2025年9月24日水曜日

2025年 9月28日(日) 礼拝 説教

         ―聖霊降臨節第17主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「弱さ」
吉村厚信補教師

聖書=『コリントの信徒への手紙Ⅱ』12 章1~10 節
(新約339頁)
讃美=21-529(333),21-579(355),21-26
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

YouTube中継・編集動画メッセージは
担当者不在のため休止します。

【説教要旨】
本日の説教題、「弱さ」は、仕事で何か失敗したとき、上司に叱責されたりしたとき、部下に揶揄されたりしたとき、家庭で自分が家族に対してなにか引け目のあることで孤独になったとき、ご自身であれば御病気や御怪我をして心身ともに落ち込んでしまったとき、ときには絶望感に満たされること、など、ご自身の様々な状況で表出します。今日の聖書箇所コリントの信徒への手紙Ⅱ12:1-10は、使徒パウロが誇ることの愚かさを自ら自覚し自分を誇ることの無益さをお話するところから始まります。パウロは自分を第三者のように述べ始め「第三の天」(「楽園」)に引き上げられたパウロ自身と同時に「弱さ」を誇る自分がいることも表します。自身の弱さは個人的傲慢さも表現しています。自分の行為や発言は決して誇らず、「神から与えられた神の恵み」を誇り「弱さ以外に誇らない」のだ、と説明しています。6節では思い上がることのないように「とげ」が与えられます。三度のお祈り、そしてキリストの恵みが宿り拠りどころに出来る、だから大いに時分の弱さを誇れるのだ、とパウロは説きます。いちばんパウロが言いたいこと、それは「弱いときにこそ強い」という逆説。自分の力ではなくて、「キリストの力=恵み」がパウロを強くしてくれています。このパラドックスは、キリスト教が「救いの宗教」だからです。人間には原罪があります。それが人間の「弱さ」です。その結果が同じ人間なのにも拘わらず、戦争・殺人・貧困・人種差別・いじめなどを引き起こします。この問題を解決するには、道徳・倫理と言った人間の世界での解決は決して出来ません。聖書の中で、「いちばんの被害者はイエス・キリスト」です。人間の不安・嫉妬・憎しみ・怒りの犠牲として十字架に架かり、等しく隣人に寄り添う点に於いて人間の怒り・恐れ・憎しみを除きお互いを許し合う道に導きます。そのことが「キリストの恵み」として与えられるから、人はその弱さを「強さ」として誇れるのです。約2年間クリスチャン系介護施設でチャプレンとして業務、昨年6月から施設職員としても入居者の定期的病院送迎や施設内で食事介助に関わりました。同じくインド北東部ミゾラム州にクリスチャン若年層の方々対象に介護職員養成の一環としての日本語学校を設立、昨年10月から現地責任者として同州アイゾール市に赴任しました。学校は会社の都合によって6月末に閉校、9月からインドに残された生徒の就職支援に乗り出しています。縁あって北海教区浦河教会・元浦河教会も訪ね、障害者就労支援施設「ベテルの家」で研修滞在させて頂きました。様々な施設に関係しながらの牧会も視野に入れることが出来ました。現在就労支援B型作業所で利用者作業の見守りをしています。企業定年後、神学校修了後補教師で奉職しようとして挫折しましたが、そのあと申し上げた現場のその場面場面に遭遇したとき、足らない自分を前に施設の方々、作業所での知的障碍者・身体障碍者の方々の笑顔を頂いて寄り添わねばならない自分以上に力に支えられ「自分の弱さこそ故に、その方々にキリストを見る」、そのような出会いを頂いたように思いました。牧者の信徒への寄り添いとは、実は様々な方々の御支えによって、寄り添いを頂いて、「牧者は生かされているのだ」、という逆説を教えられます。神さまはそのことを教えて頂いています。


