを経ながらも、この若い夫婦を迎え入れるはずの人々は故郷にはおりませんでした。どの宿屋からも客としてもてなしを受けず、親戚を頼るわけにもまいりませんでした。その中で飼い葉桶を初めての居場所としたのが人の子イエスだったのです。「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」という言葉に、今や神の愛の力が注がれます。使徒パウロは人の子としてのイエスとの出会いはなかったと言われています。しかし生活に汲々としながらもイエスを救い主だと仰ぐ人々を律法学者として弾圧しながらも、その後キリスト者とされた折に、人の子イエスの人物やイエスの起こした愛のわざ、そしてその教えとその生涯を他の弟子だけでなく、人の子イエスを知る多くの人々からその様子を聞いたとも言われています。人の子イエスと救い主イエス・キリストは決して分離はされません。
 わたしたちが世の事々、しかも多くが目を覆いたくなるような事々に気をとられたり、家族の不幸に身を置くほか術が無かったりしたときに「神さまあなたはどこにいるのですか」と涙ながらに嘆くほかない場合があります。また世の不正を糾すため懸命になってはみたものの、心身疲れ果てるばかりでなく、心すら病む場合もあります。家財を失ったときも同じです。そのようなときにこそ、飼い葉桶の中に横たわるみどり児が何者であるのかと問うてみてはいかがでしょうか。問いかけるうちに、そのみどり児がイエス・キリストであるとの確信を授かるはずではないでしょうか。飼い葉桶にみどり児を授かるとは、イエス・キリストを授かることに他なりません。この神の愛に裏づけられた出来事こそが、いかなる困難にも、いかなる悲しみにも、いかなる嘘偽りにも勝利するための足場となります。みどり児はキリストとしてお生まれになりました。誰からの苦言も疑問も遠ざける信実を、わたしたちはすでに授かりつつ、その日を待ち続けるのです。

2024年11月28日木曜日

2024年 12月1日(日) 礼拝 説教

  ―待降節 第1主日礼拝―

――アドベント第1主日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

 
説教=「目覚めの時が来た」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』 24 章 36~44 節
(新共同訳 新約 48頁)

讃美= 94,Ⅱ 112,21-28(545).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

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【説教要旨】
 人という生き物にある、他の動物にはない特徴の一つとして環境への適応力があります。確かに北極海と隣り合わせで凍った生肉を口にして初めてビタミンを得られるような環境にいても、赤道を跨ぐアマゾンにも、太陽があるときには70度、冬期は氷点下という砂漠地帯にも、漁獲量に頼って生きていくような地域でも、標高5000メートルの山岳地帯にも、そして道路がことごとくコンクリートに覆われ、高層ビルの一室でモニターディスプレイを見つめながら仕事をしなくてはならない環境でも、生きようとすれば人間は生きていくことができます。

  しかしこれは反面、その環境に他の動物よりも巧妙に「慣れる」技術があるという特性が発達しているだけで、それが正しいのかどうかというとそれは別の問題です。古代イスラエルの民はエジプトの王ファラオのもとで奴隷として人としての生き方を踏みにじられていましたが、その生き方に次第に慣れていった挙句、奴隷解放の神に導かれたモーセに幾度も反逆をいたします。それどころか奴隷生活のころがよかったと懐かしみもいたします。そのような人間の歪んだ一面を美化せずに生々しく描くのもまた『旧約聖書』の特徴です。

 それでは救い主イエスが世に誕生したときの人々の暮らしはどのようなものであったというのでしょうか。奇しくもそれは、紀元前にも、現代にいたるまでの紀元後の世界にも見られなかった地中海を囲む統一帝国が確立した時期と重なります。かつてのローマという小さな国が戦争に戦争を重ねて国を大きくさせ、人々を権力によって平定し平和を得るという一大事、その長たる者が「皇帝」を名乗る最初期にあたります。争いが続くよりは平和が維持されるほうが民の暮らしには確かによいには決まっていますが、それは何層にも重なる差別と、いのちのクラス分けによって成り立っていました。ローマ帝国の市民のいのちは属州の人々のいのちよりも重いという不条理、自由人のいのちは奴隷よりも重いという不条理。それがまかり通っていました。

