聖書箇所:使徒言行録10章9節~23節
使徒ペトロが観た食を巡る幻を中心に繰り広げられる物語は、使徒ペトロでさえその時代のユダヤ教のもつ戒律主義に囚われていた事実をも照らし出す。ペトロは「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に降りてくるのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、『ペトロよ、身を起こして、屠って食べなさい』という声がした」との幻を見る。これはユダヤ教の戒律主義を引きずる人々には衝撃的である。衛生状態を保ち、様々な病から身を守るための戒めが、転じてユダヤ教徒とそれ以外の者を分け隔てる選民思想の拠り所ともなった。
しかし旧約聖書にはこの姿勢を克服する物語がある。創世記9章には「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える』」とある。この箇所は洪水の後に、食を媒介にした神との交わりが回復されたとの解釈を可能にする。全ての人の飢えと渇きを癒す食卓に分け隔てがあってはならない。人は死んではならないから、という原則がイエス・キリストの名を通じて更新されるのだ。
ペトロの見た幻は、コルネリウスの部下と二人の召使いの訪れへの備えを示した。その幻に従い、三人の異邦人の訪問に際してペトロはその人たちを迎え入れ、「泊まらせた」。この言葉からは、使徒ペトロと異邦人の間に生じた、食卓をともにする深い交わりが想定される。
そもそも使徒ペトロとコルネリウスとの出会いは「神の天使」の訪問に基づく。使徒言行録とゆかりのあるルカ福音書の中で天使が登場する場面と言えば、バプテスマのヨハネの誕生を知らせ、マリアの受胎告知を行い、野の羊飼いに救い主の訪れを、主の栄光ととともに告げ知らせた箇所。ペトロと三人の使者との出会いには、この出来事に匹敵する重さがあると記されるのである。かつてない格差社会と難民問題の顕在化。救い主の訪れが今ほど待望される時代はない。主にある自由が全ての人に仕える自由を含むならば、困窮の中にある全ての人々の言語や文化のユニークさを敬いつつ、ともにクリスマスを祝う教会形成に励みたい。
2015年11月29日日曜日
2015年11月22日日曜日
2015年11月22日「実りの喜びは垣根を超えて」稲山聖修牧師
聖書箇所:使徒言行録10章1節~8節
カイサリアはローマ帝国が属州ユダヤを支配するために整えた街。ローマの軍隊も駐屯したことだろう。本日の聖書箇所に登場する百人隊長はコルネリウス。軍人が具体的な名前とともに描かれ、初代教会に連なっていることが明記されているのには私たちには驚かされる。使徒言行録は実に人間的な側面からコルネリウスを描く。曰く「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」。
使徒言行録は、世の力に属する軍人としてではなく、神の国に連なる者としてコルネリウスを描こうとする。いかなる世の権力も神の前には無力化される。世の権力は侮れないものの、暫定的なしくみに過ぎない。他方、神の国とは創造主なる神ご自身による世の直接統治であり、それはキリストの啓示に基づいて知られる。コルネリウスは世と関わりながら、世の力を超える神の国にキリストを通じて連なる者。それゆえ、世の常識では測りがたい出会いと導きの中に招き入れられる。
その道筋は、神の天使が訪れ、コルネリウスがその出会いに恐怖を禁じ得ないところから始まる。天使は語る。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある」。この出会いと交わりは、世の様々な垣根を超えなければ困難な道。イエス・キリストに示された神の国の訪れの出来事は、この世の分け隔てを全て無効にする。御使いが示す人々はその実りを先取る教会の交わりに属している。