2025年9月18日木曜日

2025年 9月21日(日) 礼拝 説教

         ―聖霊降臨節第16主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「さまよう羊を追いかける羊飼い」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』18章10~14節
(新約35頁)
讃美=239,21-402(502),21-26
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 先日来阪した実弟家族と食卓を囲む機会を与えられました。弟夫妻が授かった一番歳下の女の子は小学校五年生、次男は中学生、そして長男は中学卒業後高校には進まずひたすら読書と武道に明け暮れる暮らしです。昭和の学校制度の枠組みが大きく変わる中で、思えば弟もわたしも集団行動が苦手であったと思い起こしながらの懇親の時でした。『聖書』の中で「羊」という言葉が用いられますとわたしたちはただ群れなす家畜であるかのようなイメージを抱きがちですが、人の子イエスの譬えに登場する羊の場合、現代でいうところの去勢がされてはいない羊が飼育されていたとの話も聞きます。そのような事情を踏まえますと、この時代の羊飼いという仕事は並大抵ではなかったようにも思います。羊飼いたちはわたしたちがいうところの「読み書きそろばん」を殆どの場合体得してはいません。しかし羊飼いは羊一匹いっぴきの性別や体格差、振舞いの特徴や表情を見抜いて名をつけ、その名を呼び、羊の群れを牧羊犬とともに統率していました。しかしその飼育が順調だったかどうかは分かりません。牧場の経営者と羊飼いの考え方の対立も否定できませんし、経営者は単に羊一匹を大事に扱うというより業務上の効率を求めていたと考える方が現実的です。

 そのような事情を知りながらも人の子イエスは次のような譬えを語ります。「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」。もしこの場で羊を追いかける役目が経営者自らであれば、譬えこの一匹が迷い出たとしても、全体の損益を考えて迷い出た羊を放棄し、危険は冒さないとの判断を下すかも知れません。経営者には羊はあくまでも資源であり、全体におよぶリスク管理の観点からすれば九十九匹を残すとの判断を下したとしてもおかしくはありません。しかしわたしにはこの人の子イエスがこの譬え話で用いた「ある人」とは間違いなく羊飼いであったと映ります。その理由は、その動機が決して合理性では割り切れないところにあるからです。きっと様々な特性のある羊がいることでしょう。中には羊同士の衝突により群れから弾き飛ばされた生体もいたと考えられます。しかしこの場で描かれる羊飼いは合理的な計算ができない代わりに、迷い出た羊を追いかけてやまないのです。そして同時に見落としてはならないのは、その背中を九十九匹の羊たちもまた見つめているところにあります。この羊飼いの必死な姿を見て他の多くの羊たちも「人と家畜」という関係性を超えて、この羊飼いならば大丈夫だとの深い信頼と安心感を授かったのではないでしょうか。

 家畜を飼育しながらの暮らしは実に厳しい選択を強いられる場面に遭遇します。養鶏場を経営していたわたしの父方一族の場合、もし鶏舎に1羽でも病気に罹患した鶏が出たならば、その鶏舎すべての鶏を処分しなければなりません。しかもこれが一度ならず十年に一度のペースで起きる算段もしなくてはなりません。その都度経営者は保険や雇用など重要な判断を下します。そのような苦労を重ねた父親は精神のバランスを崩し虚言癖・失踪癖に走り、そして年老いた今は施設に入所しています。思えば十数年前鳥インフルエンザが流行したときに西日本大手の養鶏場経営者は自死、息子である社長がその責任を民事訴訟にて求められる事態となりました。迷い出た羊を追いかけるわざも過酷です。しかし「神に出来ないことはない」、とイエス・キリストは語ります。

 「これらの小さな者が一人でも滅びることは、わたしたちの天の父の御心ではない」とイエス・キリストが伝えようとする神の愛とは、自らあらゆる危険をわが身に担い、苦しみや痛みを負いながら多数の羊を活かすためにも一匹の羊を決して見殺しにはしない羊飼いの姿に重ねられてまいります。その姿は時として愚かであり、経営失格だとの烙印を世間や地域から押されるのかもしれません。しかし一匹の羊のために傷ついた足をひきずり歩くその姿に、わたしたちはただただ感謝の涙を流すほかはないのです。そのようにイエス・キリストは『聖書』を通してわたしたちに問いかけています。「わたしたちは羊の群れ」と『イザヤ書』53章6節を引用するならば、今は様々な毛や性格の羊がおり、溢れる数多の特性の羊が同じ草原に暮らしています。そのような羊一匹いっぴきの特性を見抜き、とかく争いや問題を起こしがちな交わりを平和に導きながら、キリストは更に広い草原へと導きます。わたしたちの置かれた牧場は決して狭く、居場所に窮してはいません。遠くの山の端から射す光に照らされ、わたしたちは羊飼いのもつ杖に導かれて歩みを重ねていきます。主の平安をともに祈りましょう。

2025年9月11日木曜日

2025年 9月14日(日) 礼拝 説教

        ―聖霊降臨節第15主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  


説教=「神の輝く真珠を身につけて」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章44~50節
(新約26頁)