 ことがいのちに及ぶにいたって、人々はようやくまどろみから目を覚まします。しかし問題はその覚まし方です。ローマ帝国による支配の時代に起きた反乱は、さしあたり数々の奴隷反乱としておきました。しかしそれはいつの間にか、剣闘士の死闘としてショービジネス化されることで見事にローマ帝国市民の娯楽になってしまいます。『使徒言行録』には、使徒パウロの師ガマリエルの口を通し使徒の働きに関して次のように語られ、その言葉が記されます。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分を何か偉い者のように言って立ち上がり、その数400人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされた。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。そこで今、申しあげたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、滅ぼすことはできない」。つまり、イエスがお生まれになったタイミングとはそれまでのローマの支配のあり方が大きく変わり、前にもまして民への支配が巧妙になった時であると言えます。だから人々はどうすれば分かりません。暴力による反乱がよいのか、それとも傍観を決め込むのがよいのか、それすらも知りません。おそらくは自らの仕事で汲々とするので精一杯であったことでしょう。ちょうど今のわたしたちのように。

 しかしイエス・キリストは本日の箇所で次のように語ります。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。

 泥棒とは明らかに犯罪者のことです。しかし家の主人が目を覚ましていたのであれば泥棒はその行為をなし得ません。ですから泥棒とはならないのです。この時代、泥棒や強盗と呼ばれる人々は物盗り以外には政治犯も含まれていました。そのように目を覚ましていたのが結果として聖霊によるみどり児の宿りを受け容れた母マリアであり、マリアの寝泊まりする場所を整え、ヘロデ大王を始めとする一族の魔の手から幼子を守り続けた父ヨセフであり、天使の声を確実に聞き取った羊飼い、そして三博士でした。誰も当時のいのちのランクからすれば底辺か門外漢の人々です。その底辺のいのちが救い主とともにあり、世の武力を凌ぐ天の大軍によって守られています。神の前にすべてのいのちが祝福されるという出来事がイエス・キリストの誕生を通して起きたのです。

2024年11月21日木曜日

2024年 11月24日(日) 礼拝 説教

   ―降誕前 第5主日礼拝―

――収穫感謝日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 
説教=「誰もが和解する実り」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』 25章31~40 節
(新共同訳 新約 50頁)

讃美= 21-530,506,21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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【説教要旨】
 路線バスに乗り、車窓に映る刈り入れの終った農地をぼんやり眺めておりますと突然「死後裁きに遭う」というような黒地に黄色のブリキの看板にどきっとさせられることがあります。『新約聖書』にも時々死後の世界を題材にした譬え話が描かれます。ですから「『聖書』では死後の世界はどのように描かれているのですか」「『亡くなった人は天国に行く人と地獄に行く人がいるのでしょう。神さまを信じていない人はみんな地獄行きなのですか』」と問われて戸惑う場面にも遭いました。

 しかし不思議なことに、人の子イエスが歩んだ古代ユダヤ教の世界では、わたしたちが考えるような「地獄」には関心が置かれません。生前どのような人生をたどった人も、その人生を全うすれば陰府(よみ)に降り、そこで眠りに就き、神の国の訪れとともに復活するという理解に立ちます。ですので、生前の生き方の報いを死後に受けるという意識は希薄で、すべてが世にあって救いも報いも味わう物語の展開になっている場合が殆どです。

 それではなぜ『福音書』の物語で神の国が天国として描かれたり、貧しい人々に無関心な人々が地獄に落ちたりするのでしょうか。それは『新約聖書』が古代のギリシア語で記されたからだと言われています。古代ギリシアの哲学や神話はその時代には教会の教えよりも広く影響力を保っており、場合によれば仏教との接点すら見いだせるとの指摘もあります。しかし何をもって善となし、何をもって悪となすかという問題についてはわたしたちが破れを覚える身である以上、まさしくこれだと印籠のように人前にかざせないところです。仮にそのように分かりやすいのであれば、わたしたちはこれほど世の中で悩んだり苦労したりはしないというものです。