私たちは被造物であり、主なる神は天地の創造主である。主なる神からの委託として、世の全てのいのちを祝福する役割が果たせなくなれば国家とて終焉を迎える。私たちはとかく国単位で人を見ようとするが、使徒言行録の視点は全く対照的である。実はこの視点こそ争いに満ちた世にあって要としたい尺度である。シリアの難民だけでなく、北米大陸の先住民と大地の実りを分けあい神に収穫感謝の祈りを献げたピューリタンもまた難民。引揚げと焼け跡からの復興を知る私たちには果たして他人事だろうか。次週からは待降節。主イエス・キリストは、難民の姿に身をやつし幼き日々を過ごされた。いのちの創造主を讃える喜びは、世の垣根を超える。
カイサリアはローマ帝国が属州ユダヤを支配するために整えた街。ローマの軍隊も駐屯したことだろう。本日の聖書箇所に登場する百人隊長はコルネリウス。軍人が具体的な名前とともに描かれ、初代教会に連なっていることが明記されているのには私たちには驚かされる。使徒言行録は実に人間的な側面からコルネリウスを描く。曰く「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」。
使徒言行録は、世の力に属する軍人としてではなく、神の国に連なる者としてコルネリウスを描こうとする。いかなる世の権力も神の前には無力化される。世の権力は侮れないものの、暫定的なしくみに過ぎない。他方、神の国とは創造主なる神ご自身による世の直接統治であり、それはキリストの啓示に基づいて知られる。コルネリウスは世と関わりながら、世の力を超える神の国にキリストを通じて連なる者。それゆえ、世の常識では測りがたい出会いと導きの中に招き入れられる。
その道筋は、神の天使が訪れ、コルネリウスがその出会いに恐怖を禁じ得ないところから始まる。天使は語る。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある」。この出会いと交わりは、世の様々な垣根を超えなければ困難な道。イエス・キリストに示された神の国の訪れの出来事は、この世の分け隔てを全て無効にする。御使いが示す人々はその実りを先取る教会の交わりに属している。
私たちは被造物であり、主なる神は天地の創造主である。主なる神からの委託として、世の全てのいのちを祝福する役割が果たせなくなれば国家とて終焉を迎える。私たちはとかく国単位で人を見ようとするが、使徒言行録の視点は全く対照的である。実はこの視点こそ争いに満ちた世にあって要としたい尺度である。シリアの難民だけでなく、北米大陸の先住民と大地の実りを分けあい神に収穫感謝の祈りを献げたピューリタンもまた難民。引揚げと焼け跡からの復興を知る私たちには果たして他人事だろうか。次週からは待降節。主イエス・キリストは、難民の姿に身をやつし幼き日々を過ごされた。いのちの創造主を讃える喜びは、世の垣根を超える。
2015年11月15日日曜日
2015年11月15日「絶望からの再起と喜び」稲山聖修牧師
聖書箇所:使徒言行録9章32節~36節
主イエスが磔刑に処せられるまでは言わずもがな、その後も失敗続きの姿をさらし続けたペトロは、何度もマイナスからの出発を繰り返さなければならなかった。人一倍欠けや破れの覆いペトロ。そのペトロにパラクレートス、助け主としての聖霊の力が注がれることで、ペトロに連なる教会は立ちあがる勇気を備えられてきた。
今朝の箇所でペトロは福音書の主イエスの働きをなぞるように働く。その描写はさらに細かさを増す。本日の物語の第一の舞台となる街・リダはヤッファに近かった。ヤッファとは現在のテルアビブと重なる街。使徒の働きには次第にサマリアの人々だけでなく、異邦人との接触も増えてくる。例えば中風で八年もの間病床にあったアイネアに響いたペトロの「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」との言葉はイエスの人となりを知らないアイネアにさえ立ちあがる力を注いだ。それだけでなくリダとシャロンに暮らす人々を主に立ち帰らせる出来事へと拡大する。続くドルカスの甦りの記事では描かれる人々の息吹が聞こえるようだ。
