2025年7月4日金曜日

2025年 7月6日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第5主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「神の言葉に打ち砕かれて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章33~37節
(新約8頁)

讃美=21-436(515),522,Ⅱ-171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が自らの民と結んだ誓いとは何か。今朝の『聖書』では『レビ記』19章12節に「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。互いに欺いてはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」と「昔の人の言い伝え」として伝えられる中で文言が変えられていったであろう「聖句」があります。しかしこの「誓い」を考える上で示唆に富む物語が『旧約聖書』『士師記』にあります。『士師』とは「裁き司」とも呼ばれますが「士」「師」と漢字を分け、その文字のつく職業を考えますと合点のいくところです。いずれも目に見えない特別な信頼関係を前提にしなくては成立たない、いのちに関わる職種であり、『旧約聖書』の物語ではイスラエルの民がまた国の体をなさなかったころ、パレスチナの土地の豊かさの虜となり神を見失い、異民族からの干渉を受けますと民の中から召し出されるのが士師と呼ばれる人々がいます。士師の采配によって民衆は神の約束を思い出し、群れには秩序が回復するが、またその秩序が乱れると新たな士師が現れるといった次第です。

 その中にエフタという人物がいます。エフタは遊び女のこどもでしたから、家督を継げず、その時代のならず者、イスラエルの民の部外者(アウトサイダー)とともに日々を過ごしていました。この部外者集団のもとにイスラエルの民の長老がやってきて、武力で干渉してきた異邦の民と戦って欲しいと願います。エフタは「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出してではありませんか」と抗議しますが、終には長老の願いを聞き入れ、異民族の中でも力のあるアンモン人と戦うと決意します。しかし相手は容易に屈しません。そこでエフタは主に誓いを立てます。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事帰るとき、わたしの家の戸口から迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を焼き尽くす献げ者といたします」。果たしてアンモン人はエフタの軍門に降り、勝利の喜びに満ちた凱旋を祝いエフタの家から出て来たのは、父の勝利を祝う実の一人娘でした。エフタは衣を引き裂きながら「取り返しがつかない」と嘆きます。しかし娘はその誓いを受け入れ、友とともに二ヶ月のあいだ山々をさまよい、父の命じるままにされたとのことです。

 アブラハムが息子イサクを神に献げる物語と根本から違うのは、アブラハムの場合、主なる神の命令に従ったに過ぎず、いわゆる人身御供を望まなかったのに対して、エフタは自ら神に誓い、その悲劇を自ら招いてしまったところにあります。イスラエルの民には戦いへの勝利は喜びでしたが、エフタは人として最も尊くかつ基となる家族を勝手に担保にし、その結果に衣を引き裂き涙するばかりでした。人の子イエスがこの物語を知らないはずはありません。人の立てる誓いは完全ではなく、時に互いの都合のかけひきでもあり、その陰で涙する者が必ずいるはずだとの理解。

 だからイエス・キリストは語るのです。「『天にかけて誓うな、天は神の玉座』。『地にかけて誓うな、地は神の足台』。『エルサレムにかけて誓うな、そこは大王の都』。『頭にかけて誓うな。髪の毛一本すら白くも黒くも出来ないから』。あなたがたは『然り』には『然り』、『否』には『否』とだけ言いなさい」。

 しかしこの破れにまみれた誓いよりも、「然り」には「然り」、「否」には「否」と答えるほうが、よほど困難な時と場合があります。何らかの力関係があったときに、本来は「否」と言うべきところを「然り」と答えてしまう。また反対に「然り」と言うべきところを「否」と答えてしまう。人の子イエスが身柄を拘束され、大祭司の家でと連れていかれる夜、鶏が三度鳴く前に、ペトロはその関わりを問われましたが「然り」と言うべきところを「否」と答えてしまうのです。思えば誓いに関しても、「否」か「然り」かどうかを答える場面にしても、わたしたちは十全に向きあうことなく、自分の身にその責任を負わずに、他人のせいや諸般の事情のせいにしてはいないでしょうか。ここにわたしたちが実際に身に帯びている罪そのものがあります。それは遺伝するものでもなく、因果応報でもありませんが、わたしたちが破れを抱えた人間であるその身の程を忘れると、それこそ取り返しのつかない過ちに繋がりかねません。

