2026年3月5日木曜日

2026年 3月8日(日) 説教

―受難節第3主日礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
 
 
説教=「人々の誤解のなかに立ち続けて」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』8 章27~33節
(新約77頁)

讃美= 
21-300(262).21-443(124).21-29.

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

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方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 前回の受難節第2主日礼拝では身内でさえ人の子イエスを「あの男は気が変になっている」との噂に流されて取り押さえに来たという、匿名の風説に翻弄される親族の姿をものともせず、神なき権力争いの無意味さを説いたイエス・キリストの姿をともにいたしました。人々は無責任な言葉を人の子イエスに浴びせましたが、イエスは取り乱さずに黙々と癒しのわざを行い、神の国の訪れの近さを語って止みませんでした。それでは弟子はどのように人の子イエスを受けとめたのかが、本日の箇所には記されております。歴史的には人の子イエスはユダヤ人であり、なおかつ弟子もまたその流れにあります。そうなれば人の子イエスとその弟子もまたその道筋に立っていたと、『マルコによる福音書』は記します。本日の箇所ではフィリポ・カイザリア地方という、ローマやギリシアはじめ諸国の民がユダヤの民よりも多いとされた地方で起きた一コマです。人の子イエスは弟子に次のように問うたと申します。「人々は、わたしのことを何者だと思っているか」。弟子が宣うには「『洗礼者ヨハネだ』『エリヤだ』『預言者のひとりだ』という者もいます」。弟子は諸国の民を意識してか、『旧約聖書』に立つユダヤの民の声をおもにして伝えてまいりますが、筆頭弟子のペトロの答えはいささか響きが異なっていました。「それでは、あなたがたは何者だと言うのか」。この問いかけにペトロは答えます。「あなたは、メシアです」。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた、とあります。

 本日取りあげたいポイントとは、この「あなたは、メシアです」とのペトロの告白です。この箇所をして様々な解釈がありました。弟子はイエスの本質を見抜いていた、または弟子の秘密としてイエスの実の姿を知っていたという具合に、です。しかしもしも筆頭弟子ペトロの告白や弟子の理解が人の子イエスの本意と大幅にずれるならば、弟子もまたイエスがキリストであるとの告白に誤解や間違いを犯していたこととなります。それでは実際のところはどうだったのでしょうか。その後もまた読み解いてまいりましょう。

 「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥を受けて殺され、三日の後に復活することになっていると話し始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れしていさめ始めた」とあります。つまり、人の子イエスに備えられた救い主としての道は世の一切の矛盾と暴力を担い、殺害されていくというものです。反対に現在のユダヤ教でも同じですが、神から遣わされたメシアとは、一般には苦しみを受けて排除されて殺害されて復活するなどということはあり得ません。まさしく超人的な存在として人々と神の橋渡しをする者だという、スーパーセイバーの名に相応しい存在です。そのようなわけですので、ペトロは人の子イエスの語るキリストの道を受け入れられません。だからこそ、イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と返事をします。「誘惑する者よ、引き下がれ、あなたは人間のことを思うばかりだ」との意訳もできましょう。

 受難節第2主日、そして今週の受難節第3主日で扱った福音書の物語をたどれば、イエス・キリストは誹謗中傷する者からは当然誤解を受けているとして、片や「イエスはメシアだ」とする弟子からも甚だ誤解を受けていたとなります。いわば誤解の板挟み。わたしたちがこのような場に身を置いたとして、一週間堪えられる人が果たしているでしょうか。「違う、そうじゃない」と必死に叫んだ挙句、心の病にいたったところで無理からぬ事だと誰もが思うことでしょう。人の子イエスが癒しのわざを行なっている場でも、神の国の訪れの近さを語り、敵を愛せと教えていたとしても、この誤解は拭えません。十字架への道筋にいたるまでこのままの状態が続きます。この箇所にも人の子イエス、いや、イエス・キリストの苦難の道行きのひとかけらを見いだせます。人の子イエスはどこまでも孤独なのです。

 アフガニスタンとパキスタン、アメリカとイスラエル、イランそしてアラブ諸国、ウクライナとロシア、ベネズエラとメキシコ。21世紀も四半世紀を過ぎ、通信の発達が謳われる時代にあって、これほどまでの国々が戦争という暴力と誤解の最果てにまで行着くのでしょうか。情報のなかで、わたしたちは却って相手を誤解し、顔と顔を合わせる交わりから逃れようとし、コミュニケーション自体を諦めようとします。しかしわたしたちは人の一面的な姿に戸惑っている場合ではありません。そのネットワークから洩れた村落、こどもやお年寄りや、障碍があり、また心を病んだ人々がいる限り、教会は時を惜しまず、顔と顔とで向きあい、お互いが神の姿に形作られた人であることを再確認いたします。イエス・キリストが多くの誤解を背負ってくださったからこそ、交わりの歪みから解放されるのです。