聖書箇所:創世記39章1~6節、ローマの信徒への手紙2章17~29節
創世記のヨセフ物語で、ヨセフは父ヤコブの寵愛を受けながら、その愛情と天賦の才としての夢の解き明かしの力が却って仇となり、兄たちに妬まれエジプトに奴隷として売られる。そしてファラオの侍従長でポティファルに買い取られる。この物語の面白さは、丸腰の奴隷としてエジプトに売られたヨセフには常に神がともにいたところ。それだけではなく、主がヨセフのなす全てをうまく計られるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理やすべての財産をヨセフに任せた、との記事である。現在では非常識だが、ヨセフに対する猜疑心なしにポティファルは「任せてしまった」。主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福され、主人は全財産をヨセフの手に委ねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。注目すべきはポティファルがエジプト人でありアブラハムの神を知らない点。その中でヨセフは全面的に信頼され、アブラハムの神から祝福を授かる。誰が奴隷の主人を祝福しているのかは神の秘義として隠されている。この箇所では、アブラハムの神の祝福が単にイスラエルの一族だけに限定されるのではなくて、ヨセフの主人にも及ぶところにそのスケールが窺える。礼拝後に各々遣わされた場で、私たちは空気を読むのに汲々とする。KY(クウキヲヨメナイ)と呼ばれるのを恐れる。しかしその態度は聖書のメッセージからは遠く離れていると言える。礼拝に連なる私たちは「空気」という名の同調圧力を恐れるのではなくて、神の力を信頼し神の息の窓となるのが筋であり新たな空気を作る役目を担っている。ヨセフはそのよき模範ではないだろうか。
ところで使徒パウロが『ローマの信徒への手紙』で語るメッセージには「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」とある。族長の世界では誡めとしての律法はないが、その物語の納められた書物は「トーラー(律法)」として重きをなす。「律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています」と記す言葉には、その時代のユダヤ教徒あるいはユダヤ教の影響を強く受けているキリスト者が、実はヨセフのように丸腰にはなれなかったと指摘される。パウロは語る。「あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている」。
確かに律法が自己弁護や自己正当化のために用いられるならば、神の救いへの道筋を示すどころか、正反対の結果を招く。聖書の言葉に救われて、人生の新しいライフステージに導かれる人もいれば、聖書を利用して無辜の民を殺める為政者もいるのは今も変わらない。さらには今朝の『ローマの信徒への手紙』の箇所と族長物語の接点は「割礼」にも及ぶ。割礼は族長物語の中でも重視されていた、神との契約のしるしである。しかしパウロの言葉は衝撃的だ。ユダヤ教徒ではないまま、イエス・キリストに示された神の愛を実践する無割礼の者が、割礼を受けながらも律法に従わない者に勝ると語るからだ。イエス・キリストは、いのちを分け隔てて優劣を問うことはなかった。それはヨセフ物語にあってすでに示されていた。あなたは聖書を読んでいるかとパウロは問うのだ。
2017年8月20日日曜日
2017年8月13日日曜日
2017年8月13日「キリストが 私たちを解放される日」稲山聖修牧師
聖書箇所:創世記19章12~17節、ローマの信徒への手紙2章11~16節
「分割して統治せよ」の原則は古代ローマ帝国が定式化したと言われる。ポツダム宣言受諾後も人々の生活は極貧と凄惨を極めたが、厚生省の記録は二年後から始まる。但しこの二年間は戦後世界が最も安定していたとされ、その後は世界の国々で緊張が高まる。核を手にした大国は小さな国に代理戦争をさせ対立の中に安定を見出そうとする。恐怖の対立構造の中で人々は委縮し身動きが取れなくなる。その手法は、今なお私たちを委縮させるに充分な力を振るう。
アブラムのとりなしにも拘わらず滅ぼされる都市国家ソドム。その街にいるただ一人の正しい人としてアブラムの甥ロトがいた。創世記が興味深いのは、神は裁きのわざの前に、必ず兆しを備えるところ。その徴の声に耳を傾けられるかどうかが救いの鍵となる。ロトはその兆しを知るが、危機を前にして家族を一致させられない。ロトの働きかけを婿たちは「冗談」と一蹴する。聞きたい知らせにしか耳を傾けない家族。迫りくる危機を前にして解体される家族の姿。「ロトはためらっていた」。ロトのこの孤独を「主は憐れむ」。裁きを降すはずの神がロトの苦しみを分かち合う中、家族の絆が新たにされる。
