2025年6月21日土曜日

2025年 6月22日(日) 礼拝 説教

   ―聖霊降臨節第3主日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神には決して『無駄』はない」
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』17章30~34節
(新約248頁)

讃美=21-405(225),21-516,21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 今朝わたしたちは神の愛の力に押し出されてイエス・キリストの教えと生き方を伝え、種々の困難を経ながら、その困難が重なるほどに広まる交わりを描いた『使徒言行録』を開いています。とくに使徒パウロがその生涯で第二回目の宣教の旅の途中、立ち寄ったギリシアの都市アテネでの出来事が記されています。

 『使徒言行録』の眼差しは使徒の働きによる初代教会の形成とその広まりに関心を寄せてはおりますが、その背景にはその時代には教会のわざが今日のような時に大々的なものではなかったことが記されます。ウェストミンスター大聖堂やノートルダム大聖堂などこの箇所には登場しませんし、教会が地域の重要なインフラとして機能しているわけでもありません。むしろこの時代ではギリシアの哲学や思想の影響が極めて強く、文字の読み書きのできる人々の心をつかみ、その雰囲気にもなっていました。パウロはその渦巻きの中心にあたる都市アテネに飛びこみます。

 ところで古代ギリシアが民主制を敷いていたという理解がありますが、それは今日の民主制とは全く異なります。労働は奴隷に任せる一方で政は市民が話し合い重要事項を決定するというしくみ。それが古代ギリシアの民主制でした。話し合いの広場であったアレオパゴスという広場にパウロは赴くのです。場に居合わせているのはストア派やエピクロス派といった世との関わりを実に消極的に捉える人々でした。この人々には肉体は精神が乗り越えるべき欲の根源であり、その肉体を精神が自在に制して初めて魂の救済が定まるという理解に立っていました。パウロはその町で、苦難のなかで十字架刑に処された後、霊肉ともに死の闇から復活されたイエス・キリストに根を降ろして活かされる喜びを語ろうとします。しかし絶えず理解を求める多くの人々には新しいいのちへの飛躍ともいうべき復活の出来事を告げ知らせるメッセージに躓いてしまいます。

 確かに復活という出来事はわたしたちには有無を言わせず迫る出来事でもあります。しかし他方で人生のすべてに説明がつくというのもいささか浅薄な気がいたします。散々言葉を紡いだ挙句、その最後には「理屈ではない」というお話は、時に詭弁の誹りを免れませんし、人の心を激しく動かしもいたしません。『聖書』の言葉はその意味では実に丁寧で、当事者として言葉にできない出来事を後から振り返りながら物語として懸命に紡ぐという姿勢を一貫して崩しません。パウロは律法学者として『新約聖書』もなく、壮麗な大聖堂ももたなかった時代のキリスト教徒を弾圧するためシリアの都市ダマスカスに赴く途中、雷に打たれたかのように自らの名を呼ぶキリストに「目が見えなくなる」という仕方で出会い、目覚めました。その体験に根ざす喜びを何ら臆せずにアレオパゴスに響かせ語るのです。

 このアテネでの伝道を、後の世、とりわけ現代の人々のなかには「失敗した」と結論づける者がいました。「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それで、パウロはその場を立ち去った」。しかし『使徒言行録』はパウロの働きを「成功した」とも「失敗した」とも語りません。そのような成果主義では推し量れない時が静かに訪れていました。

 それは「パウロについて行って信仰に入ったアレオパゴスの議員ディオニシオ」「ダマリスという女性やその他の人々」がいたという事件です。ギリシアの都市は城壁がありました。そのなかで様々な市民の特権が保証されていたのです。もしこの「議員や女性、その他の人々」が心の壁を越えていったとするならば、ディオニシオもダマリスもそれまで持っていた特権をすべて投げうって、キリストに従う道を選んだこととなります。奴隷に支えられた自由な市民生活というこれまでの支えは通じない世界に飛びこみました。もはや特権階級でもなく、奴隷でもない人々。世にある人々の目からすれば得体の知れない教えに導かれていったとの誤解を多く受けたことでしょう。しかし人が売り買いされるなかで得た仮初めの自由よりも、この人はもっと広くもっと天高い世界へと羽ばたく自由を授かりました。

 わたしたちはそうとは気づかないまま自らの常識や倣いでもって『聖書』を読み込もうとします。そのときに「理解できない」「分からない」という理由でもってその扉を閉じてしまう時もあります。アテネの市民の大多数がそうでした。けれどもむしろ、わたしたちには「理解できない」「分からない」からこそ『聖書』の言葉とともにあゆみたいものです。復活の出来事が示すいのちの連なりや重さは人の理解を超えています。しかし神がなさるわざに一切の無駄はありません。若くても齢を重ねても「人生曰く不可解」だからこそ胸は高鳴ります。『聖書』の言葉を胸に秘めながら出会う日々。キリストを通した神の愛のわざのなか、人の言葉で記された『聖書』は神の言葉になるのです。

