2023年5月25日木曜日

2023年 5月28日(日) 礼拝 説教

 ー聖霊降臨節第1主日礼拝ー

―ペンテコステ礼拝―

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「今はたらく神の愛の力に励まされて」 
稲山聖修牧師

聖書=『ルカによる福音書』11章5~13 節
(新約聖書 127 頁).

讃美= こども94,183,讃美ファイル3,543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
  本日の『聖書』の箇所では「求めなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがるこどもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分のこどもにはよい物を与えることを知っている」とあります。拝読した今の箇所までは『マタイによる福音書』と概ね一致するのですが、マタイの書き手集団が「これこそ『律法』と『預言者』である」と『旧約聖書』の完成と観るのに対して、ルカの書き手集団は「天の父は聖霊を与えてくださる」と神の愛の力という贈り物が描かれます。さらに遡れば、イエスの山上の垂訓としてではなく、「主の祈り」に続く教えとして書き記した後、ある人物が突然の旅人を受け容れようと四苦八苦する様子をイエスの教えの中に描きます。むしろこちらのほうが生々しさを帯びてまいります。「友よ、パンを三つ貸して欲しい。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがない」という懇願に対して決してこの友人は喜んで応じようとはしません。「面倒をかけるな。もう扉の鍵は閉めた。こどもたちは寝ている。起きてあなたに何かをあげるわけにはいけない」。このやりとりではもてなしの調達には明らかに失敗しています。しかし人の子イエスは続けます。「友人だからというわけではなくても、しつこく頼めば、起きて必要な食べ物は与えるだろう」。

 人の子イエスの教えとしては実に生々しいこの物語。実のところこの箇所にはイエスがキリストとして天に昇られた後に始まるところの『使徒言行録』にある、使徒となった弟子一人ひとりが味わった伝道の旅路での苦い記憶が描かれているのではないでしょうか。キリストによる神の愛の力に押し出されて全世界に福音を宣べ伝えるために旅立った弟子たち。しかしその旅路は決して人の目に安楽なものでも、よい出会いばかりに恵まれたのではなかったように思うのです。むしろ相手から拒絶され、懸命になるほどに徒労を覚えるものであったかもしれません。生命の危機さえありました。しかし最初はそのような恐れを伴うものであったとしても、その出会いはやがて互いの胸に深く刻まれて、神との関わりを目指して伸びる芽生えにつながっていったことでしょう。

 讃美歌でも信仰のあゆみを旅に重ねて歌う内容のものは決して少なくはありません。しかしその歌詞やメロディーの通りにすべてがわたしたちの目から見て「うまくいく」とは限りません。本来はぜひとも福音を分かち合いたかった少なからずの人々が、教会の交わりから離れていった記憶もやはり生々しいところです。使徒パウロの記した『ガラテヤの信徒への手紙』には初代教会の伝道のわざが使徒たちお互いの絆をただちに目に見える仕方で強めたとは言い難い様子がまざまざと描かれています。

 それではその旅が信仰の歩みであったと誰の目にも分かりやすく示されるのはいつのこととなるでしょうか。聖霊に押し出されて歩み、言葉や文化を超えてまかれた種が芽吹くと誰が知り得るのでしょうか。おそらくそれは、わたしたちが、時と場所とを問わず、イエス様がともにいてくださると感じるその時ではないでしょうか。時にそれは、愛する人の生涯の旅が全うされるというその時に訪れもするのではないかと思うのです。

 今年に入り、二月、三月、四月、五月と、コロナ禍の節目もはさんで、時に満ちた仕方で教会員を天に送り、ともに悼み、またご遺族のために深い慰めを祈りました。稲山がかつてお世話になり、ときに熱く激しい交わりをいただいた前任地の教会員も先日天に召されました。葬儀や告別式を司る牧師が申しあげるのもどうかもしれませんが、わたしは葬儀・告別式をベルトコンベア式に行う技量はとてもありません。その意味ではまことに要領を得ない、仕事のできない牧師だと呼ばれて当然です。けれどもお一人おひとりの方々は、それぞれ世にあって神の愛に活かされる喜び、言葉に表しがたい余韻を遺されて天に召されていきました。世にある生涯の中でいかなる事々があったとしても、わたしたちは召された事実を悼みながら胸に刻みます。イエス・キリストはそのたびに助け主なる聖霊を送ってくださると深く確信します。

