ー聖霊降臨節第20主日礼拝ー
時間:10時30分~
場所:泉北ニュータウン教会礼拝堂
稲山聖修牧師
ー聖霊降臨節第20主日礼拝ー
緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。
(ページの下に、礼拝配信のリンクを掲載しています。)
-聖霊降臨節第18主日礼拝-
説教:「いつくしみ深き」アフガニスタンのカブール空港に自衛隊機が到着したものの、現地人の関係者は全て置き去りにされて飛行機は飛び立ちました。その報せとともに思い出したのが旧外務省職員リトアニア・カウナス日本領事館領事代理の杉原千畝氏の「いのちのビザ」でした。杉原氏は当時の外交官の職務として旧ソ連やドイツ周辺国の情報収集にあたり、ソ連の動向を日本政府に連絡する諜報活動にも従事しました。しかし独ソ戦が始まり領事館にユダヤ人の難民が押しかけるようになると「夜、宵の始めに起きて叫べ。主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。町のかどで、飢えて息も絶えようとする幼な子の命のために、主に向かって両手をあげよ」(口語訳『哀歌』2章19節)、そして「神は愛だからです」(新共同訳『ヨハネの手紙Ⅰ』4章8節)を思い浮かべた伴侶の幸子さんの励ましもあり、ユダヤ人難民に2139枚以上のビザを発給しました。しかし三国同盟を危うくするとの日本政府の叱責を受け、ドイツの秘密警察の監視を受けながら、何とか外交官としての職務を遂行、1947年に帰国するも外務省から退職通告書を受け退官、戦後は辛酸を舐めた人物でした。アフガニスタンといえば中村哲医師を思い出しますが、お二人に共通するのは中村哲医師の場合「困っている人を放っておくことはできません」、杉原千畝氏は「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」というまことにシンプルな動機です。中村医師はバプテストの教会、杉原千畝氏はロシア正教会に連なるキリスト者でした。
こうした言葉を踏まえながら本日の聖書を味わいますと言いようのないやるせなさを感じます。「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』というのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたはみな知っているはずだ」。すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめて慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に宝を積むことになる。それから、わたしに従いなさい』。その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」。礼拝を赦されているわたしたちは、コロナ禍にあり苦境に立たされていても辛うじて暮らしを持ちこたえています。さらに話を広げれば、人によれば万一、病床使用率が逼迫する中で新型感染症に罹患したとしても入院加療が可能です。他方でコロナ関連の変死事案として警察が公表した方々は少なくとも122名にのぼります。開発途上国にあっては酸素さえ届かないという状況が慢性化しています。困っている人は今の世には数え切れないほどおられます。中村医師や杉原千畝氏の言葉は痛いほど分かるのです。けれどもわたしたちはこの金持ちの男性のようにイエス・キリストに従い得ない者として嘆くほかないのでしょうか。職場から戻り一息つこうとするとき、隣家から家族の間でのただならぬ物音を聞いてしまうとするならば、わたしたちは途方にくれるほかないというのでしょうか。
しかし、仮にそうだとしても、わたしたちは本日の聖書の箇所で主イエスが「帰りなさい」と男性にひと言も語っていないところに注目すべきです。憤ってはいないところにも目を向けましょう。むしろ「慈しんで」との言葉でもって男性を見つめているその顔を仰ぎたいのです。悲しみながら立ち去ったその人との関わりをイエス・キリストは決して否定しません。それどころか「慈しみ」すなわち「神の愛」によって自らと堅く絆を結んでおられます。「永遠の命を受け継ぐ」とは、キリストの愛を前にして死をも恐れない道筋を備えられることでもありますが、あなたはその道から決して遠くないと、本日の聖書の箇所でイエス・キリストは嘆き悲しむ人に語りかけています。
わたしたちは神さまから異なる賜物を与えられています。それはその人の個性やコンプレックスに留まらず、どこに暮らしているのか、どのような生き方を積み重ねてきたのか、他人に語れないデリケートな事柄をも含みます。また神さまは、他人と較べながら神の愛の証しを立てなさい、キリストに従いなさいとは申しません。「困っている人を放っておくことはできません」、「大したことをしたわけではない。当然の事をしただけです」。そのように言える場所はわたしたちにも備えられています。自分探しから隣人の尊さに目覚めたとき、神の愛、即ち永遠の命を喜ぶのです。
緊急事態宣言が大阪府下に発令されています。
【説教要旨】
「やられたらやり返す。倍返しだ」との決め台詞がブームとなった番組のキャッチフレーズを今になって思い出しますと、『聖書』を知る人であれば「人間は変わらないなあ」と溜息をつくのではないでしょうか。要するに『旧約聖書』が成立する前から、その舞台でやりとりされていた「同害復讐法」の焼き直しでしかありませんし、現在なおも超大国が戦争を始める際に口実とする常套句である「報復原理」の蒸し返しに過ぎません。くすぶる様々な不満を「倍返し」で発散する。今の混沌とした時代には仕方がないのかもしれません。しかし「倍返し」に夢中な大人の背中をこどもたちは観ていたのは事実です。けれどもわたしたちは「別の生き方」を知っています。【説教要旨】
『新約聖書』が描く世界で羊たちはどのように飼われていたか。今日のように品種改良されていない家畜は、牧童の言葉に必ずしも従順ではなかったかも知れません。けれどもいざというときには、つきっきりで世話をする羊飼いの声を聞き分け集まってくるということは充分あり得ることでした。それだけではありません。『新約聖書』の世界では今で言うところのアラビア数字はまだ発明されておりません。また実質的にはデスクワークとはほど遠いところで汗を流す羊飼いたちに数を数えるという習慣があったかどうか。もちろんそれは指折り数えてという意味ではあったかもしれませんが、緻密な計算の術を学ぶ機会があったかどうかは分かりません。そのような中で百匹の羊と関わっていたと申します。すなわち、羊一匹いっぴきの個体差を見抜いて名をつけ、そしてその名を呼ぶことで、羊を飼育していたというのです。この境地までに達しますともはや飼育するという枠を超えて「ともに暮らす」としか表現できません。一匹いっぴきの顔つきや表情、毛艶や年齢や声の調子を見極めて健康状態を確かめながら養い続けます。牧童すなわち羊飼いには一匹も九九匹も変わらない、名のある存在です。ですから迷い出た一匹がいれば他の九九匹と同じように探し求めますが、見つけ出せばやはり他の九九匹の羊と同じような喜びに包まれます。小さな者の一匹でもいなくなってしまうのを羊飼いが喜ばないのと同じように神は一人でも滅びるのをお喜びにならないという譬え話です。この譬え話を土台にして次のメッセージを主イエス・キリストは語ります。