2021年9月29日水曜日

2021年10月3日(日) 説教(この日より、対面礼拝を再開します。自宅礼拝用の要旨・動画等も掲載しています。)

 ー聖霊降臨節第20主日礼拝ー


時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂

  

説教:「いちじくの実りを待つ」
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』21章18~32節

讃美歌:312(1.2), 234A(1.3), 543.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

 最近ではカーナビゲーションはおろか、スマートフォンさえあれば、目的地への道のりを人工衛星との関わりで人工知能が行き先まで導いてくれます。地図を事前に調べてから訪ねるよりも、はるかに便利になりました。もちろん、その分わたしたちが頭を使わなくなっているのには注意しなくてはなりません。それでは「全ての道はローマに通ず」と言われるほど占領下に道路が整備されたローマ帝国の場合は、果たしていかがなものだったでしょうか。
 確かに「全ての道はローマに通ず」との言葉はそのものとしては偽りではなかったことでしょう。しかしローマから離れるほど石造りの堅牢な道は少なくなり、狭い路地に入ればいつの間にかその路地すらも見えなくなってしまう。またはうっかり道を間違えた旅人は深い森に入り込むや、地図のない道をあてどもなくさまようほかなかったでしょう。転じて新約聖書に描かれる世界には「カイザリア」という町が一箇所ならず登場してまいります。カイザリアには治安維持のために駐留するローマ帝国の軍隊の宿舎が設営されて事実上の基地となり、時に総督も宿をとりました。
 土木建築に優れた手腕を発揮し、物流を進めたローマ帝国の働きは、結果として地域共同体の自給体制を破壊し、ローマ帝国に流通する貨幣を用いなければ暮らしていけないしくみを造りあげてまいります。道行く貧しい旅人に加え、それまでの暮らしの基盤を失い住まいを失った人々が求めたのは何だったというのでしょうか。
 端的にいえばそれは食糧です。飢えに苛まれれば鈍するという単なる暮らしの問題には留まらず、栄養状態のよい状態の場合には罹患しない病にも冒されます。衛生面の問題だけでなく、追い詰められた人々はローマ帝国に抗議し、絶望的な反乱活動に及びます。それはローマ帝国の支配からの独立運動にもつながりかねません。イエス・キリストの時代が決して穏やかな時代ではなかったことは、『使徒言行録』で、後の使徒パウロの師匠にあたるユダヤ教の律法学者ガマリエルが証言する通りです。「イスラエルの人たち、あの者たちの取り扱いは慎重にしなさい。以前にもテウダが、自分が何か偉い者のように言って立ち上がり、その数400人くらいの男が彼に従ったことがあった。彼は殺され、従っていた者は皆散らされて、跡形もなくなった。その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた」。「住民登録の時」とは、マリアとヨセフがベツレヘムを目指して旅を続けていたその時と重なります。
 そのような諍いを宥めるかのように街道筋に植えられていったのがいちじくでした。その広い葉は強い日差しに体力を奪われた旅人や家を失った人が安らぎを得る木陰を作り、その実は応急措置として栄養価のある実を提供します。少なくともローマ帝国は、このいちじくの木を象徴的に用いて、貧しさに苦しむ人々を忘れてはいないとメッセージを発信しようとしたのです。
 本日の箇所で人の子イエスは「空腹を覚えられた」とあります。自らを貧困層に重ねるのです。そしていちじくの木を見て近寄りますが葉のほかには何もありませんでした。「今から後いつまでも、お前には実がならないように」。ローマ帝国の貧困救済の象徴を根底から否定してしまいます。しかしそれは単なる否定や抗議には留まりません。戸惑う弟子への答えには「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起きたことができるばかりではなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛びこめ』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。これは単に信じる者は救われるというような安直な言葉ではなくて、食うに事欠く人々と同じところに身を置いたイエス・キリストが、人々が本当のところ何を求めているのかを語る中で用いられています。わたしたちはこの「いちじくの物語」がローマ帝国の物語ではなく、福音書の物語として編まれているところを心に刻みましょう。「天地創造の物語」では、人はいちじくの葉でもって自らの最も弱いところを隠し、守るために用いました。『新約聖書』では社会の最底辺で生きる人々を守るために用います。その実は食うや食わずの人々に手をさしのべる教会の働きをも示しています。教会はどのような時と場所にあっても「交わり」、則ち、人とのつながりを神への祈りに重ねる役割を担っています。イエス・キリストを通して授けられた信仰の実りとしてのいちじくは世の混乱を養いとして必ず実ります。それを分かちあい、楽しむ時を待ちつつ、キリストに示された道を今・この時代にあってともに歩んでまいりましょう。対面式礼拝再開の喜びを味わいながら。

