聖書箇所:使徒言行録9章32節~36節
主イエスが磔刑に処せられるまでは言わずもがな、その後も失敗続きの姿をさらし続けたペトロは、何度もマイナスからの出発を繰り返さなければならなかった。人一倍欠けや破れの覆いペトロ。そのペトロにパラクレートス、助け主としての聖霊の力が注がれることで、ペトロに連なる教会は立ちあがる勇気を備えられてきた。
今朝の箇所でペトロは福音書の主イエスの働きをなぞるように働く。その描写はさらに細かさを増す。本日の物語の第一の舞台となる街・リダはヤッファに近かった。ヤッファとは現在のテルアビブと重なる街。使徒の働きには次第にサマリアの人々だけでなく、異邦人との接触も増えてくる。例えば中風で八年もの間病床にあったアイネアに響いたペトロの「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」との言葉はイエスの人となりを知らないアイネアにさえ立ちあがる力を注いだ。それだけでなくリダとシャロンに暮らす人々を主に立ち帰らせる出来事へと拡大する。続くドルカスの甦りの記事では描かれる人々の息吹が聞こえるようだ。
使徒言行録の記事からはドルカスが初代教会に連なる女性であったことが分る。ドルカスは奉仕に熱心な女性であった。しかし彼女はその働きの中で息絶える。亡骸の清めは、死への絶望を示す。使いによって案内されたペトロは亡骸の安置された部屋で、ドルカスが生前に作った下着や上着を見せて涙とともにその働きを証しするやもめたちに出会う。貧しいやもめへの奉仕を惜しみなく続けてきたドルカス。なぜ!との嘆きの中、ペトロは「タビタ、起きなさい」と語る。マルコによる福音書の主イエスのわざに関わる「タリタ、クム」と語りかける場面と重なると指摘する人々も少なくないが、決定的に異なるのは、ペトロはサマリアにあってこのわざを行っている点。ペトロのなめた辛酸は、この場に居合わせたやもめたちの嘆きを喜びに変えた。この出来事は、使徒言行録の献呈先となるローマ帝国の高級官僚のテオフィロも巻き込む。テオフィロはこのような人々の群れから神の国の訪れの喜びが聞こえると考えたであろうか。この喜びの力はローマ帝国を圧倒する。私たちの奉仕のわざには、神の国の力によって備えられた力が秘められている。教会の奉仕を喜びつつその力に信頼したい。