使徒言行録の記事からはドルカスが初代教会に連なる女性であったことが分る。ドルカスは奉仕に熱心な女性であった。しかし彼女はその働きの中で息絶える。亡骸の清めは、死への絶望を示す。使いによって案内されたペトロは亡骸の安置された部屋で、ドルカスが生前に作った下着や上着を見せて涙とともにその働きを証しするやもめたちに出会う。貧しいやもめへの奉仕を惜しみなく続けてきたドルカス。なぜ!との嘆きの中、ペトロは「タビタ、起きなさい」と語る。マルコによる福音書の主イエスのわざに関わる「タリタ、クム」と語りかける場面と重なると指摘する人々も少なくないが、決定的に異なるのは、ペトロはサマリアにあってこのわざを行っている点。ペトロのなめた辛酸は、この場に居合わせたやもめたちの嘆きを喜びに変えた。この出来事は、使徒言行録の献呈先となるローマ帝国の高級官僚のテオフィロも巻き込む。テオフィロはこのような人々の群れから神の国の訪れの喜びが聞こえると考えたであろうか。この喜びの力はローマ帝国を圧倒する。私たちの奉仕のわざには、神の国の力によって備えられた力が秘められている。教会の奉仕を喜びつつその力に信頼したい。
主イエスが磔刑に処せられるまでは言わずもがな、その後も失敗続きの姿をさらし続けたペトロは、何度もマイナスからの出発を繰り返さなければならなかった。人一倍欠けや破れの覆いペトロ。そのペトロにパラクレートス、助け主としての聖霊の力が注がれることで、ペトロに連なる教会は立ちあがる勇気を備えられてきた。
今朝の箇所でペトロは福音書の主イエスの働きをなぞるように働く。その描写はさらに細かさを増す。本日の物語の第一の舞台となる街・リダはヤッファに近かった。ヤッファとは現在のテルアビブと重なる街。使徒の働きには次第にサマリアの人々だけでなく、異邦人との接触も増えてくる。例えば中風で八年もの間病床にあったアイネアに響いたペトロの「アイネア、イエス・キリストがいやしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」との言葉はイエスの人となりを知らないアイネアにさえ立ちあがる力を注いだ。それだけでなくリダとシャロンに暮らす人々を主に立ち帰らせる出来事へと拡大する。続くドルカスの甦りの記事では描かれる人々の息吹が聞こえるようだ。
使徒言行録の記事からはドルカスが初代教会に連なる女性であったことが分る。ドルカスは奉仕に熱心な女性であった。しかし彼女はその働きの中で息絶える。亡骸の清めは、死への絶望を示す。使いによって案内されたペトロは亡骸の安置された部屋で、ドルカスが生前に作った下着や上着を見せて涙とともにその働きを証しするやもめたちに出会う。貧しいやもめへの奉仕を惜しみなく続けてきたドルカス。なぜ!との嘆きの中、ペトロは「タビタ、起きなさい」と語る。マルコによる福音書の主イエスのわざに関わる「タリタ、クム」と語りかける場面と重なると指摘する人々も少なくないが、決定的に異なるのは、ペトロはサマリアにあってこのわざを行っている点。ペトロのなめた辛酸は、この場に居合わせたやもめたちの嘆きを喜びに変えた。この出来事は、使徒言行録の献呈先となるローマ帝国の高級官僚のテオフィロも巻き込む。テオフィロはこのような人々の群れから神の国の訪れの喜びが聞こえると考えたであろうか。この喜びの力はローマ帝国を圧倒する。私たちの奉仕のわざには、神の国の力によって備えられた力が秘められている。教会の奉仕を喜びつつその力に信頼したい。
2015年11月8日日曜日
2015年11月08日「教会の礎、信仰の根」稲山聖修牧師
聖書箇所:使徒言行録9章26節~31節
律法学者サウロのキリスト教への転向は、初代教会を迫害する側にも迫害された人々にも青天の霹靂。この事件が劇的に描かれるほど、初代教会の大きな疑いと戸惑いが表明される。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だと信じないで恐れた」。サウロの登場によって教会に一大変革がもたらされる。サウロは処刑以前のイエスと直接には関らずに、なおも力強く福音を証しする次世代先取り型とも呼ぶべきキリストとの出会いを経験しているからだ。サウロには「慰めの子」バルナバがエルサレムの使徒への仲介者として関わり、あたかもサウロがエルサレムにおける使徒たちから認められたかのような記述が続く。