2021年9月22日水曜日

2021年9月26日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。
教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。
(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)
※なお、10月3日(日)から対面式礼拝を再開します。

ー聖霊降臨節第19主日礼拝ー
説教:「人と較べずに生きていきなさい」
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』20章1〜16節
讃美歌:517,Ⅱ189, 544

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

 筋萎縮性側索硬化症。運動神経が次第に衰えていく難病・ALSの患者さんが舌を動かせなくなったとき、意思疎通のために用いるツールに視線入力装置があります。日本の場合、平仮名が五十音順に並んだ透明のパネルを見つめると、その視線をコンピューターのカメラが感知し文字認識する機材です。

 しかしすでに1950年代にアナログ式でこの方法を用いて隣人との関わりを困難の中で見出し「瞬きの詩人」と呼ばれた人がいます。それは水野源三さんです。信州の佐久に暮らしていた幼い頃の遊び場といえば千曲川の畔でした。しかし9歳の頃、この地域を集団赤痢が襲い、源三さんは高熱で脳性麻痺を起こし目と耳の機能だけが残りました。献身的に支えた母の備えた聖書を読みキリスト者となり、18歳で洗礼を授かります。忘れられないのは1970年代に水野さんを特集した映像作品でした。女優の長岡輝子さんが水野さんのお宅を訪ねてお話をするという内容だったのですが、実はその懇談は伏線となっており、本来の訪問者は小学校二年生の男の子と妹さん、そしてご両親でした。男の子は虫かごをもってきて「カブトムシとったことがありますか」と言いながら無邪気に遊んでいるのですが、本来の目的は、ぜんそくの治療で服用していた吸入剤に含まれるステロイドと視力低下の副作用の因果関係がはっきりしていなかった当時、片眼を事実上失明、もう一方の眼も視力が低下していく経緯の中で、少年は正座をして水野さんに問うことにありました。「ぼくはどうすればよいですか」。おそらく事前にご両親が事情を伝えていたことなのでしょう。水野さんはしばらく考えた後に「人と較べずに生きていきなさい」と文字盤を通して笑顔で語りかけ、男の子は真剣に頷き、水野さんはウインクをするように微笑みかけるという場面。忘れられない場面です。

 「人と較べずに生きていきなさい」。モーセの十戒の最後の誡めで「妬んではならない」と記される内容を分かりやすく、かつ柔和に表現しています。わたしたちは学校教育から始まって絶えず自分と他人を較べて生きるレールを強いられます。入試や偏差値がそうでしょうし、その結果として進路が定められ、就職後の道もまた比較の中に暮らします。そこで深く傷ついてしまえば他者との関わりを拒絶して閉じこもるか、突如として起きる犯罪の温床にすらなり得ます。どのような基準であるにせよ、他者との比較があってそして自己評価を定める中に日本社会の病理があるように思います。親を選べないことが「親ガチャ」と呼ばれる中、死因の第一となるのが自死という現実があります。

