「書き込まれた新たな物語」
『ヨハネによる福音書』8章 3~11節
説教:稲山聖修牧師
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本日の箇所では、姦通の現場、今日の言葉で言えば不倫の現場で捕らえられた女性の姿が描かれます。イエス・キリストの振る舞いとしてまことに劇的な場面ですが、実は『ヨハネによる福音書』にのみ記されている物語でもあることを、わたしたちはつい忘れてしまいます。しかもこの物語は『新共同訳聖書』の括弧が示すように、最古の写本には記されてはおりません。後の世に書き込まれたこの物語は、福音書全体の中でどのような役割を果たしているのでしょうか。物語の場面は都エルサレム、神殿の境内。「そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女性を真ん中に立たせた」。姦通、つまり不倫の現場で取り押さえられたということは、これは現行犯であります。物語の字面を追ってまいりますと、613ある『律法』の誡めの根幹をなす十戒の第七の誡めに触れることとなり、字義通りにとれば死罪にあたります。真ん中に立たせられるという事態は、女性にはもはや逃げる余地がないことを示しています。また該当する罪状への判決が出れば、直ちにこの女性はエルサレムの都の外に引きずり出されて石打の刑に処せられる段取りです。それは律法学者やファリサイ派の人々の言うとおりです。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の書で命じています。ところで、あなたはどうお考えですか」。「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」と『ヨハネによる福音書』の書き手は記すのですが、このワンフレーズによって、女性を形容する一文に大きな疑問が生じていることにみなさんはお気づきでしょうか。「不倫の現場で捕らえられた」。不倫の現場で捕らえられたからには、その現場に律法学者やファリサイ派が偶然居合わせたこととなりますが、これはあまりにも不自然です。また不倫の現場で捕らえられたのであれば不倫の相手がいるはずです。しかしその相手となる男性は姿を見せません。『旧約聖書』に描かれる不倫の事件としては、ダビデ王とバト・シェバの判例があります。王妃のいる身でありながら、忠実な家臣ウリヤの伴侶バト・シェバを見初めたダビデは不倫の関係を結びます。その事件をもみ消すためにウリヤを生還不可能な戦場に送り込み戦死させ、バト・シェバを側室に迎えるという話です。この物語ではバト・シェバに神の責めが及ぶのではなくて、ダビデ王自らに神の責めが向けられるという構成になっています。バト・シェバは決して裁きの場に引出されて死罪を申し渡されることはありません。バト・シェバは悲しみを背負った女性として描かれます。その物語を踏まえても、女性だけが引出されるのは不自然極まりないのです。かがみ込んでイエスが地面に書いていたのは、神の名であったのか、それとも誡めであったのかは分かりませんが「彼ら」すなわち律法学者は「しつこく問い続けた」とあります。立たされた女性は黙ったまま。これは明らかに「自白」なき裁判。セオリー無視の偏った裁きであることが分かります。
ところでこの場での女性と申しますのは、福音書が描く古代ユダヤ教の世界におきましては、公の場での発言を赦されてはおりませんでした。その限りでいえばこの女性は、仮に最貧困層が置かれた女性がなすすべもなく身体を売るという仕方で生計を立てるほかなく、またその貧しさの故に無作為に身体を引きずり出され、イエス・キリストを訴える口実として利用された可能性もあります。汚れ仕事に従事しているからには今さらここで身の潔白を証明する人もおらず、本人も生きる希望を失っていたのであれば、早く楽になりたいと沈黙するしかありません。しかしイエス・キリストは訴える口実を探しているはずの律法学者たちへ逆に問いかけます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女性に石を投げなさい」。不倫に限らず613の誡めを破っていない者、律法を完成した者のみがこの女性に石を投げよというのです。期せずしてこの言葉は女性を取り囲む人々に突き刺さります。『旧約聖書』で描かれる神はイスラエルの民を愛しているからこそ律法を授けたのであって、人々を傷つけいのちを奪うための剣を与えたのではないのです。律法を完成した者であれば、この女性を責め立てるなどするはずがありません。今日の難民も含む寄留者、孤児、そしてこの女性のような寡婦の暮しを支えよという誡めはモーセ五書、すなわち『律法』には罰則規定以上の力を帯びて記されます。誰もいなくなった境内の片隅で「誰もあなたを罪に定めなかったのか」と身を起こしたイエスは女性に問います。ようやく女性は口を開きます。「主よ、誰も」。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」。イエス・キリストは自らとの関わりの中で新しい生き方を促します。今やこの名もない女性は疑いから解放されました。恐怖から解放されました。慰み者という道具としての扱いから解放され「誰もわたしを罪に定めなかった」という事実のみを、誡めを完成した救い主イエス・キリストの前に告白しているのであります。これまでの悲しみを癒して余りある深い絆がそこには生まれています。
書き込まれた新たな物語が『ヨハネによる福音書』に組み入れられた背後には、人として扱われなかった女性たちへの眼差しがあったでしょう。今や男性本位ではない、女性自らの眼差しで構成される物語が福音書全体を彩ることに至りました。