 しかし人の子イエスの声は、そのようなわたしたちに「もう一度やり直してご覧なさい」と静かに語りかけます。『マタイによる福音書』では、様々な過ちの結果自らを遠ざけていった弟子に向けて「ガリラヤへ行きなさい」と語りました。それこそ、救い主を前にして粉々に打ち砕かれた人々が、新たにイエス・キリストとの再会を果たす場所です。そしてその後には、キリストが自らを通して証しされた神の愛による希望がいつまでも消えずにわたしたちを照らしています。世にある責任をそれとして尊び担う中で、神の愛は時にはさわやかな風となって、わたしたちのいのちを潤してくださいます。神がお立てになった誓いはとこしえに立ちます。その誓いは決して揺るぐことはありません。

2025年6月27日金曜日

2025年 6月29日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節第4主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「掘り起こされた塩、闇を照らすともしび」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章13~16節
(新約6頁)

讃美=21-505(353),21-504(285),21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 食塩と申しますと、(株)日本たばこ産業塩事業センターの規定では「食塩」とは塩化ナトリウムが99パーセント以上の商品を指します。ただしこれは精製の結果生じた物質を基準にして定めた数値。1997年以降、塩の販売が自由化に踏み切ってから様々な塩が販売されています。抗がん剤や透析で腎臓を患っている方には勿論厳禁ですが、他方では「塩分控え目」の調味料には添加物が含まれます。これも決して安全な食品とは言えません。天日製塩や釜焚製塩は海水を素朴な仕方で乾燥したり煮詰めたりしますので天候に左右され生産量も安定しません。だからこそ、塩=塩化ナトリウムではなく、様々な天然ミネラルも含んでの結晶こそがはじめて「塩」だと言えます。

 さて『新約聖書』の舞台では塩はどのような用途で用いられ、この塩を真っ先に手にしたのは誰でしょうか。初期の共和制ローマの中産階級や無産市民の場合、手当てとして塩があてがわれていました。貴重品でもあり、持ち運びが可能でしたのでそのように用いられていたと申します。『新約聖書』成立の時代には貨幣が流通しますが、それでも現金のない場合には塩も併せて用いられたと申します。ヨルダン川が流れ込むところには「死海」があり、そこには天然塩の塊がいたるところにありましたから、天然資源の採掘場として死海周辺はローマ帝国には貴重な場所だと言えます。逆に言えば、土地の人々は鉱山奴隷の犠牲のもと天然資源を収奪されていました。

 それでは地域の人々はどのようにして塩を手に入れたというのでしょうか。もちろんそのような事情ですから金銀の代わりにというよりは鶴嘴や鍬をもって地面から懸命に掘り出したことでしょう。木陰は涼しい土地ですが陽射しは強く身体の水分は汗としてすぐに失われてしまいます。猛暑の中身体を動かした方であればシャツに汗が含む塩分が白く残る様を御覧になったかと申します。ですから肉体労働に従事する人々にはとりわけ健康を維持するためには水だけでなく岩塩に含まれるミネラルが不可欠だったに違いありません。畑を耕しながら舐める塩の味は散漫な注意力を引き締めてくれますし、ぼんやりとした気持ちに活を入れてくれます。

 また防腐効果についても人々は経験則から学んでいたに違いありません。あらゆる保存食に必要とされたのは塩分、そしてその塩気です。山羊や羊などの家畜も健康を保つためか好んで塩を舐めようとします。どうして人の子イエスは、塩になぞらえて神のわざを伝えようとしたかと言えば、粗製な塩しか入手できない暮らしを前提とした人々がいればこそであったのではないでしょうか。神の愛のわざは人々の交わりのなかに反映されます。そのような反映がなければ、例えば『ヤコブの手紙』が指摘するように、教会の交わりの中にこの世の尺度が安易に持ち込まれ、教会ならではの味つけが失われてしまう事態を招きます。『マタイによる福音書』が成立した背景の教会の危機でもありました。わたしたちの教会では?と各々問いかけられている思いがいたします。