 聖霊降臨の出来事が『使徒言行録』に記されて2000年近くの時が流れました。主なる神は今なお招かれた教会員、そして関わるすべての人々に、聖霊を注いでくださいます。それはいのちの力にあふれています。新しい出会いが、たとえ真夜中にパンを借りに来るという非常識極まりないと思える出来事であったとしても、必ずその出会いに感謝するときがやってきます。ほそぼそとしか信仰しか持ちえないと涙するときがあっても、そのほそぼそとした道のりをイエス・キリストはいのちの泉で満たしてくださります。信頼に満ちた落ち着きの中で聖霊降臨の日を祝いましょう。ほそぼそとした信仰とは、決して絶たれはしないキリストとの関わりを示しています。

2023年5月18日木曜日

2023年 5月21日(日) 礼拝 説教

  ー復活節第7主日礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「キリストに立ち返り、天を仰いで進む」 
稲山聖修牧師

聖書=『マタイによる福音書』28 章 16~20 節
(新約聖書 60 頁).

讃美= 301,158.543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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なお、ライブ中継がご覧になれない場合は、
説教動画の方をご覧頂きます様、お願い致します。

「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。
 

【説教要旨】
 マルコ・マタイ・ルカ各々の書き手集団によって編みあげられた福音書は、イエスをめぐる理解に共通点が多いことから、しばしば「共観福音書」と呼ばれます。イエスの生涯の描き方に共通点があり、観る(「観察」の「観」を用います)、則ちその理解に通じるところが多い、という意味です。しかしだからといって各々の福音書の内容がみな同じではありません。同じ家族でもそれぞれ顔に違いがあるように、この福音書にもそれぞれ個性というものがあります。福音書をもたらしたどの書き手集団も舐めるように『旧約聖書』を読んだ後に、救い主、メシアが歩んだ道を劇的に描いてまいります。

 本日扱うところの『マタイによる福音書』ではイエス・キリストのあゆみと並んで「ナザレのイエスの教え」に重きが置かれます。しかし弟子がその教えをすべて理解したとはどこにも記されておりません。むしろイエスの教えを理解できなかったからこそ、弟子たちはイエスが磔にされるというその土壇場でみな逃げ出していき、イエスを慕う女性が告げ知らせる復活の報せを聞いても受け容れられない者もおりました。弟子の数が多ければまだしも、本日の箇所では救い主を欺いたとされるイスカリオテのユダの自死の後に残った11人の弟子の中でさえ「疑う者もいた」と書き記します。死という絶望に勝利したイエスの姿を目のあたりにし、ひれ伏す中でさえ疑いの中に置かれていた者もいたというのです。

 『聖書』の言葉の中で最も単純でかつ最も難解なのがこの「復活」という出来事であるとされます。「切支丹禁令」の中で徳川幕府の儒学者から尋問された「伴天連」、パードレ、則ち宣教師でもある神父との対論の中でも「復活」は荒唐無稽であるとして退けられます。逆に申しあげれば、この「復活」という出来事を当事者として受けいれられるか否かが、その人をキリスト者であるかどうかを問う事柄であるとわたしたちは考え、また「あなたは復活を信じているのか」と問われもいたします。しかし本日の箇所で復活したイエス・キリストはそのような弟子の迷いはまるきり眼中にないかのように弟子に近寄り「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての者をわたしの弟子にしなさい」と命じます。弟子個々人の中にある疑いなど取るに足らないと言わんばかりです。それはなぜでしょうか。