 しかし聖書は全く異なる尺度をわたしたちに提示します。そのひとつが本日の「ぶどう園の労働者」の譬えです。ある家の主人がぶどう園の労働者を雇うために自ら夜明けに出かけ、一日1デナリオンの約束で人を求めます。日雇いの話です。そして9時頃でかけると何もせず広場にいる人々にも声をかけます。12時頃と午後3時頃出かけて同じようにし、夕方5時頃「だれも雇ってくれる人がいない」と意欲はあるものの無職のまま途方に暮れている人々に声をかけます。そして未明から働いた人にも、午後5時から雇用された人にも同じように1デナリオンを手間賃として支払います。手当のことですから当然日雇い労働者からは不満が出ます。しかし主人はこれは時給ではなく日当なのだ、この最後の者にもあなたと同じように支払いたい、わたしの気前の良さを妬むのか、という結びとなります。

 わたしたちがこの箇所から聴きとる事柄はあまりにも大きいのですが、ぶどう園での労働はまことに過酷な仕事です。日差しが強く乾燥していなければよいぶどうは実りませんし、たわわに実ったぶどうを傷つけずに収穫するのには手間が掛かります。ぶどうは葉もまたロールキャベツのように肉をつつむため野菜として重宝されますから決して雑には扱えません。実に手間の掛かる労働ではありますが、未明から働いた者にも、夕暮れに雇用された者にも同じ1デナリオン。「誰も雇ってくれないのです」と嘆く者をも、主人は自ら声をかけ、ブローカーを通さず呼び集めます。

 イエス・キリストのこの譬えには、効率主義を求めた結果、優生思想にたどり着いたわたしたちの社会のある人々に強烈な一撃を加えます。この箇所で言うところの1デナリオンとは、生活を保障する賃金に留まらず思い悩みも含めて「お前は今日一日よくやったのだ」という神の愛による絶対的ないのちの祝福があります。身体が思うように動かなくなったとしても、イエス・キリストは「お前には用はない」とは絶対に言いません。深い生きづらさを抱えて過ごすわたしがいたとしても、微笑みながら主イエスはその人を「人と較べないで」と抱きしめてくださるのです。


2021年9月15日水曜日

2021年9月19日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。

教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。

(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)

 -聖霊降臨節第18主日礼拝-

説教:「いつくしみ深き」
稲山聖修牧師

聖書:『マルコによる福音書』10章17〜22節(新約聖書81頁)
讃美歌 :121. 312. 542.
可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


ライブ中継のリンクは、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

 アフガニスタンのカブール空港に自衛隊機が到着したものの、現地人の関係者は全て置き去りにされて飛行機は飛び立ちました。その報せとともに思い出したのが旧外務省職員リトアニア・カウナス日本領事館領事代理の杉原千畝氏の「いのちのビザ」でした。杉原氏は当時の外交官の職務として旧ソ連やドイツ周辺国の情報収集にあたり、ソ連の動向を日本政府に連絡する諜報活動にも従事しました。しかし独ソ戦が始まり領事館にユダヤ人の難民が押しかけるようになると「夜、宵の始めに起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて息も絶えようとする幼な子の命のために、主に向かって両手をあげよ」(口語訳『哀歌』2章19節)、そして「神は愛だからです」(新共同訳『ヨハネの手紙Ⅰ』4章8節)を思い浮かべた伴侶の幸子さんの励ましもあり、ユダヤ人難民に2139枚以上のビザを発給しました。しかし三国同盟を危うくするとの日本政府の叱責を受け、ドイツの秘密警察の監視を受けながら、何とか外交官としての職務を遂行、1947年に帰国するも外務省から退職通告書を受け退官、戦後は辛酸を舐めた人物でした。アフガニスタンといえば中村哲医師を思い出しますが、お二人に共通するのは中村哲医師の場合「困っている人を放っておくことはできません」、杉原千畝氏は「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」というまことにシンプルな動機です。中村医師はバプテストの教会、杉原千畝氏はロシア正教会に連なるキリスト者でした。