 さらに「ともしび」と申しますといかにも煌々と闇夜を照らすかのイメージがありますが、福音書の世界で用いられる「ともしび」の場合、今でいう蝋燭のような灯りは用いられません。皿に入れた植物油に布の切れ端を浸してつけるような辛うじて暗がりを照らすぼんやりとした灯りに過ぎませんでした。しかしだからこそ部屋の中の燭台において、その光が暗がりのなかで何とか最大の光量となるように人々は工夫したことでしょう。隙間風が吹けばすぐ消えてしまいそうになる灯り。しかしそのような灯りがあるお陰で、わたしたちは不安や恐れから解放されてまいります。さらに『マタイによる福音書』は6章22節で語ります。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい」。「ともしび」には、照明器具としての役割だけでなく、神の力に活かされているわたしたちの喜びが重ねられます。「濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。わたしたち現代人はあまりにも人工的な濃い味、宇宙空間からも見える富める国の輪郭を照らすほどの強い光に縛られて、そのありがたみが分からなくなっているようです。

 イエス・キリストが語りかけたのは、その時代には決して裕福な暮らしを過ごしてはいない人々でした。そのような人々にこそイエス・キリストは「わたしを見つめていなさい」と語りかけたのだと強く思います。

 外見上どのように見えたとしても、あるいは自らの可能性を決めつけたとしても、主なる神はわたしたちの頑なさを砕いてくださいます。そしてわたしたちにある「よき塩」を掘り出し、また「ともしび」が消えないよう絶えず手をかざしてくださいます。イエス・キリストとわたしたちの絆とはそれほどまでに堅いのです。

2025年6月21日土曜日

2025年 6月22日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神には決して『無駄』はない」
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』17章30~34節
(新約248頁)

讃美=21-405(225),21-516,21-26.
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 今朝わたしたちは神の愛の力に押し出されてイエス・キリストの教えと生き方を伝え、種々の困難を経ながら、その困難が重なるほどに広まる交わりを描いた『使徒言行録』を開いています。とくに使徒パウロがその生涯で第二回目の宣教の旅の途中、立ち寄ったギリシアの都市アテネでの出来事が記されています。

 『使徒言行録』の眼差しは使徒の働きによる初代教会の形成とその広まりに関心を寄せてはおりますが、その背景にはその時代には教会のわざが今日のような時に大々的なものではなかったことが記されます。ウェストミンスター大聖堂やノートルダム大聖堂などこの箇所には登場しませんし、教会が地域の重要なインフラとして機能しているわけでもありません。むしろこの時代ではギリシアの哲学や思想の影響が極めて強く、文字の読み書きのできる人々の心をつかみ、その雰囲気にもなっていました。パウロはその渦巻きの中心にあたる都市アテネに飛びこみます。

 ところで古代ギリシアが民主制を敷いていたという理解がありますが、それは今日の民主制とは全く異なります。労働は奴隷に任せる一方で政は市民が話し合い重要事項を決定するというしくみ。それが古代ギリシアの民主制でした。話し合いの広場であったアレオパゴスという広場にパウロは赴くのです。場に居合わせているのはストア派やエピクロス派といった世との関わりを実に消極的に捉える人々でした。この人々には肉体は精神が乗り越えるべき欲の根源であり、その肉体を精神が自在に制して初めて魂の救済が定まるという理解に立っていました。パウロはその町で、苦難のなかで十字架刑に処された後、霊肉ともに死の闇から復活されたイエス・キリストに根を降ろして活かされる喜びを語ろうとします。しかし絶えず理解を求める多くの人々には新しいいのちへの飛躍ともいうべき復活の出来事を告げ知らせるメッセージに躓いてしまいます。

 確かに復活という出来事はわたしたちには有無を言わせず迫る出来事でもあります。しかし他方で人生のすべてに説明がつくというのもいささか浅薄な気がいたします。散々言葉を紡いだ挙句、その最後には「理屈ではない」というお話は、時に詭弁の誹りを免れませんし、人の心を激しく動かしもいたしません。『聖書』の言葉はその意味では実に丁寧で、当事者として言葉にできない出来事を後から振り返りながら物語として懸命に紡ぐという姿勢を一貫して崩しません。パウロは律法学者として『新約聖書』もなく、壮麗な大聖堂ももたなかった時代のキリスト教徒を弾圧するためシリアの都市ダマスカスに赴く途中、雷に打たれたかのように自らの名を呼ぶキリストに「目が見えなくなる」という仕方で出会い、目覚めました。その体験に根ざす喜びを何ら臆せずにアレオパゴスに響かせ語るのです。

