2022年10月27日木曜日

2022年10月30日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

 ー聖霊降誕節前第8主日礼拝ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「その人の輝きはどこから来るのか」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』11章37~44節
(新約聖書130ページ)

讃美=344,Ⅱ.167(1~4),544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 林竹治郎という画家がいます。「朝の祈り」という名画で知られています。丸いちゃぶ台を囲んで、母親と四人のこどもが祈っているという情景。日露戦争の最中に描かれたこの作品には、壁に軍刀と軍服姿の肖像画が書き込まれているところから、林自らの家庭を土台にしながらも、その時代の人々の思いを、『聖書』を囲み祈る家族の姿へと凝縮させたところに大きな評価を授かり、今も北海道立美術館に展示されています。キリスト者の家庭と申しますと、このようなイメージを彷彿とされる方々も多いのではないでしょうか。帰らぬ家族を待ちわびながら、清貧の中で『聖書』を囲み、祈りを献げ、家族にはとりたてて争いもなく、日曜日には礼拝で祈りを重ね、訪れる人々に笑顔で向き合うという具合です。なるほどわたしたちのモデルとなる絵画のイメージではありますが、どのようなイメージであれ、わたしたちが特定のイメージに過分に縛られますと、日々の暮らしが喜びよりも窮屈なものに感じるようになる場合もあります。イメージとしてのキリスト教はその時代その時代によって変わりますが、『聖書』の言葉は変わりませんから、信仰生活に行き詰まりを感じるのであれば今一度『聖書』に立ち帰るのが肝になってまいります。
 本日の『聖書』の箇所では、人の子イエスがファリサイ派の人から食事の招待を受けた、とあります。ファリサイ派にも人の子イエスの教えや行いに関心を抱く人々は少なからずおりました。しかしあろうことか、その宴席で人の子イエスとファリサイ派の決定的な違いが明らかになってまいります。それは、ファリサイ派の倣いに従って、人の子イエスが戒律に従って食前に身を清めなかったところから始まります。よく似た記事は『マルコによる福音書』7章1~4節にもあります。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを堅く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めていないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることが沢山ある」。今朝の箇所では弟子ではなく人の子イエス自らがこの倣いに従わなかったということで不審を抱かれることとなります。もはや問題は単なる衛生面に関する事柄でも「昔の人の言い伝え」を守るかどうかという事柄でもありません。ファリサイ派の抱くイメージにそぐわなかったイエス・キリストの立ち振る舞いそのものにありました。本来ならば人の子イエスと語らう食卓の交わりが不審の念によって切り裂かれてしまうのです。すなわち「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にあるものを人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」。杯や皿の外側は目に見えますが、人の内側と申しますものは目には見えません。この見えないところへの配慮が疎かになっているとイエス・キリストは指摘します。
 さらにイエスの指摘は続きます。「薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛は疎かにしている」。人の子イエスの指摘は、ファリサイ派の内面の問題から徐々に内面に由来するところのわざへと及んでまいります。先ほどの箇所でも「ただ、器の中にあるものを人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」とありました。これが当時のユダヤ教における十分の一献金も含めた「尊ぶべきは正義の実行と神への愛」と次第にその輪郭がはっきりしてまいります。そして遂には「会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好む」と身についた習慣までに指摘が及びます。パウロが『コリントの信徒への手紙Ⅱ』4章18節で記した「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」との言葉には、実はイエス・キリストによる、絶えず歪みを抱えるところのわたしたちへの誡めの言葉が含まれます。これは忘れてはいけないでしょう。今朝の礼拝でひとつの言葉に凝縮するならば「キリストの恵みに応える柔軟さを大切にする」とも言えます。わたしたちは倣いに硬直いたしますと、責任と良識を伴うその倣いへの批判や時代の流れに目をつむり、耳を塞ぎ、何も言わず、ただ黙認しようとします。教会の伝道というものがうまくいかないとの言葉をあちこちで耳にしますが、それは教会各々のもつ賜物が、教会そのものの硬直した倣いの中で存分に生かしきれていないという場合が殆どです。実にもったいないことです。齢を重ねようと、現在、ご家族に何らかの課題があろうと、主なる神の眼差しから見た場合、必ずどこかにキラリと輝く尊さが見いだせるはずです。その尊さにこそ、神が優しく祝福を授けてくださっています。「世の中は変わってしまった」と溜息をつく時が多くなっています。前向きに「変わった」のではなく「変わってしまった」と呟きます。だからこそ主なる神に油を注いでいただき、凝り固まった魂を輝かせていただいているとの確信に立ちたく願います。