但しそう簡単には話は進まない。例えば「ギリシア語を話すユダヤ人」は虎視眈々とサウロの命を狙う。いずれにせよキリストの招きはサウロに大きな危機をもたらしたのは確かだが、同時にサウロは初代教会の「兄弟たち」から逃れの道を備えられ、故郷タルソスで雌伏の時を過ごすこととなった。続く「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」と記す箇所は使徒言行録の大きな節目。この箇所で初めて「教会」則ち「エクレシア」が主語をなすからである。
「エクレシア」には神の真理に関わる事柄が真理問題として多数決原理を超えて問われる。同時に歴史としてのヘブライ的な考え方も反映される。サウロは旧約聖書を戒律主義的に解釈する道を批判したのであり、旧約聖書そのものを決して否定しなかった。そして論争相手となったエルサレムの教会を財政的に支援する旅の途上で落命することとなる。サウロの考えとしては、異邦人の教会とエルサレムの教会はイエス・キリストを頭とする共同体として一つであり、具体的には豊かな多様性が教会の不可欠な特質となる。
イエス・キリストの啓示に示された神の愛を、サウロは使徒として主張して譲らなかった。この恩寵に私たちの信仰も根を深く下ろす。この根があるからこそ世の風雪や嵐に耐えつつ信仰は花を咲かせる。本日の礼拝では幼児祝福式が行われるが、こどもたちの将来もまた神さまの愛に深く根を下ろしイエスさまに導かれる、主のみ旨に適ったものであるよう切に祈る。
律法学者サウロのキリスト教への転向は、初代教会を迫害する側にも迫害された人々にも青天の霹靂。この事件が劇的に描かれるほど、初代教会の大きな疑いと戸惑いが表明される。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だと信じないで恐れた」。サウロの登場によって教会に一大変革がもたらされる。サウロは処刑以前のイエスと直接には関らずに、なおも力強く福音を証しする次世代先取り型とも呼ぶべきキリストとの出会いを経験しているからだ。サウロには「慰めの子」バルナバがエルサレムの使徒への仲介者として関わり、あたかもサウロがエルサレムにおける使徒たちから認められたかのような記述が続く。
但しそう簡単には話は進まない。例えば「ギリシア語を話すユダヤ人」は虎視眈々とサウロの命を狙う。いずれにせよキリストの招きはサウロに大きな危機をもたらしたのは確かだが、同時にサウロは初代教会の「兄弟たち」から逃れの道を備えられ、故郷タルソスで雌伏の時を過ごすこととなった。続く「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」と記す箇所は使徒言行録の大きな節目。この箇所で初めて「教会」則ち「エクレシア」が主語をなすからである。
「エクレシア」には神の真理に関わる事柄が真理問題として多数決原理を超えて問われる。同時に歴史としてのヘブライ的な考え方も反映される。サウロは旧約聖書を戒律主義的に解釈する道を批判したのであり、旧約聖書そのものを決して否定しなかった。そして論争相手となったエルサレムの教会を財政的に支援する旅の途上で落命することとなる。サウロの考えとしては、異邦人の教会とエルサレムの教会はイエス・キリストを頭とする共同体として一つであり、具体的には豊かな多様性が教会の不可欠な特質となる。
イエス・キリストの啓示に示された神の愛を、サウロは使徒として主張して譲らなかった。この恩寵に私たちの信仰も根を深く下ろす。この根があるからこそ世の風雪や嵐に耐えつつ信仰は花を咲かせる。本日の礼拝では幼児祝福式が行われるが、こどもたちの将来もまた神さまの愛に深く根を下ろしイエスさまに導かれる、主のみ旨に適ったものであるよう切に祈る。
2015年11月1日日曜日
2015年11月01日「眠りについた人々の初穂」稲山聖修牧師
聖書箇所:コリントの信徒への手紙Ⅰ.15章12節~24節