 このアテネでの伝道を、後の世、とりわけ現代の人々のなかには「失敗した」と結論づける者がいました。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った」。しかし『使徒言行録』はパウロの働きを「成功した」とも「失敗した」とも語りません。そのような成果主義では推し量れない時が静かに訪れていました。

 それは「パウロについて行って信仰に入ったアレオパゴスの議員ディオニシオ」「ダマリスという女性やその他の人々」がいたという事件です。ギリシアの都市は城壁がありました。そのなかで様々な市民の特権が保証されていたのです。もしこの「議員や女性、その他の人々」が心の壁を越えていったとするならば、ディオニシオもダマリスもそれまで持っていた特権をすべて投げうって、キリストに従う道を選んだこととなります。奴隷に支えられた自由な市民生活というこれまでの支えは通じない世界に飛びこみました。もはや特権階級でもなく、奴隷でもない人々。世にある人々の目からすれば得体の知れない教えに導かれていったとの誤解を多く受けたことでしょう。しかし人が売り買いされるなかで得た仮初めの自由よりも、この人はもっと広くもっと天高い世界へと羽ばたく自由を授かりました。

 わたしたちはそうとは気づかないまま自らの常識や倣いでもって『聖書』を読み込もうとします。そのときに「理解できない」「分からない」という理由でもってその扉を閉じてしまう時もあります。アテネの市民の大多数がそうでした。けれどもむしろ、わたしたちには「理解できない」「分からない」からこそ『聖書』の言葉とともにあゆみたいものです。復活の出来事が示すいのちの連なりや重さは人の理解を超えています。しかし神がなさるわざに一切の無駄はありません。若くても齢を重ねても「人生曰く不可解」だからこそ胸は高鳴ります。『聖書』の言葉を胸に秘めながら出会う日々。キリストを通した神の愛のわざのなか、人の言葉で記された『聖書』は神の言葉になるのです。

2025年6月13日金曜日

2025年 6月15日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節 第2主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「イエスは必ず生きづらさを分かちあう」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』11 章25~30 節
(新約20頁)

讃美=21-351(66),Ⅱ.191,21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 大分前、春から夏にかけての話になります。帰宅いたしますと、伴侶が韓国のチジミを夕食に出してくれました。実に瑞々しい香りがいたしました。尋ねますと、付近の公園にセリの群生地があって、そこから摘んできたとの話でした。現在、伴侶は緊張した場面では一度に二つの単語までしか話せません。何かを話してそれが誤解をもたらさないかどうかが不安で仕方がないとのことでした。けれども、それでも一人草むらや自分で手を入れたプランターで採れたハーブを用いては、黙々と家事をしながら礼拝に出席する備えをしているようです。

 伴侶に限らず、生きづらさを抱えた人は教会員の方々にもおられるでしょうし、こども園の職員や保護者にもおられることでしょう。ましてやこの物価高のなかでどのように暮らせばよいのか思案しているうちに心身のバランスを崩したり、職場の人間関係に行き詰まったりする人は後を絶ちません。なぜ電車の人身事故が絶えないのでしょうか。「人間関係を言い訳にするなど甘すぎる」との言葉も聞こえますが、果たしてそうなのかと考えます。種々の生きづらさや心の病はその人個人の問題というよりも人間関係に内在しており、個人の態度や根性といった言葉では必ずしも十分には表現しきれないように思われるからです。もしそのような言葉が用いられるとするならば、それは何らかの差別的な態度を示しているようにも思えます。

 わたしたちは聖日礼拝で『聖書』を開きます。そしてそこでイエス・キリストの生き方に触れ、またその教えに問いを投げかけられます。しかし他方でイエス・キリストの生き方に従おうとする人は世にあって何らかの生きづらさをすでに抱えている人か、またはあえてその生き方に巻きこまれた人に絞り込まれてまいります。それは何かの選民意識やエリート意識に基づくのではなく「そうせずにはおれなかった」という意味での選びに基づいています。自分で選んだとの自分を中心にした選択での生活は長続きしませんが「そうせずにはおれなかった」というあゆみの方が、周囲の交わりに支えられているだけに思いのほか主にある生涯を全うするかもしれません。

