2024年11月21日木曜日

2024年 11月24日(日) 礼拝 説教

   ―降誕前 第5主日礼拝―

――収穫感謝日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 
説教=「誰もが和解する実り」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』 25章31~40 節
(新共同訳 新約 50頁)

讃美= 21-530,506,21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 路線バスに乗り、車窓に映る刈り入れの終った農地をぼんやり眺めておりますと突然「死後裁きに遭う」というような黒地に黄色のブリキの看板にどきっとさせられることがあります。『新約聖書』にも時々死後の世界を題材にした譬え話が描かれます。ですから「『聖書』では死後の世界はどのように描かれているのですか」「『亡くなった人は天国に行く人と地獄に行く人がいるのでしょう。神さまを信じていない人はみんな地獄行きなのですか』」と問われて戸惑う場面にも遭いました。

 しかし不思議なことに、人の子イエスが歩んだ古代ユダヤ教の世界では、わたしたちが考えるような「地獄」には関心が置かれません。生前どのような人生をたどった人も、その人生を全うすれば陰府(よみ)に降り、そこで眠りに就き、神の国の訪れとともに復活するという理解に立ちます。ですので、生前の生き方の報いを死後に受けるという意識は希薄で、すべてが世にあって救いも報いも味わう物語の展開になっている場合が殆どです。

 それではなぜ『福音書』の物語で神の国が天国として描かれたり、貧しい人々に無関心な人々が地獄に落ちたりするのでしょうか。それは『新約聖書』が古代のギリシア語で記されたからだと言われています。古代ギリシアの哲学や神話はその時代には教会の教えよりも広く影響力を保っており、場合によれば仏教との接点すら見いだせるとの指摘もあります。しかし何をもって善となし、何をもって悪となすかという問題についてはわたしたちが破れを覚える身である以上、まさしくこれだと印籠のように人前にかざせないところです。仮にそのように分かりやすいのであれば、わたしたちはこれほど世の中で悩んだり苦労したりはしないというものです。

 先日の日曜日、何度もみなさまにお伝えしているところの矢島祥子さんのご逝去15年記念会が行われ、わたしもご遺族からお招きを受けて出席しました。群馬大学医学部から沖縄県で研修医時代を過ごし、淀川キリスト教病院での勤務を経てあいりん地区の地域医療に心血を注がれましたが、34歳で何者かに拉致され殺害されました。しかし司法解剖とは裏腹に警察は見込で自死と判断し、それまで活動をともにしてきた人々は祥子さんの働きを否認しました。残念ですが本田哲郎神父でさえそのような立場を表明されたと申します。その背後にはわたしたちには触れられない貧困ビジネスの闇と、ジェントリフィケーションとも呼ばれる西成特区構想があります。次々と地域の労働者の支援団体がNPO法人化された結果、軽々に行政を批判できなくなりました。現在、あいりん地区へ行けばもともとは労働者の糧であったビールやホルモンが星野リゾートやあべのハルカスでは、まるでイギリスのパブで注文されるペールエールとチーズのように洗練されて配膳されます。その陰でかつて体力のある時には日雇いとして働いていた人々、または一目でホームレスと分かる姿の人々は姿を消し、貧困の問題が煌びやかな飾りのもと見えなくされる道を辿っています。そのような中で15年を経た今もなお「さっちゃん先生」という一粒の麦は忘れられ放置されていくのでしょうか。

 『旧約聖書』との関わりの中で『新約聖書』を読み直し、死後の世界の物語をこの世の物語であると幾度も解釈し直しますと、決して神の愛の名のもとで大地を耕していった人々は、その人自らが気づかなくても、主なる神からその働きをねぎらわれているのではないかと思うのです。そしてわたしたちが逆にその人は悪の権化であったというような歴史上の人物でさえも、神の愛の力の前には決して打ち勝つことができないのだと理解できます。ヒトラーは神の審判を受けて地獄に行ったのかと問われれば、わたしは分からないと答えます。ヒトラーが歴史に現れなかったとしてもヒトラー的な人物があの時代に現れ暴君として働いたのは想像に難くないからです。ヒトラーの死後を論じるよりも、あなたがたはどうするのかと『聖書』はわたしたちに問いかけているように思えてなりません。『旧約聖書』の書き手集団が死後の世界を描かなかったかと言えば、そのような夢想に立ち止まる暇はなく、ひたすら神の国の訪れに関心を置いて祈り続けていたというに尽きます。世の邪悪さと決して土俵をともにしない生き方がわたしたちの前に備えられています。「さっちゃん先生」を始め、触れるに憚られる「義に飢え渇く人」はそこに、神の国に名前が刻まれているのではないでしょうか。
「使徒信条」にキリストの陰府降りが記されるように、豊かな恵みは大地に深く根を張って初めて授かるものです。早とちりしながら、遠回りしながらでも、わたしたちは神の愛の土俵とその畑を尊びたいと願います。わたしたちはその涙ともに、しかし喜びつつ畑を耕し、豊かな恵みを授かり、その実り一粒ひとつぶに感謝を献げてまいりましょう。



