聖書箇所:創世記19章12~17節、ローマの信徒への手紙2章11~16節
「分割して統治せよ」の原則は古代ローマ帝国が定式化したと言われる。ポツダム宣言受諾後も人々の生活は極貧と凄惨を極めたが、厚生省の記録は二年後から始まる。但しこの二年間は戦後世界が最も安定していたとされ、その後は世界の国々で緊張が高まる。核を手にした大国は小さな国に代理戦争をさせ対立の中に安定を見出そうとする。恐怖の対立構造の中で人々は委縮し身動きが取れなくなる。その手法は、今なお私たちを委縮させるに充分な力を振るう。
アブラムのとりなしにも拘わらず滅ぼされる都市国家ソドム。その街にいるただ一人の正しい人としてアブラムの甥ロトがいた。創世記が興味深いのは、神は裁きのわざの前に、必ず兆しを備えるところ。その徴の声に耳を傾けられるかどうかが救いの鍵となる。ロトはその兆しを知るが、危機を前にして家族を一致させられない。ロトの働きかけを婿たちは「冗談」と一蹴する。聞きたい知らせにしか耳を傾けない家族。迫りくる危機を前にして解体される家族の姿。「ロトはためらっていた」。ロトのこの孤独を「主は憐れむ」。裁きを降すはずの神がロトの苦しみを分かち合う中、家族の絆が新たにされる。
今朝の箇所でパウロは「神は人を分け隔てなさいません」と記す。これは分断統治を掲げたローマ帝国の方針とは異質の在り方だ。パウロは一般論からではなく、聖書の解き明かしを通して語る。「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」。ユダヤ教の影響を色濃く受けたキリスト者、あるいはユダヤ教徒の同胞に呼びかける。「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのだ」。つまり、神からの救いの道筋を備えられているという帰結になる。ロトの場合、「主は言われた。『命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはならない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる』」となる。神はアブラムのとりなしを聞き届けたのにも拘わらず、街の人々は救いの言葉に耳を貸さなかった。残ったのは御使いに手を引かれたロトとその伴侶、二人の娘だけ。ここに聖書の解き明かしに基づいたソドム滅亡の理由が暗示される。ロトは神の命令を漠然と聞いていたのではなく、真正面から向き合い絶望する中で砕かれた後、神の憐れみにより救い出される。ユダヤ人も異邦人にも当てはまる姿。
「神は人々の隠れた事柄を、キリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかにする」とパウロは記す。ソドムの滅亡の物語で主の御使いはロトに「山に逃れなさい」と伝えた。私たちも時折意に反して人生の危機に立たされ、数多の山を迎える。そのような山の上には何があるのか。
『マタイによる福音書』5章では、山の上でイエス・キリストが山上の垂訓・山上の説教を語る。この教えではなぜ「幸い」との言葉が伴うのか。それはイエス・キリストを中心にした交わりには、常に新たにされる、破れのない天地の創造主の希望が据えられているからだ。聖書にある解放とは、神との絆の断絶ではなく刷新が肝心要となる。そこには孤独はない。分かれ分かれになりながらも、絶えずお互いに思いを馳せ、祈りによってつながる生死を超えた交わりがある。神は分割を喜ばず、分け隔てをされない。世に分断と争いの声が響くほど、キリストを頭とする教会の掲げる神の平和、神の希望に溢れた平和と解放の光は照り輝くのだ。