 本日の箇所で人の子イエスはまず天の父をほめたたえます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父の他に子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。父の他に子を知る者なく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいないと語るイエス・キリスト。『マタイによる福音書』の書き手集団が示そうとしているのは、父なる神こそがメシアを示すのであって、世にある人々にそれは隠されているという話です。平たく言えば「メシアの秘密」となるのでしょうが、この話に即するならば、どれほど教えを語ろうとも、人々を癒そうとも、神の愛を証ししようとも、時が満ちるまでは「キリストは誰か」という重大事は常に隠されているという話です。人の子イエスはこの孤独のなかで父なる神をほめたたえ、神とともに苦しみぬいたのです。そしてその孤独とは、イエスと出会い、交わりを授かった人々の苦難でもあります。「この苦しみには何の意味があるのか」。耐えがたい生きづらさを抱えて一人佇む人に向けてイエス・キリストは語りかけます。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。イエス・キリストはわたしたちに「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」と語っても、全ての重荷から解放するとはひと言も申しません。そのようなインスタントな安っぽい恵みについては触れません。しかし、あなたを疲れさせ、重荷となる重圧の代わりに「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と話します。軛とは二頭の牛や馬が御者の手綱から離れないように肩にかけられる枷を示します。イエス・キリストが、わたしたちの重荷をともに担ってくださっているのです。その姿はどのようなものか。それは突如ローマ兵に無理矢理十字架の横木を担がされたキレネ人シモンのごとくであります。わたしたちは、すでに有無を言わせない仕方で、イエス・キリストの軛をともに担っています。それこそがわたしたちが生きづらさをイエスと分かちあい、生きづらさを通して新たな出会いと交わりを育む鍵となります。「それは無理だ」と怖じ惑う必要はありません。イエス・キリストが示した神の愛である聖霊のわざを通して、わたしたちは大切な人の生きづらさを排除するのではなく、そうだねと肯定できるのです。アーメンとの呟きが静かな喜びとともに湧いてまいります。

2025年6月3日火曜日

2025年 6月8日(日) 子どもの日(花の日)ペンテコステ礼拝 ライブ中継

―聖霊降臨節 第1主日礼拝―

―子どもの日(花の日)ペンテコステ礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神様の愛に背中を押されて」 
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』2 章1~4 節 
(新約214 頁)

讃美=(改)こどもさんびか106,
「ワワワいっしょに」,21ー81,
(改)こどもさんびか114.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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2025年5月30日金曜日

2025年 6月1日(日) 礼拝 説教

―復活節 第7主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「キリストに祝福される世界」
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』24章44~53節
(新約161頁)

讃美=158,21-530(403),21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
 ある人が地上の生涯を全うしたとき、わたしたちはその人が亡くなったとはあまり申しません。どのような道筋であれ、その場合は「天に召された」という表現を用います。実に言い尽くしがたい荘厳な響きをもちます。

 この「天に召される」という表現と、イエス・キリストの昇天とは全く異なる次元に立ちます。イエス・キリストの場合は、自ら世に遣わされ、救い主として人となり、地上の生涯を十字架で苦しみの極地のなかで終えられ、葬られた後に復活されて、そして自ら天に昇るという意味で「天に召される」のではなく「天に昇る」と唯一無二の仕方で書き記されます。しかし『ルカによる福音書』また『使徒言行録』に記されるキリストの昇天の様子を視覚的にそのまま表現したところで、却ってその書き手集団が伝えようとしているところが何であるのか、却って見失うような気がしてなりません。