 こうした言葉を踏まえながら本日の聖書を味わいますと言いようのないやるせなさを感じます。「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』というのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたはみな知っているはずだ」。すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめて慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい』。その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」。礼拝を赦されているわたしたちは、コロナ禍にあり苦境に立たされていても辛うじて暮らしを持ちこたえています。さらに話を広げれば、人によれば万一、病床使用率が逼迫する中で新型感染症に罹患したとしても入院加療が可能です。他方でコロナ関連の変死事案として警察が公表した方々は少なくとも122名にのぼります。開発途上国にあっては酸素さえ届かないという状況が慢性化しています。困っている人は今の世には数え切れないほどおられます。中村医師や杉原千畝氏の言葉は痛いほど分かるのです。けれどもわたしたちはこの金持ちの男性のようにイエス・キリストに従い得ない者として嘆くほかないのでしょうか。職場から戻り一息つこうとするとき、隣家から家族の間でのただならぬ物音を聞いてしまうとするならば、わたしたちは途方にくれるほかないというのでしょうか。

 しかし、仮にそうだとしても、わたしたちは本日の聖書の箇所で主イエスが「帰りなさい」と男性にひと言も語っていないところに注目すべきです。憤ってはいないところにも目を向けましょう。むしろ「慈しんで」との言葉でもって男性を見つめているその顔を仰ぎたいのです。悲しみながら立ち去ったその人との関わりをイエス・キリストは決して否定しません。それどころか「慈しみ」すなわち「神の愛」によって自らと堅く絆を結んでおられます。「永遠の命を受け継ぐ」とは、キリストの愛を前にして死をも恐れない道筋を備えられることでもありますが、あなたはその道から決して遠くないと、本日の聖書の箇所でイエス・キリストは嘆き悲しむ人に語りかけています。

 わたしたちは神さまから異なる賜物を与えられています。それはその人の個性やコンプレックスに留まらず、どこに暮らしているのか、どのような生き方を積み重ねてきたのか、他人に語れないデリケートな事柄をも含みます。また神さまは、他人と較べながら神の愛の証しを立てなさい、キリストに従いなさいとは申しません。「困っている人を放っておくことはできません」、「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」。そのように言える場所はわたしたちにも備えられています。自分探しから隣人の尊さに目覚めたとき、神の愛、即ち永遠の命を喜ぶのです。


2021年9月8日水曜日

2021年9月12日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。

教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。
(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)
 
 

説教:「<倍返し>からの解放」 
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』18章21〜35節
讃美歌:316.  461. 540

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。
※先ほど、教会のインターネット回線が繋がらなくなり、ライブ配信が出来なくなりましたが、途中からは配信出来るようになりました。
申し訳ありませんが、ご了承くださいますようお願い致します。

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【説教要旨】

「やられたらやり返す。倍返しだ」との決め台詞がブームとなった番組のキャッチフレーズを今になって思い出しますと、『聖書』を知る人であれば「人間は変わらないなあ」と溜息をつくのではないでしょうか。要するに『旧約聖書』が成立する前から、その舞台でやりとりされていた「同害復讐法」の焼き直しでしかありませんし、現在なおも超大国が戦争を始める際に口実とする常套句である「報復原理」の蒸し返しに過ぎません。くすぶる様々な不満を「倍返し」で発散する。今の混沌とした時代には仕方がないのかもしれません。しかし「倍返し」に夢中な大人の背中をこどもたちは観ていたのは事実です。けれどもわたしたちは「別の生き方」を知っています。