今朝の箇所でパウロは「神は人を分け隔てなさいません」と記す。これは分断統治を掲げたローマ帝国の方針とは異質の在り方だ。パウロは一般論からではなく、聖書の解き明かしを通して語る。「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」。ユダヤ教の影響を色濃く受けたキリスト者、あるいはユダヤ教徒の同胞に呼びかける。「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのだ」。つまり、神からの救いの道筋を備えられているという帰結になる。ロトの場合、「主は言われた。『命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはならない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる』」となる。神はアブラムのとりなしを聞き届けたのにも拘わらず、街の人々は救いの言葉に耳を貸さなかった。残ったのは御使いに手を引かれたロトとその伴侶、二人の娘だけ。ここに聖書の解き明かしに基づいたソドム滅亡の理由が暗示される。ロトは神の命令を漠然と聞いていたのではなく、真正面から向き合い絶望する中で砕かれた後、神の憐れみにより救い出される。ユダヤ人も異邦人にも当てはまる姿。
「神は人々の隠れた事柄を、キリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかにする」とパウロは記す。ソドムの滅亡の物語で主の御使いはロトに「山に逃れなさい」と伝えた。私たちも時折意に反して人生の危機に立たされ、数多の山を迎える。そのような山の上には何があるのか。
『マタイによる福音書』5章では、山の上でイエス・キリストが山上の垂訓・山上の説教を語る。この教えではなぜ「幸い」との言葉が伴うのか。それはイエス・キリストを中心にした交わりには、常に新たにされる、破れのない天地の創造主の希望が据えられているからだ。聖書にある解放とは、神との絆の断絶ではなく刷新が肝心要となる。そこには孤独はない。分かれ分かれになりながらも、絶えずお互いに思いを馳せ、祈りによってつながる生死を超えた交わりがある。神は分割を喜ばず、分け隔てをされない。世に分断と争いの声が響くほど、キリストを頭とする教会の掲げる神の平和、神の希望に溢れた平和と解放の光は照り輝くのだ。
「分割して統治せよ」の原則は古代ローマ帝国が定式化したと言われる。ポツダム宣言受諾後も人々の生活は極貧と凄惨を極めたが、厚生省の記録は二年後から始まる。但しこの二年間は戦後世界が最も安定していたとされ、その後は世界の国々で緊張が高まる。核を手にした大国は小さな国に代理戦争をさせ対立の中に安定を見出そうとする。恐怖の対立構造の中で人々は委縮し身動きが取れなくなる。その手法は、今なお私たちを委縮させるに充分な力を振るう。
アブラムのとりなしにも拘わらず滅ぼされる都市国家ソドム。その街にいるただ一人の正しい人としてアブラムの甥ロトがいた。創世記が興味深いのは、神は裁きのわざの前に、必ず兆しを備えるところ。その徴の声に耳を傾けられるかどうかが救いの鍵となる。ロトはその兆しを知るが、危機を前にして家族を一致させられない。ロトの働きかけを婿たちは「冗談」と一蹴する。聞きたい知らせにしか耳を傾けない家族。迫りくる危機を前にして解体される家族の姿。「ロトはためらっていた」。ロトのこの孤独を「主は憐れむ」。裁きを降すはずの神がロトの苦しみを分かち合う中、家族の絆が新たにされる。
今朝の箇所でパウロは「神は人を分け隔てなさいません」と記す。これは分断統治を掲げたローマ帝国の方針とは異質の在り方だ。パウロは一般論からではなく、聖書の解き明かしを通して語る。「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです」。ユダヤ教の影響を色濃く受けたキリスト者、あるいはユダヤ教徒の同胞に呼びかける。「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくても、自分自身が律法なのだ」。つまり、神からの救いの道筋を備えられているという帰結になる。ロトの場合、「主は言われた。『命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはならない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる』」となる。神はアブラムのとりなしを聞き届けたのにも拘わらず、街の人々は救いの言葉に耳を貸さなかった。残ったのは御使いに手を引かれたロトとその伴侶、二人の娘だけ。ここに聖書の解き明かしに基づいたソドム滅亡の理由が暗示される。ロトは神の命令を漠然と聞いていたのではなく、真正面から向き合い絶望する中で砕かれた後、神の憐れみにより救い出される。ユダヤ人も異邦人にも当てはまる姿。