 まずわたしたちは、世に遺された弟子たちの立場にあわせて「キリストの昇天」の出来事に思いを馳せてみましょう。イエス・キリストは、魂だけではなく心身ともに併せて復活されました。それは本日の箇所の直前に「わたしは亡霊ではない」と弟子に語りかけながら、復活を喜ぶ弟子たちから差し出された焼き魚を食べたとの記事から分かります。この箇所での焼き魚とは、ガリラヤ出身の人々が長旅をする折に携行していたお弁当であり、もっとリアルな言い方をすれば旅人が食する目刺しのようなものです。つまりイエス・キリストが正真正銘弟子のもとに帰ってきた証しとなるわざをいたします。さてその次にイエス・キリストは自らが『旧約聖書』に記されたメシアであると宣言します。このときに弟子の心の眼が開きます。これまで弟子を慄かせていた「救い主の受難と十字架での死、そして復活の告知」はようやく喜びのメッセージ、すなわち福音となります。そしてあえて弟子をエルサレムの都へと留まらせ、神の国が訪れるその行く末にいたる伝道の豊かな可能性を述べます。そしてベタニアのあたりまで行かれ、手を上げて表向きには弟子を祝福しながら天に昇るという流れになります。

 わたしがなぜ「表向きには」と申したかと言うと、この時点でイエス・キリストによる祝福は、弟子の器を溢れて全世界に及んでいるものだと受けとめたからです。確かにイエス・キリストの姿は、もはやかつての人の子イエスのように地上にはありません。一見すれば「人の子イエスはいなくなってしまった」という深い挫折さえあってよさそうなものですが、弟子はみな神殿の境内に戻り、神をほめたたえていた、とあります。それは、すでにイエス・キリストとの深い関わりが定められているところから来る安心感ではないでしょうか。

 これまで弟子は人の子イエスの言葉の意味も、その行う癒しのわざの真意も分からないまま、十字架への道にいたってはほぼ全員がイエスのもとを離れるという無様な姿を晒しました。その遺体をひきとったのはファリサイ派の議員でイエス擁護の立場にいたアリマタヤのヨセフであり、弟子ではありませんでした。その胸に深く刺さるような痛みと後悔のもとにのみ弟子が留まっていたのであれば、『使徒言行録』に記されるところの世界宣教、そして今日まで続くそのわざは起きるはずがありませんでした。

 イエス・キリストが世から人の手の及ばなくなるところに行かれるところで授けられた祝福。それはこの争いに満ち、悲しみに満ちた世界への祝福となります。本来は祝福に値するところではないはずのところに及ぶイエス・キリストの祝福はすべての疑いを打ち破ります。そして残虐な衝動、人格を認めない歪みから人を解き放ちます。その意味で申しますならば、福音とは絶えず世にある囚われから解き放たれて、キリストの祝福を週ごとに、日毎に自覚するところから始まるのではないでしょうか。神の愛の深い関わりがそこにはあります。

 人は変わり、世は移ろい、教会もまたその姿を少しずつ変えてまいります。そのようなわたしたちが天を仰いで見つめるなかで感じるのは、かつて弟子達もまた同じ姿で頭を上げたという、その追体験です。イエス・キリストの姿が地上より失われてから、弟子はその存在を感じつつ、やがて起きる聖霊降臨の出来事へとその舞台を移します。時にそれは亀裂に満ちている乾ききった大地に潤いの雨が降り、豊かな川の流れとなります。時によってそれは激流によって流された橋に代わって天には虹がかかり、必ず主の平和が訪れるとの約束を示します。沈黙を余儀なくされていた人と人との間に、豊かな語らいが再び芽生えてまいります。誰も好き好んで人を傷つけ殺めるなどの行為はできないものとして神は人を創造されています。その神の良心の種を、主イエスは今も撒いておられます。人の手の及ばぬところへの祝福は、聖霊の働きとして今もなお関わり続けているのです。

2025年5月23日金曜日

2025年 5月25日(日) 礼拝 説教

―復活節 第6主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「人の子イエスの祈り」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』6 章5~15 節
(新約132頁)

讃美=308,21-512(326),21-29.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
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【説教要旨】
   加持祈祷によって手に負えなくなった病を癒そうとする。また心病んだ人の具合を癒すためにまじないを行う。いずれも日本社会では今も残るところの、しかし表立っては姿を見定めがたい民間療法にも似た振る舞いがあります。いずれにいたしましても医療技術が今日のようにではなく、また医療技術からは排除され追い詰められた人々が群がる場所が今でもあります。