2022年10月20日木曜日

2022年10月23日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)※当日の礼拝中継視聴用リンクを掲載しています。

  ー降誕節前第9主日礼拝 ー

―特別伝道礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

メッセージ=福井生(いくる)先生
主題=「この世界に立つということ」

聖書=コリントの信徒への手紙Ⅱ 
   4章16~18節
  (新約聖書329ページ).

讃美=536,531,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。

ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
(礼拝終了後も、中継動画をご視聴頂けます)

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
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2022年10月13日木曜日

2022年10月16日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

ー聖霊降臨節第20主日礼拝 ー
―長寿感謝の日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「こころからしあわせになるために」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』5章1~12節 
(新約聖書6頁).

讃美=333,536,512(1),544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 「一度退任した教会とは決して関わってはならない」と、伝道師として仕えた教会の牧師からわたしは徹底的に叩き込まれました。それは新任の牧師と教会の新しい展開を妨げる大きな原因になるとの理由。至極尤もだと今でも思っています。ただしそれが同じ地区の教会に留まらず、当該教会の牧師から婚約式を依頼されるとなると話は難しくなってまいります。配慮しながらではありますがひっそりと関わりを続けることにより、わたしたちにリモート礼拝の技術を教えてくれたのはその牧師です。そうしたわけで先週の聖日礼拝後、退任してから20年ぶりにその教会を訪問しました。青年牧師と、近い将来に伴侶となるフィアンセの仲睦まじい雰囲気、雰囲気、そして教会員を始めとして集まった会衆の喜びにしみじみするとともに、20年の時の流れの厳粛さを、つくづく噛みしめました。婚約式の後に「先生、あのときは教会員だけで礼拝堂を建てて、借入金返済も含めてみんな余裕がなかった。悪いことを言ったなあ」と握手を求められたり、当時激しく叱咤を受けた方からは涙ながらに握手を求められたりと、こちらも情に流されないよう堪えながら対応しました。そのときには分からなくても、歳月を重ねることで体感的に分かるところ多く、こちらも年相応にしっかりしなくてはと思いながらその場を後にいたしました。
