「畏れるべきは、誰か」
マルコによる福音書14章43節~52節
説教:稲山聖修牧師
イスカリオテのユダ。時に反キリストとさえ謗られてきたユダではあるが『マタイによる福音書』27章で、ユダは後悔の念に駆られ、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と告白する。「罪なき人」と不当逮捕されたイエス・キリストの真実を明言しているという点で主イエスに深い思いを抱き続けた弟子であると言える。
それではユダが問われるべき人の弱さとは何か。それは本日の箇所に即するならば、イエス・キリストを「試す」という誘惑に打ち克つことができなかったところにある。
誰かを試すわざは、疑いとほぼ同じ意味である。愛情や信頼を試すのはジョークでは済まない。それは却って相手も自分も傷つけては損なう結果をもたらす。そこには疑う必要のない相手や、畏れるべき相手を見誤っている深い裂け目が隠されている。それはユダの後を従うようにしてついてきた、剣や棒を握りしめた群衆の態度に明らかだ。キリストの愛に喜ぶのではなく、キリストの愛を恐れて武器で以てその力を封じようとする、神の愛への無理解な姿がある。
けれどもキリストはこのような手合いを相手にしない。不安や恐怖に陥れ人心を操ろうとするわざには限界がある。キリストの愛の深さに堪えられないからこそ、群衆は武器を手にしてきた。
畏れるべきは、誰か。この問いかけに堪えられないのは、キリストが見えなくなっているときではないか。例えばわたしたちは話し合いが苦手になる場合がある。その場の人間関係の力学を重んじる余り、言うべき時に語る言葉もなく、その結果黙認におよぶ。多様なものの見方を深めるのが難しい。時には、愛に満ちているはずの言葉を火の粉であると勘違いしては恐怖して口をつぐむ。教会の交わりは、その破れに始まって多くの課題を抱え込む。
『マルコによる福音書』にはクリスマス物語がない。天の軍勢はそれとして姿を見せず、キリストは受難の道を歩む他にはない。それは何よりも、畏れるべき者を見失った人々に、救い主である御自身を示すためである。わたしたちは躓きを経て、イエスが救い主であると気づかされ、恐るべき者が誰であるかを目の当たりにする。パウロは語る。「では、尋ねよう。『ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いをもたらす結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです』」とある。この箇所でいう「ねたみ」は「嫉妬」と言うよりは、熱情を伴う関心だとすべきだろう。
時にわたしたちは、畏れるべきが誰なのかを見失い、「世の尺度」と「キリストを中心にした尺度」をない交ぜにしたまま、思い煩いを抱え込んでしまう。剣や棍棒を振るう者が強いもの、貧困や暴力のもつ不安や恐怖こそが暮しを呑み込んでしまうとの恐怖がそこにある。そのようなわたしたちにイエス・キリストは聖書を通して問いかける。「本当にそうなのですか?」。この問いかけから逃れずに、むしろこの疑問符に背中を押されて、各々の持ち場へと遣わされるのが、わたしたちなのである。
教会がある「こひつじ保育園」で飼っている
ヤギの「ゆきちゃん」とアヒルの「ばぁばちゃん」です。
#大阪
#堺
#堺市
#泉北ニュータウン
#泉ヶ丘
#教会
#キリスト教
#プロテスタント
#日本キリスト教団
#こひつじ保育園