2024年11月14日木曜日

2024年 11月17日(日) 礼拝 説教

  ―降誕前 第6主日礼拝―

――謝恩日礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 

説教=「穏やかでない相手とともに暮らすには」
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5 章 38~48 節
(新共同訳 新約 8頁)

讃美= 21-43-3,Ⅱ 41,21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
 泉北一号線、また泉北高速鉄道のレールの近くに暮らしておりますと、始発電車の音が目覚ましとなるときがあります。光明池駅の始発電車は5時9分。ダイヤこそ違いましたが、かつてはこの便を用いたこともあります。

 安心するのは始発電車として泉北高速鉄道は実に静かなことです。乗客も身支度を調えておられる方々ばかりで気持ちも引き締まります。なぜこのようなことをお話しするかと申しますと、始発駅によっては車両内がかなり常識を越えてしまう場合があるからです。時に起きる車内トラブル。そのあり方も西日本と東日本とでは温度差があります。さしあたり罵声が飛び交うのが近畿界隈。しかしその大声を言い換えますと「わたしの近くによらないでください。意見はありますか」とも聞こえなくはありません。その場合は他の車両に乗り換えます。

 いずれにしても一日の始まりは人情としては穏やかにしていたいのが本音です。ですからなおのことトラブルの元凶とされる人々の心には大きな不安や心配や悲しみが宿っているようにも思います。「他にどうすればよいのだ」との叫びが沈黙の車両には響きます。

 本日の『聖書』の箇所は、平和を目指す偉大な事業を成し遂げた人々や、大規模な争いや災厄を経ながらその中で優しさや良心を失わなかった人々が愛した聖句としても知られていますが、あまり高嶺の花咲くところばかりで響くようですとわたしたちに縁遠いようにも思えてしまいます。けれども人の子イエスが語りかけた相手が名も無く、個々の交わりの希薄な「群衆」であったり、その群れから導かれた弟子であったりすることを踏まえますと、通俗的な場面にあっても人を導く力を失わないと考えます。本日の箇所で人の子イエスは『目には目、歯には歯』という、『ハンムラビ法典』の「同害復讐法」を乗り越えるあり方として「復讐の禁止」を訴えます。本来はこの「同害復讐法」にはおはぎ一つ盗んだ過ちで、幼子が大人の私刑によって殺害されてしまうような状況を回避するために編み出されたはずなのですが、時を経るに従って、果てしない憎しみの連鎖として理解されるにいたってしまいました。むしろ本来は、もともと対立関係や憎悪の関係にある二者間が、憎しみの土俵に立たずに、食事に飢えた幼子がのけ者にされないためにどうすればよいのかとともに智恵を絞る協力関係に立つための示唆であったはずです。誰も好き好んで泥棒や強盗になりたいとは思わないはずです。

 それは次の「敵を愛しなさい」との教えにも通底しています。「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」とあります。共同体の結束力を強めるために、敢えて外部なり内部に排除すべき「異なる者」を設け、共同体の繋がりを緊密にする手口は、古代ローマ帝国に限らず、現在のわたしたちの間でも見出せます。その「異なる者」の象徴として本日の箇所では「徴税人」との言葉が見いだせます。人の子イエスは徴税人の存在を当時のユダヤ社会の「分断統治」の典型として理解していた模様です。しかしこの徴税人を憎悪したところで人は憎しみからは決して解放されません。好感を得られる人と時と場所をともにするのは誰にでもできます。けれどもかつて、年老いた牧師が和やかな雰囲気の中、敢えて「教会は仲良しサークルではない」と懸命に語った背景には、イエス・キリストが愛した愛の土台に立ちなさいとの強い思いがあったのではないでしょうか。

 今、世の中は分断を叫ぶ声が強まりつつあるところに立っています。家族の中にもそのような分断が頭をもたげる場面があるかもしれません。けれどもその時こそがキリスト者の正念場です。何度も負の気持ちに溺れる中で、いつもわたしたちに必ず差し伸べられるのがイエス・キリストが堅く握る「いのち綱」です。もし今、わたしたちが深い憎悪に囚われていたとすれば、キリストを通して神にその憎しみを敢えてぶつけていく道もあるでしょう。十字架を通して神と繋がる憎しみは、やがて時が経つほどに全く別の、全く異質の尊いものへと変えられていきます。憎しみはわたしたちのすべてではありません。そのことをわたしたちは敵を愛する生き方から教わります。光は闇に勝利し、愛は憎しみを必ず克服します。わたしたちはこの実に単純な教えを、高嶺の花ばかりからだけでなく、足下に咲く野の花の彩りからも気づかされます。イエス・キリストの愛を心に宿しましょう。