 実はこのような「疑いの素通り」は、イエス・キリストのユーモアを示していると言われる場合があります。その場に立ち止まってくよくよ「本当にイエス様は復活されたのだろうか」と考える弟子の傍には、厳然として復活のイエス・キリストがともにいてくださります。疑いを否定さえせず、微笑みをたたえて「心配するなよ」とでも言うように傍にいてくださるのです。疑いとは所詮はわたしたちの内面の問題に過ぎません。その人自身の問題に過ぎません。しかしイエス・キリストがこの箇所で命じているのは「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とのまことにスケールの大きな世界への誘いです。この大きな志を伴う誘いに較べれば、わたしたちの疑いもまた限りある、いずれ克服される波風に過ぎません。むしろその波風もまた、イエス・キリストは人の悲しみや狼狽を分かちあい、キリスト自らに連なる交わりの契機として用います。だからこそ本日の箇所からは、『マタイによる福音書』の書き手集団が、イエス・キリストに思いを寄せている様子が分かるというものです。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。近・現代の日本文学は、神への疑いをあまりにも大げさに扱った結果、キリストに導くはずの福音書にいたる道に、躓きをもたらす砂利を備えてしまったように思います。けれども実際に福音書そのものに目を向ければ、どこにもそのような砂利道や余計な気苦労は記されていません。キリストは『マタイによる福音書』の終わりに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」と語ります。これは読み手へのメッセージでもあります。すでに本日の福音書のクリスマス物語、1章の後半でこのように記載されています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。この名は、『神はわたしたちとともにおられる』という意味である」。

 弟子の疑いに先んじて響く、この「インマヌエル」の宣言により締めくくられる『マタイによる福音書』。わたしたちは教会のわざ、こども園での働き、放課後等デイサービスでの勤務、各々の働きの場所、介護の現場、そして家族や親しい人との交わりの中で、あまりにもくよくよし過ぎてはいないだろうかと深く反省します。教会にある生き方にあっても、人と自分を較べてあれこれと呟き「立派な振る舞いのあの人に較べて自分は」と自分を責めがちです。けれども、それは人を顧みつつも神への信頼に欠くありかたなのかもしれません。どうすればよいか分からないとき、わたしたちはまず天を仰いでみましょう。そしてキリストに立ち返ってみましょう。本日は復活のキリストが40日間、弟子とともにいた後に昇天された出来事を記念する礼拝を献げます。キリストが自らの生き方を通して、父なる神自らの愛の力を注いでいるとの確信の中で、わたしたちも神の愛に目覚めるのです。

2023年5月11日木曜日

2023年 5月14日(日) 父母の日礼拝 メッセージ

ー復活節第6主日礼拝 ー
―父母の日礼拝―

時間:10時30分~

場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


メッセージ=栗山 明弓 氏
主題=「私の母とその薔薇」

聖書=『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ』
5章16~18節
  (新約聖書379ページ).

讃美=Ⅱ 136,Ⅱ 195.Ⅱ 144.

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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方法は、こちらのページをご覧ください。

なお、当日は「父母の日礼拝」につき
外部から奨励担当者をお招きするため、
牧師によるメッセージ収録動画はございません。

この礼拝ではピアノとヴァイオリンの演奏があります。
残念ながら現状のマイクの性能等により
礼拝の中継に一部不具合が生じる場合が想定されます。
あらかじめご容赦のほどよろしくお願い申しあげます。

2023年5月5日金曜日

2023年 5月7日(日) 礼拝 説教

ー復活節第5主日礼拝ー

時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂 


説教=「聖書の言葉に根をおろして暮らす」 
稲山聖修牧師

聖書=『ヨハネによる福音書』15 章 12~17 節
(新約聖書 199 頁).