 先日の日曜日、何度もみなさまにお伝えしているところの矢島祥子さんのご逝去15年記念会が行われ、わたしもご遺族からお招きを受けて出席しました。群馬大学医学部から沖縄県で研修医時代を過ごし、淀川キリスト教病院での勤務を経てあいりん地区の地域医療に心血を注がれましたが、34歳で何者かに拉致され殺害されました。しかし司法解剖とは裏腹に警察は見込で自死と判断し、それまで活動をともにしてきた人々は祥子さんの働きを否認しました。残念ですが本田哲郎神父でさえそのような立場を表明されたと申します。その背後にはわたしたちには触れられない貧困ビジネスの闇と、ジェントリフィケーションとも呼ばれる西成特区構想があります。次々と地域の労働者の支援団体がNPO法人化された結果、軽々に行政を批判できなくなりました。現在、あいりん地区へ行けばもともとは労働者の糧であったビールやホルモンが星野リゾートやあべのハルカスでは、まるでイギリスのパブで注文されるペールエールとチーズのように洗練されて配膳されます。その陰でかつて体力のある時には日雇いとして働いていた人々、または一目でホームレスと分かる姿の人々は姿を消し、貧困の問題が煌びやかな飾りのもと見えなくされる道を辿っています。そのような中で15年を経た今もなお「さっちゃん先生」という一粒の麦は忘れられ放置されていくのでしょうか。

 『旧約聖書』との関わりの中で『新約聖書』を読み直し、死後の世界の物語をこの世の物語であると幾度も解釈し直しますと、決して神の愛の名のもとで大地を耕していった人々は、その人自らが気づかなくても、主なる神からその働きをねぎらわれているのではないかと思うのです。そしてわたしたちが逆にその人は悪の権化であったというような歴史上の人物でさえも、神の愛の力の前には決して打ち勝つことができないのだと理解できます。ヒトラーは神の審判を受けて地獄に行ったのかと問われれば、わたしは分からないと答えます。ヒトラーが歴史に現れなかったとしてもヒトラー的な人物があの時代に現れ暴君として働いたのは想像に難くないからです。ヒトラーの死後を論じるよりも、あなたがたはどうするのかと『聖書』はわたしたちに問いかけているように思えてなりません。『旧約聖書』の書き手集団が死後の世界を描かなかったかと言えば、そのような夢想に立ち止まる暇はなく、ひたすら神の国の訪れに関心を置いて祈り続けていたというに尽きます。世の邪悪さと決して土俵をともにしない生き方がわたしたちの前に備えられています。「さっちゃん先生」を始め、触れるに憚られる「義に飢え渇く人」はそこに、神の国に名前が刻まれているのではないでしょうか。
「使徒信条」にキリストの陰府降りが記されるように、豊かな恵みは大地に深く根を張って初めて授かるものです。早とちりしながら、遠回りしながらでも、わたしたちは神の愛の土俵とその畑を尊びたいと願います。わたしたちはその涙ともに、しかし喜びつつ畑を耕し、豊かな恵みを授かり、その実り一粒ひとつぶに感謝を献げてまいりましょう。



2024年11月14日木曜日

2024年 11月17日(日) 礼拝 説教

  ―降誕前 第6主日礼拝―

――謝恩日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 

説教=「穏やかでない相手とともに暮らすには」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5 章 38~48 節
(新共同訳 新約 8頁)

讃美= 21-43-3,Ⅱ 41,21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 泉北一号線、また泉北高速鉄道のレールの近くに暮らしておりますと、始発電車の音が目覚ましとなるときがあります。光明池駅の始発電車は5時9分。ダイヤこそ違いましたが、かつてはこの便を用いたこともあります。