讃美=
517,520,Ⅱ 192(1 節のみ),21-26
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 大和川から南をおもな範囲とする日本キリスト教団南海地区。個性的な教会が軒を連ねます。そのなかでもわたくしどもの教会と交流が活発なのは日本キリスト教団いずみ教会。いずみ教会の創立に関わる物語としてはその設立に携わった人々が被差別部落とその関係者による奉仕が知られています。2025年度からは吉澤和海牧師が主任として招聘され地域伝道に励まれております。その就任式に際して贈られたのは真珠がついたしおりでした。牧師の就任式に随分と高級なものをと驚いたのですが、実はそれは地域で生まれた「人工真珠」というものでした。

 和泉市の特産品となった人工真珠は、当初は小さなガラス玉に太刀魚の皮を貼り付けて製造した、本物の真珠に庶民の手が届かなかった時代に製造された真珠をいいます。この仕事は手作業で行われるのが殆どでしたが、風雨に負けず仕事を続けられる特徴から皮革業や屋外の作業が中心だった被差別部落の人びとが、天候に左右されない稀な職種でもありました。化学塗料や溶剤の臭いこそあれ、身体にかかる負担は大幅に軽減され、文化活動や社会活動に献げる時間、もっといえば礼拝に献げる時間を勝ち取っていったと申します。

 本日の『マタイによる福音書』には次のように記されます。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」。畑に隠されている宝、一粒の高価な真珠。このようなものは探そうとしても見つけられるものではなく、たまたまそこにあったものを見つけられるか、絶えず注意を払っているのか、いずれにしても世にいうリサーチの結果見つけられるというものではなく、二度と繰り返すことのできない出会いの機会、チャンスをものにできるかどうかという一点に懸かっています。その意味では文字通り一度きり与えられるものとして始めてその意味をなすものだと言えるでしょう。

 その意味で本日のたとえ話の結びとなる箇所は辛辣です。「網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる」。それから先には世の終わりのさまが記されますが、世の終わりの描写の直前にその時代の人々の暮らしが細かく描かれているのが興味深いところです。集められた「いろいろな魚」のうち、人々はその網を岸に上げて良い物と悪い物、則ち食用になるものとそうでないものとを仕分けするというのです。あえて深読みすれば、「魚」とは「イエス・キリスト・神の・息子・救い主」とのギリシア語の頭文字を集めての略語でもありますから、教会に連なる人々がこのように仕分けされると記されるのですが、いったいどこにその基準があるのかは分かりません。そうなのです。この箇所で記される終末のあり方とは「全世界に福音が宣べ伝えられた」その後の出来事であって、わたしたちには知る由もありません。けれども天の国、則ち神の国の先取りとしての地に隠された宝、一粒のよい真珠という小さなかけらを尊ぶ仕方に気づくや否やという問いにつながってくるかと存じます。その道筋とは、祈りを軽んじず、イエス・キリストとの関わりを片時も離さないという点にあります。

 一粒のガラス玉に魚の皮を張り付け、樹脂でコーティングした人工真珠。その真珠が人々の暮らしを支えるだけでなく、事実上はカルシウムの塊である真珠というまことにデリケートかつ富裕層にのみ身につけることを赦されていた宝物がタフな姿で一気に民衆のお洒落になっていくという様子。工業用にも用いることができるという、本来の真珠では不可能な領域をも開拓していく道筋が拓けてまいります。貴重なまことの真珠をお持ちの方はその宝を大切にしてくださればと願います。そして手作業によって暮らしを成立たせた、日々差別を被るところの人々がもたらした人工真珠もまた、貧困層に属する人々の暮らしを底あげしました。その意味では富の分かちあいを通して神の国のモデルとなる交わりをもたらしたと言えるでしょう。神の輝く真珠がそこにあります。

 本日は「長寿感謝祝福式」を行います。様々な時の経過とあゆみの中で、神の国のかけらを見出してこられた兄弟がこの祝福に加えられます。イエス・キリストを通してこの祝福は、わたしたちにも注がれています。齢を重ねるのはまことに尊いわざです。これまででなくこれからもその賜物を用いてくださればと願います。