 別の生き方。その別の生き方が本日の福音書の箇所には記されます。弟子のペトロが主イエスに問うには「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか」。ペトロのこの問いには、人の子イエスが説いた赦しの教えへの驚きが刻まれています。返す言葉には「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。それは数としてそのように赦せというのではなく、徹底的に赦しなさいとのメッセージです。しかしまだこの教えはペトロの腑に落ちません。その態度を観てでしょうか、主イエスは次の譬えを語ります。10,000タラントンもの借金をした家来が王の前に引き出されてきます。返済ができないので王は伴侶と子、持ち物全てを売り払って借金を返すよう命じます。10,000タラントンとは概ね6,000億円ほどになります。その声に慄いた家来は「全部返しますから」と土下座をしてしきりに納期の延長を願います。その姿を憐れに感じた王はあろうことか借金を棒引きにするのです。ところがその帰り、借金を放免された家来は知人と出会います。この知り合いは100デナリオン、概ね100万円を家来から借り入れていました。しきりに返済を迫る家来に知人はやはり土下座をして赦しを乞います。しかし家来は返済を強要し、この知人を力づくで牢屋に入れてしまうのです。恐らく苦役を伴う刑罰を与えられるのでしょう。様子を見ていた仲間は心を深く痛めます。そして王に報告したところ怒りを招いて家来は知人と同じように牢屋に投げ込まれます。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全て帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も仲間を憐れむべきではないか」。こう言わずにはおれなかった王の悲しみはいかばかりだったでしょうか。そして6,000億円もの借入金を棒引きにしてもらいながら100万円の貸出金を免じることができなかった家来に誰が重なるというのでしょうか。この家来には伴侶もこどもも財産もありました。実に情けない姿ではあるのですが、よく考えてみれば家来は本来、当然味わうべき辛酸を舐めているだけの話です。ではあの必死の土下座は嘘だったのか。知人への貸出金を免じられなかった度量の狭い家来。この家来は今や牢屋に閉じ込められ、青空も陽の光も自由に仰ぐことはできません。しかしこの姿が「やられたらやり返せ、倍返しだ」との言葉の行着く先、報復原理の行着く先だとするならば、わたしたちはどのような生き方を選べばよいというのでしょうか。

 マハトマ・ガンジーという人は、「非暴力不服従」というあり方で民同士の争い激しかったインドをまとめ、その独立を大英帝国から克ちとりました。そしてその生き方はキング牧師の公民権運動へとつながり、今なお暴力のあふれる街で「倍返し」の土台に立たない意志表示の力を失ってはいません。他方でわたしたちはひょっとしたらイエス・キリストの譬えでいうところの暗い牢屋に閉じ込められてはいないでしょうか。報復原理は人の器を狭くし、自由を奪い、せっかく芽生えた可能性を台無しにします。そこには相手を尊ぶあり方は見いだせません。もちろん暴力から逃れるためのあらゆる手段を放棄してはいけません。しかしながら、そうできなかった自分を責める必要もありません。わたしたちは家来の借金を棒引きにした王の振るまいを深く心に刻めばよいのです。王は自由です。それは天に宝を積むことであり、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積む」という、パウロが「悪に屈せず、善をもって悪に勝つ」という、混沌とした世の土俵には決して立たない、万軍の主に守られたあり方でもあります。緊急事態宣言が幾度も延長され、人の心荒む世です。それでもわたしたちはイエス・キリストを通して神から赦された者としての歩みを見失わずに、絶えず喜びをもって歩みを重ねたいと願います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことについて感謝しなさい」。素直に喜べないから、素直には祈れないから、素直に感謝できないから、ともにわたしたちはイエス・キリストに全幅の信頼をおきましょう。

2021年9月1日水曜日

2021年9月5日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日の礼拝配信についてもお知らせしています。)

緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。
教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。
(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)
 

説教:「呼び声に従う決断」 稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』 18章10~20節
讃美歌:294 399 542