「神は人々の隠れた事柄を、キリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかにする」とパウロは記す。ソドムの滅亡の物語で主の御使いはロトに「山に逃れなさい」と伝えた。私たちも時折意に反して人生の危機に立たされ、数多の山を迎える。そのような山の上には何があるのか。
『マタイによる福音書』5章では、山の上でイエス・キリストが山上の垂訓・山上の説教を語る。この教えではなぜ「幸い」との言葉が伴うのか。それはイエス・キリストを中心にした交わりには、常に新たにされる、破れのない天地の創造主の希望が据えられているからだ。聖書にある解放とは、神との絆の断絶ではなく刷新が肝心要となる。そこには孤独はない。分かれ分かれになりながらも、絶えずお互いに思いを馳せ、祈りによってつながる生死を超えた交わりがある。神は分割を喜ばず、分け隔てをされない。世に分断と争いの声が響くほど、キリストを頭とする教会の掲げる神の平和、神の希望に溢れた平和と解放の光は照り輝くのだ。
2017年8月6日日曜日
2017年8月6日「いつわりの平和、まことの平和」稲山聖修牧師
聖書箇所:エレミヤ書28章13~17節、ローマの信徒への手紙2章2~10節
あの日から72年目の朝。聖書で言う「平和」を意味する言葉には三つ。ギリシア語「エイレーネー」、ラテン語の「パークス」。しかしこの平和は本来戦時間平和を指す。20世紀、わたしたちの国は日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、支那事変、アジア・太平洋戦争と六度の戦争を経た。戦争と戦争の間を指すのがエイレーネー本来の意味。破れと不安に満ちた平和だ。
エレミヤの時代、この破れに満ちた平和を、恒久的な平和のように語る人々がユダ王国に現れる。アッシリアとエジプト、そしてバビロニアという超大国に挟まれた時代のユダ王国ではこのような人々がもて囃された。例えばエレミヤと対決したハナンヤ。彼は人々に告げる。「イスラエルの神、の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く」。対して、エレミヤは長い関わりをもつ大国エジプトにおもねる人々に語る。「万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聴き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らのこの地を襲わせ、ことごとく滅ぼしつくさせると主は言われる」。すでに第一次バビロン捕囚が行われたにも拘わらず、エジプトにおもねり続ける人々にバビロニア王国の王は神の僕である!と説く。人々の憎悪はエレミヤに向かう。その急先鋒がハナンヤだった。イスラエルの民は、それがユダ王国という小国に衰えたとしても、神の平和にいたるには徹底的に砕かれなければならない。徹底的に砕かれるところから神の平和、シャーロームは始まるというメッセージが聞き取れる。エイレーネーが神のエイレーネーとなるためには、祖国はおろか、時には言葉も文化も民としての伝統も損なわれる中でエレミヤは語り、イスラエルの民は救い主の訪れを待つよりほかにはなかった。
旧約聖書に通暁したパウロは記す。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身をも罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」。人を裁くな、と主イエスの言葉にあるが、これは単に個人の間で第三者を決めつけてはいけないばかりか、「裁き」とは生殺与奪という、本来は創造主である神がなすべき事柄であり、人には属してはならない事柄であり、虐げられた者を弁護するという力を発揮するわざ・人には決して及ぶことのないわざであるとの確信がある。神の裁きは必ず神の忍耐を伴う。