2025年9月4日木曜日

2025年 9月7日(日) 礼拝 説教

       ―聖霊降臨節第14主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  
説教=「人生の実りに問われる生き方」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』13 章24~30節
(新約25頁)
讃美=21-421(日本語),21-434(320),21-26
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信
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【説教要旨】
 9月を迎えました。昼間は強い日差しで辟易する日々が続きますが、暦は立秋をとうに過ぎています。夜半には虫の音が響き、懸命にいのちを繋ごうとする声が響いているようです。

 そのような虫のうち、バッタの仲間が好むのがイネ科の植物。農家には邪魔者ですが、反面、信州や上州、奥州でイナゴは民衆には貴重なタンパク源でもありました。洗礼者ヨハネの食べ物もイナゴであったと記されます。

 しかしそのイネ科の植物には暮らしに好ましくないものもありました。それが今朝の人の子イエスの教えに描かれる「毒麦」と呼ばれる植物です。毒麦とは栽培されるイネ科の植物の擬態雑草で、麦類の植物と同じペースで伸びやがて実をつけるのですが、その実には多量に摂取すると神経を冒すアルカロイド系の物質が含まれています。空腹のあまり危険を知らずに大食いすると嘔吐や下痢、場合には錯乱にまでいたるという植物です。身近なところでは山菜に含まれる「苦み」もその毒によるものだと言われていますが、よほどの目利きでない限り小麦などとは見極めがたいとされます。

 本日の箇所で人の子イエスは「毒麦の譬え」と呼ばれる話を語ります。詳しくは『マタイによる福音書』を繰り返し読めば明らかですが、キリストとの関わりを試みたり邪魔をしたり、あるいは教会の交わりに分裂をもたらしたりする者を「毒麦」、日の光を一身に受けてすくすくとキリストへと向けて育まれ、豊かな実りを結ぶあり方を「良い種」として扱っている模様です。同じ畑に蒔かれた毒麦を他の麦と見分けるのは至難のわざですが、僕たちはめざとく毒麦に気づき「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったのではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」と主人に問いかけます。主人は「敵の仕業だ」と呟きます。農業が日々の生活のみならず、いざという時には兵糧にもつながる場合、このように敵対者が畑に塩をすき込む、または毒草の種を蒔くのは茶飯事でした。当然の事ながら目利きの僕は「では行って抜き集めておきましょうか」と迫るのですが、主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れのとき、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」と語ります。

 わたしたちは暮らしの中で「必要悪」という言葉を聞きます。豊かな成果を得るには少数の犠牲もやむを得ないとする考え方です。しかしこの物語では、そのような必要悪といったものを畑の主人は認めようとはしません。むしろ毒麦ならば毒麦の、よい麦の種であればその麦の実りが、誰の目にも明らかになるまで一定の猶予の期間を設けます。この「神のモラトリアム」のなかで、誰が神の前で誠実であり、誰がそうではなかったかという態度がはっきりするというのです。

 日本人にもよく知られたアメリカ合衆国第16代大統領としてエイブラハム・リンカーンという人物がいます。合衆国南北戦争の時代に北部23州の合衆国大統領として奴隷解放の立場を打ち出し、また日本の児童向けの偉人伝にもよく登場するこの人物。わたしたち大人には時に厳しい言葉をも投げかけます。それは「40歳を過ぎたのであれば、大人は自らの顔に責任をもて」とのメッセージです。何もその人の顔の美醜を問うているのではありません。その人が幾度人に裏切られてもなおも人を信頼し、誠実に歩んできたかがその人の顔に表れるという意味です。この朝、聖日礼拝の会衆席にリンカーンがいて、正面きってそのように問われたのであれば、わたしは自信をもってその問いに答えられるかは疑問です。

 しかしイエス・キリストを中心としたこの交わりに、その理由はどうであれ集う方々は、主なる神から一定の赦しの時を備えられています。「わたしには信仰がありません。主よお助けください」と呼ばわる方々の顔こそが、その人が知らないままでリンカーンの語るところの「顔」をもってイエス・キリストを仰いでいるのではないでしょうか。世の倣いに則するならば、もっといえば通俗的な道徳に則するならば、人生の裏街道を目のあたりにしなければならなかった人こそが、さまざまな苦難や汚れを糧として、よい実りとして主なる神に献げられるに違いありません。ところで「毒麦」に含まれる毒成分は、現代の医療では薬用として用いられる分には貴重であるとされ、偏頭痛の治療や向精神薬にも用いられるとのことです。主が創造し給う被造物には一点の無駄も差別もありません。恵みに満ちた主の祝福を心から讃美し、深く感謝しつつ始める月といたしましょう。