2025年6月13日金曜日

2025年 6月15日(日) 礼拝 説教

  ―聖霊降臨節 第2主日礼拝―


時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「イエスは必ず生きづらさを分かちあう」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』11 章25~30 節
(新約20頁)

讃美=21-351(66),Ⅱ.191,21-26.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 大分前、春から夏にかけての話になります。帰宅いたしますと、伴侶が韓国のチジミを夕食に出してくれました。実に瑞々しい香りがいたしました。尋ねますと、付近の公園にセリの群生地があって、そこから摘んできたとの話でした。現在、伴侶は緊張した場面では一度に二つの単語までしか話せません。何かを話してそれが誤解をもたらさないかどうかが不安で仕方がないとのことでした。けれども、それでも一人草むらや自分で手を入れたプランターで採れたハーブを用いては、黙々と家事をしながら礼拝に出席する備えをしているようです。

 伴侶に限らず、生きづらさを抱えた人は教会員の方々にもおられるでしょうし、こども園の職員や保護者にもおられることでしょう。ましてやこの物価高のなかでどのように暮らせばよいのか思案しているうちに心身のバランスを崩したり、職場の人間関係に行き詰まったりする人は後を絶ちません。なぜ電車の人身事故が絶えないのでしょうか。「人間関係を言い訳にするなど甘すぎる」との言葉も聞こえますが、果たしてそうなのかと考えます。種々の生きづらさや心の病はその人個人の問題というよりも人間関係に内在しており、個人の態度や根性といった言葉では必ずしも十分には表現しきれないように思われるからです。もしそのような言葉が用いられるとするならば、それは何らかの差別的な態度を示しているようにも思えます。

 わたしたちは聖日礼拝で『聖書』を開きます。そしてそこでイエス・キリストの生き方に触れ、またその教えに問いを投げかけられます。しかし他方でイエス・キリストの生き方に従おうとする人は世にあって何らかの生きづらさをすでに抱えている人か、またはあえてその生き方に巻きこまれた人に絞り込まれてまいります。それは何かの選民意識やエリート意識に基づくのではなく「そうせずにはおれなかった」という意味での選びに基づいています。自分で選んだとの自分を中心にした選択での生活は長続きしませんが「そうせずにはおれなかった」というあゆみの方が、周囲の交わりに支えられているだけに思いのほか主にある生涯を全うするかもしれません。

 本日の箇所で人の子イエスはまず天の父をほめたたえます。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父の他に子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。父の他に子を知る者なく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいないと語るイエス・キリスト。『マタイによる福音書』の書き手集団が示そうとしているのは、父なる神こそがメシアを示すのであって、世にある人々にそれは隠されているという話です。平たく言えば「メシアの秘密」となるのでしょうが、この話に即するならば、どれほど教えを語ろうとも、人々を癒そうとも、神の愛を証ししようとも、時が満ちるまでは「キリストは誰か」という重大事は常に隠されているという話です。人の子イエスはこの孤独のなかで父なる神をほめたたえ、神とともに苦しみぬいたのです。そしてその孤独とは、イエスと出会い、交わりを授かった人々の苦難でもあります。「この苦しみには何の意味があるのか」。耐えがたい生きづらさを抱えて一人佇む人に向けてイエス・キリストは語りかけます。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。イエス・キリストはわたしたちに「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」と語っても、全ての重荷から解放するとはひと言も申しません。そのようなインスタントな安っぽい恵みについては触れません。しかし、あなたを疲れさせ、重荷となる重圧の代わりに「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と話します。軛とは二頭の牛や馬が御者の手綱から離れないように肩にかけられる枷を示します。イエス・キリストが、わたしたちの重荷をともに担ってくださっているのです。その姿はどのようなものか。それは突如ローマ兵に無理矢理十字架の横木を担がされたキレネ人シモンのごとくであります。わたしたちは、すでに有無を言わせない仕方で、イエス・キリストの軛をともに担っています。それこそがわたしたちが生きづらさをイエスと分かちあい、生きづらさを通して新たな出会いと交わりを育む鍵となります。「それは無理だ」と怖じ惑う必要はありません。イエス・キリストが示した神の愛である聖霊のわざを通して、わたしたちは大切な人の生きづらさを排除するのではなく、そうだねと肯定できるのです。アーメンとの呟きが静かな喜びとともに湧いてまいります。

2025年6月3日火曜日

2025年 6月8日(日) 子どもの日(花の日)ペンテコステ礼拝 ライブ中継

―聖霊降臨節 第1主日礼拝―

―子どもの日(花の日)ペンテコステ礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

  

説教=「神様の愛に背中を押されて」 
稲山聖修牧師

聖書=『使徒言行録』2 章1~4 節 
(新約214 頁)

讃美=(改)こどもさんびか106,
「ワワワいっしょに」,21ー81,
(改)こどもさんびか114.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は、今回は「ライブ中継」
のみとなります。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

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