だからこそ、神の裁きを論じる今朝の箇所で、神の裁きが悔い改めに導く神の憐みに繋がり、慈愛と寛容と忍耐と不可分のものとされる。7節にある「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」とある。これは因果応報の理ではなく、主なる神が生きとし生けるものすべて、ご自身がいのちを与えた全ての被造物に心を寄せている証しである。イエス・キリストに示された神は、自らの御心を行う者には、国は言葉の隔てなく、あるいは被造物の営み、文化としての宗教の枠さえも超え出る栄光と誉と平和を備える。神の平和を体現するイエス・キリスト。戦争の記憶の継承が心配される中、私たちはイエス・キリストという道を通し、シャーロームの尊さを身体と心に刻み込む。偽りの平和の中、熱に浮かされたように声高に不安と憎悪が煽られるとき、神の愛の中でまことの平和を作り出す者は祝福され、神のこどもと呼ばれるのだ。
あの日から72年目の朝。聖書で言う「平和」を意味する言葉には三つ。ギリシア語「エイレーネー」、ラテン語の「パークス」。しかしこの平和は本来戦時間平和を指す。20世紀、わたしたちの国は日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、支那事変、アジア・太平洋戦争と六度の戦争を経た。戦争と戦争の間を指すのがエイレーネー本来の意味。破れと不安に満ちた平和だ。
エレミヤの時代、この破れに満ちた平和を、恒久的な平和のように語る人々がユダ王国に現れる。アッシリアとエジプト、そしてバビロニアという超大国に挟まれた時代のユダ王国ではこのような人々がもて囃された。例えばエレミヤと対決したハナンヤ。彼は人々に告げる。「イスラエルの神、の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く」。対して、エレミヤは長い関わりをもつ大国エジプトにおもねる人々に語る。「万軍の主はこう言われる。お前たちがわたしの言葉に聴き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らのこの地を襲わせ、ことごとく滅ぼしつくさせると主は言われる」。すでに第一次バビロン捕囚が行われたにも拘わらず、エジプトにおもねり続ける人々にバビロニア王国の王は神の僕である!と説く。人々の憎悪はエレミヤに向かう。その急先鋒がハナンヤだった。イスラエルの民は、それがユダ王国という小国に衰えたとしても、神の平和にいたるには徹底的に砕かれなければならない。徹底的に砕かれるところから神の平和、シャーロームは始まるというメッセージが聞き取れる。エイレーネーが神のエイレーネーとなるためには、祖国はおろか、時には言葉も文化も民としての伝統も損なわれる中でエレミヤは語り、イスラエルの民は救い主の訪れを待つよりほかにはなかった。
旧約聖書に通暁したパウロは記す。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身をも罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」。人を裁くな、と主イエスの言葉にあるが、これは単に個人の間で第三者を決めつけてはいけないばかりか、「裁き」とは生殺与奪という、本来は創造主である神がなすべき事柄であり、人には属してはならない事柄であり、虐げられた者を弁護するという力を発揮するわざ・人には決して及ぶことのないわざであるとの確信がある。神の裁きは必ず神の忍耐を伴う。だからこそ、神の裁きを論じる今朝の箇所で、神の裁きが悔い改めに導く神の憐みに繋がり、慈愛と寛容と忍耐と不可分のものとされる。7節にある「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります」とある。これは因果応報の理ではなく、主なる神が生きとし生けるものすべて、ご自身がいのちを与えた全ての被造物に心を寄せている証しである。イエス・キリストに示された神は、自らの御心を行う者には、国は言葉の隔てなく、あるいは被造物の営み、文化としての宗教の枠さえも超え出る栄光と誉と平和を備える。神の平和を体現するイエス・キリスト。戦争の記憶の継承が心配される中、私たちはイエス・キリストという道を通し、シャーロームの尊さを身体と心に刻み込む。偽りの平和の中、熱に浮かされたように声高に不安と憎悪が煽られるとき、神の愛の中でまことの平和を作り出す者は祝福され、神のこどもと呼ばれるのだ。
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