  そのような人々にとって今日「神」という言葉がどれほどの響きをもつというのでしょうか。もちろん戦争によって多くの犠牲のうちに前途の展望を絶たれ、焼け跡に佇む人々には「大丈夫、神さまがいてくれる」との言葉は格別の響きをもったことでしょう。しかし現代のわたしたちの身近に暮らす人々にその声はどれほどの力をもって迫るというのでしょうか。年齢を問わず部屋にひきこもる人々にその言葉は通じるというのでしょうか。

  人の子イエスが群衆と弟子に教えられた祈りとは、その時代におきましても、現代におきましても、そのあり方を根底からひっくり返すわざでした。6章の5節では、それまでの教えを踏襲して、他人の承認を拒むところの祈りです。「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」。承認欲求を満たすために限られた祈り。当時でいうところの「偽善者」とは形式化された祈祷書をもとにして祈りを献げるサドカイ派を始めとした祭司階級の人々に見られがちな祈りでした。かつてモーセとアロン、また預言者たちがイスラエルの民のために血肉を振り絞るように献げた祈りとは異なる、生活や暮らしの流れとは全く関わりのない祈祷は呪文と同じ。人々に畏怖の念を与えこそすれ、神との関わりにいのちを吹き込み、その関わりを活きいきとさせるわざにはなりづらいところがあります。せいぜい何かの合図といったところではないでしょうか。反対に人の子イエスが伝えようとした祈りとは他人の目には触れないところの祈りです。本来であればエルサレムの神殿にも大祭司しか立ち入れない至聖所という場所があり、そこで聖職者が祈りを献げるわざが尊ばれていたのですが、本日の聖書箇所からするとエルサレムの神殿の至聖所もその機能が十分には果たせていなかった可能性もあります。さらに人の子イエスの祈りは、神に人の願いを叶えてもらおうとして献げるものでもなさそうです。神が人を救うのであって、願いを叶える便利な神を人が作ったわけではないからです。

  イエス・キリストが伝えた祈り。それが本日の箇所、「主の祈り」の雛形ともなる教えの内容となります。この箇所で人の子イエスは、一度も「神」という言葉を用いません。あまりにも祈祷文の中で書き記された言葉は、人々の生活文脈に適さないどころか、理解適わず、暮らしに全く響かなくなっていたとも申せます。その代わりに用いられたのが「父」という言葉。現代からすれば種々の批判に晒されそうな文言でも、その時代に立てばなるほどと膝を叩ける言葉です。本当のところ、言葉のニュアンスは「お父ちゃん・おとん」。現代に較べてはるかに肉体を酷使した時代、治安の悪かった時代。公私ともに父親が家族のために犠牲となる場面は今以上にあったと思われます。またローマ帝国の軍隊では、キリストが十字架を担ぐ際にキレネ人シモンを徴用したように、旅に出た父親が問答無用で拉致される事件も多かったことでしょう。現代以上に母と子だけの家庭が多かった世にあって「父」とはいかなる存在だったか。そう言えば人の子イエスの父ヨセフも静かに福音書の表舞台から姿を消していきます。「父ちゃん」という言葉から、心から希望を必要とする人々と『旧約聖書』に記されたアブラハムの神との関係の再構築が行われます。もはや祈祷文ではなく、人々の暮らしそのものが祈りとして祝福され、そのままの姿で聖化されていきます。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」との一文はさらに決定的です。他人から受けた痛みや苦しみを「神なるお父ちゃん」に棚上げするならば、日々の暮らしの中で深く負い目を抱えていながらもお父ちゃんである神は憎しみから解き放ち、前を向かせ、抱きしめてくださるとの理解に繋がります。そうなのです。本日の箇所で描かれた「お父ちゃん」である神とは『ルカによる福音書』15章に描かれる「放蕩息子の譬え」で描かれる父親としての神でもあります。さまざまな事柄に挑戦しながらも失敗を重ね、物乞い同然の姿で家に戻ってきた息子を、誡め通りのあゆみをたどった兄とともに、兄弟同士のわだかまりを温かく宥めながら豊かな交わりをともにする父親なのです。そのような「父なる神」を人の子イエスは示しました。ひきこもりの襖を開けてその懐にとびこんでいきましょう。