 安心するのは始発電車として泉北高速鉄道は実に静かなことです。乗客も身支度を調えておられる方々ばかりで気持ちも引き締まります。なぜこのようなことをお話しするかと申しますと、始発駅によっては車両内がかなり常識を越えてしまう場合があるからです。時に起きる車内トラブル。そのあり方も西日本と東日本とでは温度差があります。さしあたり罵声が飛び交うのが近畿界隈。しかしその大声を言い換えますと「わたしの近くによらないでください。意見はありますか」とも聞こえなくはありません。その場合は他の車両に乗り換えます。

 いずれにしても一日の始まりは人情としては穏やかにしていたいのが本音です。ですからなおのことトラブルの元凶とされる人々の心には大きな不安や心配や悲しみが宿っているようにも思います。「他にどうすればよいのだ」との叫びが沈黙の車両には響きます。

 本日の『聖書』の箇所は、平和を目指す偉大な事業を成し遂げた人々や、大規模な争いや災厄を経ながらその中で優しさや良心を失わなかった人々が愛した聖句としても知られていますが、あまり高嶺の花咲くところばかりで響くようですとわたしたちに縁遠いようにも思えてしまいます。けれども人の子イエスが語りかけた相手が名も無く、個々の交わりの希薄な「群衆」であったり、その群れから導かれた弟子であったりすることを踏まえますと、通俗的な場面にあっても人を導く力を失わないと考えます。本日の箇所で人の子イエスは『目には目、歯には歯』という、『ハンムラビ法典』の「同害復讐法」を乗り越えるあり方として「復讐の禁止」を訴えます。本来はこの「同害復讐法」にはおはぎ一つ盗んだ過ちで、幼子が大人の私刑によって殺害されてしまうような状況を回避するために編み出されたはずなのですが、時を経るに従って、果てしない憎しみの連鎖として理解されるにいたってしまいました。むしろ本来は、もともと対立関係や憎悪の関係にある二者間が、憎しみの土俵に立たずに、食事に飢えた幼子がのけ者にされないためにどうすればよいのかとともに智恵を絞る協力関係に立つための示唆であったはずです。誰も好き好んで泥棒や強盗になりたいとは思わないはずです。

 それは次の「敵を愛しなさい」との教えにも通底しています。「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」とあります。共同体の結束力を強めるために、敢えて外部なり内部に排除すべき「異なる者」を設け、共同体の繋がりを緊密にする手口は、古代ローマ帝国に限らず、現在のわたしたちの間でも見出せます。その「異なる者」の象徴として本日の箇所では「徴税人」との言葉が見いだせます。人の子イエスは徴税人の存在を当時のユダヤ社会の「分断統治」の典型として理解していた模様です。しかしこの徴税人を憎悪したところで人は憎しみからは決して解放されません。好感を得られる人と時と場所をともにするのは誰にでもできます。けれどもかつて、年老いた牧師が和やかな雰囲気の中、敢えて「教会は仲良しサークルではない」と懸命に語った背景には、イエス・キリストが愛した愛の土台に立ちなさいとの強い思いがあったのではないでしょうか。

 今、世の中は分断を叫ぶ声が強まりつつあるところに立っています。家族の中にもそのような分断が頭をもたげる場面があるかもしれません。けれどもその時こそがキリスト者の正念場です。何度も負の気持ちに溺れる中で、いつもわたしたちに必ず差し伸べられるのがイエス・キリストが堅く握る「いのち綱」です。もし今、わたしたちが深い憎悪に囚われていたとすれば、キリストを通して神にその憎しみを敢えてぶつけていく道もあるでしょう。十字架を通して神と繋がる憎しみは、やがて時が経つほどに全く別の、全く異質の尊いものへと変えられていきます。憎しみはわたしたちのすべてではありません。そのことをわたしたちは敵を愛する生き方から教わります。光は闇に勝利し、愛は憎しみを必ず克服します。わたしたちはこの実に単純な教えを、高嶺の花ばかりからだけでなく、足下に咲く野の花の彩りからも気づかされます。イエス・キリストの愛を心に宿しましょう。