「永遠のいのちのきざし」
マルコによる福音書14章26節~31節
説教:稲山聖修牧師
「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆わたしに躓く。<わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう>と書いてあるからだ』。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。弟子の弱さを見極めたイエス・キリストが語る、自らの復活の出来事を経て、新たに福音の原点であるガリラヤから働きを始めるとの言葉。主イエスは、弟子の絆が弟子自らの躓きによって壊されると分析した後、救い主の復活の出来事が弟子各々の交わりを新たに創造するとのメッセージを語る。けれども今日の箇所では復活の出来事はペトロには隠されたままである。ペトロが語るには「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。他の者はさておき、わたしだけは違うという思い込み。主イエスを目の前にしながら、なおも神を見ない者の態度が記される。それはあくまで他者との比較にもとづいた自己主張以上のものではなく、ひるがえって隣人を貶める。ペトロはこの問題に気づいていない。
わたしたちは、ときに教会の奉仕に臨んでも、われ先にと先陣を争う場合がある。奉仕のわざが先陣争いのもと、激しく他者に自己承認を迫るところで終わるならば、それはやがて教会に疲れをもたらし、交わりの解体につながってしまう。初代教会の指導者でもあったペトロに、物語の書き手がこのような問題のある言葉を語らせている背景には、そもそも教会の交わりや奉仕というものが、まず相手あってのわざであることに鈍感な態度があったのかもしれない。『コリントの信徒の手紙Ⅰ』1章で、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」といった争いが起こり、その現状を前にしてパウロが「勝手なことを言わず、仲たがいをせず、心を一つにし思いを一つにし、固く結びあいなさい」と「主イエス・キリストの名によって」強く勧める箇所がある。全てのわざに先んじて求められるべきは「主イエス・キリストの名によって」「心を一つに思いを一つにし、固く結び合い」、隣人愛を祈りのもとに行うことにある。けれどもペトロはあまりにも頑固だ。これでは諸事情により奉仕のできない身に置かれた人々は、教会から一人また一人と去っていくことだろう。ペトロの頑なさはキリストが「あなたは今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」と諫めても決して砕かれることはない。
主イエスとの世の訣別を前にした晩餐の席でさえ、言い争って止まない弟子の頑なさ。この頑固さが砕かれる決定的な契機は、イエス・キリストのいのちが十字架で絶たれる出来事より他にはなかった。けれどもそれは同時に永遠のいのちにいたる道が示され、開かれることでもあった。パウロは『ローマの信徒の手紙』11章2節で旧約聖書のエリヤ物語を引用しつつ語る。経済の発展ばかりに心を奪われ、神の言葉を蔑ろにし、神を無視した繁栄と権力を求め続けたアハブ王。この王に追いつめられ、いのちを狙われた預言者エリヤには、弱者に寄り添うアブラハムの神との関わりを重んじた七千人の民の姿は隠されたままだった。十字架で息絶えたキリストが、葬りの後に復活するという出来事も今朝の箇所では隠されたままだ。しかしその出来事を讃える歌が今日の箇所にはかすかに響く。主の晩餐の後、「一同は讃美の歌を歌った」と記されている。この讃美に包まれながら、わたしたちは相手が今何を求めているのか、祈りの中で待ちながら聴く力を与えられる。早さや要領といった効率ばかりが求められる現代では、待つ姿勢は時に勇気の要るあり方だ。しかしその中でわたしたちは隠された時を見極め、神の国の訪れを待つ。時の流れに介入する永遠のいのちの主なるイエス・キリストを見つめ、祈りに包まれた奉仕のよりどころを確かめたい。
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