 本日の『聖書』の記事は、イエスが群衆にも聞こえるような仕方で弟子に語った、俗に「山上の垂訓」と呼ばれる箇所です。おそらく教会と関わらない人であってもご存じの方は多いのではないでしょうか。なぜなら、その教えの内容は、世にあって説得力をもつ、目標として設定する幸せとは一見すると大きくかけ離れているからです。なぜ世にあって欺かれていくような心の貧しい人々が幸いなのか。なぜ悲しむ人々が幸いなのか。なぜ暴力に痛めつけられるようなありようの柔和な人々が幸いなのか、不正の中に立つところの、義に飢え渇く人々が幸いなのか、虐げられた人々に思いを寄せる憐れみ深い人々が、人々を搾取し世には力強く振る舞っているかのように思える人々よりも幸いなのか、争いの中で豊かさを勝ちとる人々よりも平和を実現する人々のほうが幸いなのか、筋道を通そうとすることによって却って虐げられる人々のほうが幸いなのか、イエス・キリストと関わったばかりに罵倒され、泥水を啜るような極貧の暮しを選ぶほかない人々が幸いなのか、確かに言葉としては分かりやすく、翻訳もそれほど難しくはないことでしょうが、それにしても、世にあってもてはやされる幸せと人の子イエスが説いた幸せとはなぜこうも食い違うのでしょうか。明治以降、日本で『聖書』が読まれるようになってからの永遠の問いとなっています。
 少なくとも山上の垂訓で重要なのは、「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」「キリストのゆえに迫害される人々」が、「幸いである」とイエス・キリストの祝福を授けられているというところです。人が自力で追い求めていく「幸せの青い鳥」はかのおとぎ話にあるとおり、決して人の手の届くことはありません。そのときそのときの時代や雰囲気に大きく左右されてまいります。「かの時代にはそうであったけれども今では幸せの尺度ではない」という事態が大いにあり得るのです。人が追い求めていく幸せとはかくも脆いものです。けれどもキリストに祝福されたからといって、この貧しさに、悲しみに暮れることに甘んじていて良いのだろうかとの声には、『ヨハネによる福音書』16章20節の「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」が応えます。まことに力強い宣言です。「山上の垂訓」でイエス・キリストに祝福された人々は、弟子だけではなく、その声を聴いている名もなき民であるところの群衆も含んでいます。弟子もまたこのような群れから招かれた人々です。その祝福は、わたしたち個々人、一人ひとりにバラバラに所有されるものではなくて、当事者にさえ気づかない、まさしく授かりものの豊かな交わりを育んでまいります。たとえ貧困の中にあろうとも、戦争の中にあろうとも、「健やかなとき」よりも「病めるとき」のほうが長いものだと家庭での生活に溜息をつくことがあったとしても、大切な人を天に見送るようなことがあったとしても、キリストによる祝福は時を重ねる毎に、祝福を授かった人々に深く根を張ってまいります。
 本日は長寿感謝の日礼拝です。齢を重ねた人の言葉がいつも正しいとは限りません。なぜなら人間はいつまでも破れを負うからです。しかし齢を重ねた方々の特権があるとするならば、時を重ねれば必ず分かることがあるとの言葉を、誰よりも深くその身に刻んでおられることだと『聖書』は語ります。後に続く者であるところの人々にもやがては、長期記憶のみが残り、最近の事々はよく忘れてしまう身体になることでしょう。しかしその人が世にある限りいつまでも残る記憶の中に讃美があり、『聖書』があり、祈りがあるとするならば、これほどの幸せはないといえるのではないでしょうか。人がこころから幸せになるために欠かせないのはイエス・キリストとの深い関わり。その関わりは地下水脈のように潤いを湛えています。その喜びを伝えてまいりましょう。