2024年11月7日木曜日

2024年 11月10日(日) 礼拝 説教

―降誕前 第7主日礼拝―
――幼児祝福式礼拝――

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 
 

説教=「神の祝福につつまれるこどもたち」
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』10 章 13 ~ 16 節
(新共同訳 新約 81頁)

讃美= 21-57,461,讃美ファイル 9,21-29(544).
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画は「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
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【説教要旨】
 「モブキャラ」という言葉があります。それは漫画やアニメーション、映画、コンピューターゲームなどに登場する、個々の名前が明かされない群衆を指します。演劇やミュージカルで同じような役割で登場するのは「アンサンブルキャスト」、映画では「エキストラ」と呼ばれます。演劇や映画でのキャストやエキストラの場合、指導の細やかな映画監督は「群衆一人ひとりにも表情があるのだから」とキャストにもエキストラにも演技を要求しますが、漫画やアニメ、ゲームの場合ではそのようには描かれないのが殆どです。

 それでは本日の『聖書』の箇所に描かれる、人の子イエスに触れていただくために、人々が連れてきたこどもたちとは、単に人の子イエスが神の子であると示すために描かれたモブキャラなのでしょうか。「連れてきた人々」も「連れられてきたこどもたち」もイエス・キリストと弟子のやりとりを際立たせるためのモブキャラではなさそうだという見地からいたしますと、興味深い発見があります。「人々」と示される人の群れも、「こどもたち」として表現される幼子たちも、それぞれの名前や生い立ちがあったはずです。しかし「人々」と「こどもたち」の間に血のつながりがあったかというと必ずしも書き手は記しません。ただし、人々と連れてこられたこどもたちの間には何らかのつながり、愛情があったことや、「人々」と呼ばれる大人には、ふと思い立ってこどもたちを人の子イエスのもとに連れてきた者もいれば、熟慮の末、悩んだ末にキリスト(救い主)と人々が噂するイエスのもとにこどもたちを連れてきた可能性があります。

 そのような思い詰めた顔もある大人を弟子は大勢の前で叱った、または面罵したのですから、弟子には許容できない振る舞いがあったのかもしれません。面罵とは尋常な対応ではありません。集まったのはどのようなこどもたちだったのでしょうか。その際、人の子イエスの時代、この福音書が記された背景には、現在のわたしたちには想像できない生活格差が横たわっていたとの事情を顧みますと一つの光景が瞼に浮かびます。

 現在、アフリカ大陸にはナイジェリア連邦共和国という国があります。ナイジェリアはアフリカ最大の原油最大国で、国のいたるところに原油のパイプラインが張り巡らされ他国へと販売されています。この際用いるパイプラインや石油掘削技術を提供するのはロイヤル・ダッチ、シェル、エクソン・モービルといった国際資本の石油メジャーで、その収益の殆どが都市部に暮らす人々、政府関係者の人々の財政基盤となります。

 しかし問題は正規の収益からあぶれる他なかった地方の村人や、もともと農業に従事していた人々の生計です。この人々の生計がどうなっているのかと申しますと、巨大なパイプラインに穴を開けて、ヤミで原油を精製し、破格の易さで人々に販売し収益を得ているのです。そしてパイプラインに穴をあける作業をしたり、ガソリンを精製したりする作業、またペットボトルにガソリンやオイルを詰める作業に従事しているのが、本来ならば教育を受けるべきこどもたちなのです。内戦中の国における少年兵の問題は人々の大きな関心事になりますが、このような危険かつ医学的にも大いに問題のある状況にあるこどもたちの話は国際連合でも話題として聞いたことがありません。もちろん精製した後の原油の残り滓であるタールはジャングルや河のあちこちに放置されますから生物はマングローブを始めとしてことごとく死に絶えていきます。不安定な農作物や狩猟による収入よりヤミ値でガソリンを販売した方が収入は落ち着き、また政府もこれを黙認しているところがあります。自然環境を保護するならば、どうやって人々の雇用を保障するのかと先進国が考えなくてはいけないところですが、石油メジャーのほうがナイジェリア連邦政府よりも力が強いのが、アフガニスタンとは事情が異なるところです。

 かつては石炭の粉塵まみれ、今では廃油まみれのこどもたちを人々が人の子イエスのもとに連れてきたどうなるか、わたしたちのもとに連れてきたらどうなるのか。わたしたちは大きなジレンマに立たされます。そしてその場合弟子が人々を面罵した事情も分からいではありません。けれどもイエス・キリストは弟子を諫め、こどもたちを「神の国を受けいれる人」として祝福されます。その子の身なりがどうであろうと関係なく抱擁するでしょう。福音書ではキリストのもとに集まってきた人々やこどもたちは決して「モブキャラ」ではないのです。

 現在わたしたちの国では、シングルマザーのお子さんで離婚された相手が異文化の方であり、日本語しか話せないという方々が想像以上に多くおられることを知っています。人の子イエスはその子たちの悲しみや痛みをすべてご存じです。本日は幼児祝福式を行います。こどもたちが主なる神の御手に置かれますように祈ります。