可能な方は讃美歌をご用意ください。ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ配信を致します。


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【説教要旨】

 『新約聖書』が描く世界で羊たちはどのように飼われていたか。今日のように品種改良されていない家畜は、牧童の言葉に必ずしも従順ではなかったかも知れません。けれどもいざというときには、つきっきりで世話をする羊飼いの声を聞き分け集まってくるということは充分あり得ることでした。それだけではありません。『新約聖書』の世界では今で言うところのアラビア数字はまだ発明されておりません。また実質的にはデスクワークとはほど遠いところで汗を流す羊飼いたちに数を数えるという習慣があったかどうか。もちろんそれは指折り数えてという意味ではあったかもしれませんが、緻密な計算の術を学ぶ機会があったかどうかは分かりません。そのような中で百匹の羊と関わっていたと申します。すなわち、羊一匹いっぴきの個体差を見抜いて名をつけ、そしてその名を呼ぶことで、羊を飼育していたというのです。この境地までに達しますともはや飼育するという枠を超えて「ともに暮らす」としか表現できません。一匹いっぴきの顔つきや表情、毛艶や年齢や声の調子を見極めて健康状態を確かめながら養い続けます。牧童すなわち羊飼いには一匹も九九匹も変わらない、名のある存在です。ですから迷い出た一匹がいれば他の九九匹と同じように探し求めますが、見つけ出せばやはり他の九九匹の羊と同じような喜びに包まれます。小さな者の一匹でもいなくなってしまうのを羊飼いが喜ばないのと同じように神は一人でも滅びるのをお喜びにならないという譬え話です。この譬え話を土台にして次のメッセージを主イエス・キリストは語ります。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。兄弟に対する罪。これは一体何のことだというのでしょうか。具体的に福音書は語りませんが、わたしたちが『旧約聖書』の物語で思い浮かぶのは兄カインと弟アベルの争いです。これは『創世記』4章に記されます。兄カインの献げ物を神は顧みず、神は弟アベルの献げものを受け入れました。その結果カインはアベルに対して怒りを激しく燃やしついには殺害に及んでしまいます。『聖書』の物語全体で「罪」という言葉が初めて用いられますのはこの箇所。ですから『聖書』で言うところの罪とは仏教でいうところの業(ごう)や因果として直ちに翻訳はできません。それは現行罪、つまりまずは実際に犯した過ちとなります。そしてそのような過ちを犯した者には第一には当事者だけのところで忠告しなさいと語ります。どちらにも恥を欠かせないためです。それでも駄目なら二名から三名、それでも駄目なら教会と忠告が行われ、それでも駄目ならば「異邦人か徴税人と同様に扱え」というのです。

 さてこの声に疑問を覚えた方はおられないでしょうか。「異邦人か徴税人と同様に扱え」。確かに異邦人も徴税人も古代ユダヤ教ではその社会から排除されていた人々ではありましたが、その扱いがそのまま初代教会に持ち込まれるとは、結局のところ異邦人への救い、徴税人への救いの物語は意味を失ってしまうのではないだろうか、台無しにしてしまうのではないかとドキドキします。しかし職業としての徴税人の役割が『福音書』では論じられはしませんし、異邦人の説明が辞書のように記されているのでもありません。いずれもイエス・キリストと出会ったのは異邦人という、ユダヤ人ではない「人々」、徴税人という職業を生業とする「人物」であり「人格」です。異邦人にも人物像固有の掘りさげがあり、徴税人にもなまえがあります。イエス・キリストと出会うのは肩書きや職業ではなく人物なのです。この点をを踏まえますと19節以降の文が実に豊かな広がりをもつにいたります。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人また三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。教会に芽生えてしまった胸痛む事柄も、心を一つにして祈るなら神はその痛みを癒やしてくださいます。コロナ禍の中でどうしてよいのか見極めがたいところに置かれるのであれば、どのように小さな交わりであったとしても、主なる神は必ず教会にいのちの力を吹き込んでくださいます。そしてどのような羊も置き去りにしない力を、交わりの特性を通して備えてくださるのです。

 本日から新しい月を迎えます。暦はすでに秋を数えます。しかしその一方で緊急事態宣言解除の見込みは相変わらず不透明ではあります。ただし、わたしたちはその不安を主なる神に委ねて、幸いにも日々の働きに向き合うことができます。主イエスはわたしたちの名を呼んでくださる。その原点から、2021年の残り三分の一を始めましょう。