2022年10月6日木曜日

2022年10月9日(日) 礼拝 説教(自宅礼拝用です)

ー聖霊降臨節第19主日礼拝 ー

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 

説教=「それはわたしのことですか」 
稲山聖修牧師

聖書=『マルコによる福音書』14章26~31節
(新約聖書92頁).

讃美=298,3,544.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 SNSを用いて礼拝を中継したり、メッセージ動画を配信したりするという試み。コロナ禍の三年間、当初は「リモートワーク」という言葉の意味すらも分からなかったわたしたちでさえ、今やそれが日常化し、事務レベルの会議であれば、わざわざ出張するまでもなくモニター越しに意見を交換できるようになりました。コロナ禍により対面式のコミュニケーションが憚られる一方で、物理的な距離を問わないコミュニケーション技術が加速度的に発達してまいります。その結果、顔と顔を合わせての対話でさえ、偽名を用いたり、画像を加工したりすることも可能となりました。媒体となるネットワークによっては匿名で投稿できるものも出てきます。匿名での誹謗中傷が、人を病に陥らせるだけでなく、自死へと追い込むという社会問題も起きています。匿名となったとき、責任を問われなくなったとき、人はこうまでも粗暴になれるものかと、コミュニケーション技術が発達するほど荒む人心に肩を落とす時もあります。言葉の重さが問われなくなり、言葉が上滑りし、相手がどのように受けとめているのか気にならなくなるときほど、その言葉は暴力的にさえ響きます。当事者性を欠いた言葉ほど恐ろしいものはありません。
 ところで、神の言葉に聴き従うはずの教会でさえ例外ではありません。神を見失ったときには、その言葉が上滑りし、交わりが混乱するという事態が幾度も生じました。本日の箇所で人の子イエスは「あなたがたは皆わたしにつまずく」と、讃美の調べの後に唐突に弟子たちに語ります。「あなたがたはわたしにつまずく」ではなく「あなたがたは皆わたしにつまずく」、つまり「つまずき」はすでに弟子全員にわたる確定条項なのだと言わんばかりの言葉です。イエスのこの語りかけは『旧約聖書』に基づいており、続く言葉には「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」との、希望に満ちた復活の出来事によって拓かれた道が示されています。けれどもその折、弟子を代表するはずのペトロが「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と抗弁します。ペトロの抗弁は次の点で問題です。則ち、「たとえ、みんながつまずいても」というところ。他の仲間はさておき、というところで、すでにペトロの高慢さが顕われています。そしてこれまでペトロがつき従ってきたイエスは、ペトロには神なしに受け入れられた、単なる人としてイエスであり、たとえイエスをメシアだと告白したところで、その告白は大きく的を外していたところです。そしてさらに力を込めて言うには「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。ペトロは悪気があってこのように口走ったわけではなかったでしょう。むしろ、讃美の後でありながら、常々慕っている師匠でもあるイエスから出た言葉の真意が分からず、憤慨してつい出た言葉であったのかも知れません。しかし、この言葉が呼び水になって「皆の者も同じように言った」とあるように、一二弟子の交わりが解体されていくのです。
 悪意ではない。しかし交わりに分断を招く言葉。ペトロは自分の言葉が、他の弟子との関係を切り裂いている事実に気づきません。傷つけていることに無頓着です。これは時としてわたしたちにも重なります。ペトロが義しさを過剰に主張するほどに「羊は散ってしまう」という言葉を期せずして実現しているのです。「自分は義しい」とは反転すれば「他の人は間違っている」となります。それは心外ですから、他の弟子も同じように「自分の義しさ」を主張するところとなります。
  そのようなペトロに、イエスは語りかけます。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないというだろう」。ペトロは何を言われているのか分からないまま、事態は移ろっていきます。イエス・キリストの言葉が何を示しているのか、そして自分の言葉がどれほど当事者性を欠いた、「それはわたしのことですか」と言わんばかりの響きしか持ち得なかったか。ゲツセマネでイエスが苦しみの中で祈っているときに眠りこけるだけでなく、祭司長や律法学者、煽られ武装した群衆がイエスの身柄を拘束したときに、弟子は皆逃亡するという醜態。そして人の子イエスが不当な裁判を受けているとき、怖々とイエスの後をたどりながら、大祭司の屋敷の中庭で火に当たりつつ、女中に「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と問われ、「分からない」と答える。鶏の声が響く中で「この人は、あの人の仲間だ」と言いふらされるのを怖れて「違う」と打ち消す。そして「確かにお前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だからだ」と指摘され、呪いの言葉さえ発しながら「知らない」と恐怖に駆られて叫ぶ。その時々に口にした言葉に明らかです。「それはあなたのことなのです」。もはやペトロの逃げ場はありません。誰よりもペトロ自らが、わだかまりとともに胸に刻むほかなかったイエス・キリストの言葉どおりになってしまったと気づき、泣き出すところではっきりしました。自分のほうから投げかけたイエス・キリストとの関わりを、恐怖の中で呪い、裏切った結果、とめどもなく流れる涙の中でペトロはイエス・キリストの出来事の当事者となりました。『聖書』の言葉の当事者としてあゆむとき、たとえ涙の中でもその道は「神の愛を証しする道」となります。その道はキリストの慰めと復活の光に包まれています。