主のもとに召された兄弟姉妹とも守る礼拝。私たちは遺影を前にして沈黙する。しかし世の終焉の地や道筋や姿を問わず、遺影に映る兄弟姉妹は主の御手の中で安らぎを備えられている。主のもとにおられる兄弟姉妹と今この場にある私たちはともに主が創造された被造物である点で今なお変わらないところは忘れてはいけない。東アジアの生活文脈と決定的に聖書が異なる点は「死人の復活」を語って止まないところ。それはイエス・キリストの出来事として受け入れることによって初めて開示される永遠のいのちへの扉である。この扉と関わりにより、死は滅びではなく、世の完成にいたるまでの眠りとしての暫定的な意味しか持ちえない。私たちのいのちの被造物としての制約は、神の国の訪れによって究極的には突破される。その突破の先駆けが十字架に架けられたイエス・キリストの姿であり、墓を出でて弟子たちと語らうキリスト・イエスの姿である。主のみもとに召されたいのちは、今や神ご自身が世に刻まれた、かけがえのない歴史となり、今を生きる私たちの背中を力強く押して止まない。
本日の聖書の箇所で目を留めるところは15章22節。「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになる」との箇所。パウロに従うならば復活とは旧約聖書との関わりの中で聴き取られるべき。例えば、創世記3章3節に記される記事。「女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました』」。蛇の仕掛けた誘惑に人が陥る場面で記された、この「死んではいけない」との呼び声が今を生きる私たちに分かち合われる。これは神の絶対的な宣言だ。キリストの復活によってアダムもまた命の息吹を新たに吹き込まれる。「アダム」とはヘブライ語で「人間」をも意味するからだ。この生と死の逆転は、死人の復活という「あり得ない出来事」を「すでに起きた出来事」として指し示す。主イエスは、死を滅びには留まらない新たないのちにいたる眠りへと大転換する。この転換の出来事を通じて、主のもとにある兄弟姉妹が遺した証しは、いのちの勝利を讃美している。
主のもとに召された兄弟姉妹とも守る礼拝。私たちは遺影を前にして沈黙する。しかし世の終焉の地や道筋や姿を問わず、遺影に映る兄弟姉妹は主の御手の中で安らぎを備えられている。主のもとにおられる兄弟姉妹と今この場にある私たちはともに主が創造された被造物である点で今なお変わらないところは忘れてはいけない。東アジアの生活文脈と決定的に聖書が異なる点は「死人の復活」を語って止まないところ。それはイエス・キリストの出来事として受け入れることによって初めて開示される永遠のいのちへの扉である。この扉と関わりにより、死は滅びではなく、世の完成にいたるまでの眠りとしての暫定的な意味しか持ちえない。私たちのいのちの被造物としての制約は、神の国の訪れによって究極的には突破される。その突破の先駆けが十字架に架けられたイエス・キリストの姿であり、墓を出でて弟子たちと語らうキリスト・イエスの姿である。主のみもとに召されたいのちは、今や神ご自身が世に刻まれた、かけがえのない歴史となり、今を生きる私たちの背中を力強く押して止まない。
本日の聖書の箇所で目を留めるところは15章22節。「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになる」との箇所。パウロに従うならば復活とは旧約聖書との関わりの中で聴き取られるべき。例えば、創世記3章3節に記される記事。「女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました』」。蛇の仕掛けた誘惑に人が陥る場面で記された、この「死んではいけない」との呼び声が今を生きる私たちに分かち合われる。これは神の絶対的な宣言だ。キリストの復活によってアダムもまた命の息吹を新たに吹き込まれる。「アダム」とはヘブライ語で「人間」をも意味するからだ。この生と死の逆転は、死人の復活という「あり得ない出来事」を「すでに起きた出来事」として指し示す。主イエスは、死を滅びには留まらない新たないのちにいたる眠りへと大転換する。この転換の出来事を通じて、主のもとにある兄弟姉妹が遺した証しは、いのちの勝利を讃美している。
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