讃美= 522, 280,543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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【説教要旨】
  「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に尊い愛はない」。本日の箇所でひときわ目を惹くのはこの言葉です。この言葉は『聖書』に記された愛の特性を示すとともに、その時代の権力者の都合に応じて用いられてきたという悲劇的な歴史をもっています。2001年にニューヨークで起きた米国同時多発テロの報復と位置づけてアメリカ軍がアフガニスタン戦争を始めたときに、当時のジョージ・ブッシュ・ジュニア大統領はこの言葉をメディアでの演説で用いて戦争の正当性を訴えかけました。そして今、ロシアのプーチン大統領も全く同じ箇所を用いてウクライナ戦争を正当化しています。これは歴史の皮肉というより他はありません。これは『聖書』の言葉の文脈が無視され、きりとられた結果に生じる悲劇を物語っています。この箇所がどのように解き明かされるかは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」という言葉。「わたしがあなたがたを愛したように」という箇所には、洗礼者ヨハネから清めの洗礼を授かり、群衆と呼ばれ、ローマ帝国からは人の数にも入れられなかった人々に仕え、そして力ある者や声ばかり大きい者の命令に従うどころか、却ってそのあり方を問いかけ、濡れ衣を着せられ、人々から見捨てられて十字架で処刑され、葬られて三日の後に復活するというイエス・キリストの生涯全てが集約されています。その生涯を視野に定めることにより、始めて「友のためにいのちを捨てること」の言葉の真意が響くというものです。

 それでは「友のためにいのちを捨てること」とはいったい何を示しているのでしょうか。続く箇所では「わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である」とあります。さらに「もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」とあります。そして本日の箇所の始めには「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とあります。実は「友のためにいのちを捨てること」よりも先に、この「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と記された言葉こそが「いのちを捨てる」という文章の意味を決定づける文章の流れとなっています。この流れを無視してしまいますと、冒頭のような自分勝手な解釈をもたらすことにつながります。

  「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。これは、時の権力者が呼ばわるような英雄的な、群を抜くような目立つ行為を示すのではありません。むしろ日毎の働きの中でひたすら目立たず、自己主張する機会すらなく、ただただ仕えていくというあり方を示します。組織にあって上から命令するのではなく、交わりの中で仕えていくというあり方です。おそらくこのようなあり方は、『新約聖書』の時代でいうところの奴隷のわざとして理解されていたことでしょう。罵詈雑言に耐えながら黙々と働いた人々によって、表向きはきらびやかな「ローマの平和」が維持されていました。しかしイエス・キリストはそのような人々をもはや僕、すなわち奴隷とは呼ばず、友と呼ぶ、というのです。これはキリストと弟子との関わりにも言えるでしょうし、わたしたちの交わりにも言えるでしょうし、そしてご家族にあっての交わりにも言えることでしょう。もちろん現在ではわたしたちは奴隷のような暮らしを強いられているわけではありません。だからこそ友としてただただ相手の主張に従うというのではなくて、時には耳の痛い事柄も相手に伝える必要があるかも知れません。まことの友情とはそのようなものです。そうであればこそ、お互いを赦しあっていくというありかたもまた「愛し合う」という言葉に集約され、現実味を帯びます。

  わたしたちが時として目を背けたくなるような残酷な人間模様が描かれる『旧約聖書』でさえ、主なる神の絶対的な言葉が響いているのにお気づきでしょうか。それは「死んではいけない」という言葉です。なぜあの楽園で智恵の実を食べてはいけなかったのか。それは端的に「死んではいけない」からです。楽園追放の最中にあって、神が追放される人間に皮の衣を作って着せられたとあるのも、人は「死んではいけない」からです。

 この二週間にわたって、わたしたちは大切な兄弟姉妹と呼ぶべき二名の方々を天に見送りました。その誰もが世にあって、ご家族も含めて、ともに暮した人々を心底から大切にされた方々でした。そして先立つ三月には大切なご伴侶を天に見送られた教会員である兄弟、「仲間」がおります。天に召された友、地にあってこの場に招かれた友。その全ての友が、イエス・キリストにあって固く結ばれています。それをしてイエス・キリストの交わりにある兄弟姉妹と、字義通りに言い表すことができます。わたしたちに血の繋がりはなく、置かれた場所も様々です。ライフヒストリーも様々ですが、大切なご家族を見送った方々の悲しみをともに分かち合うありかたが何よりであると『聖書』には記されています。聖書に根を下ろして暮すというありかたが示されています。