教会員のみなさまにおかれましては、在宅礼拝をお願いします。
動画は2種類
【説教要旨】
ガラスパール、あるいはイミテーションパールという製品をお聞きになった方はおられるでしょうか。乳白色のガラス玉に魚から抽出したカルシウム等を吹きつけもので、大正時代以降に仕あがりとともに経済性を兼ねた商品として南大阪地方の産業を担っていたと申します。当時の庶民からすれば汗がつけば光沢が失われてしまう天然の真珠よりも扱いやすかったのかもしれません。実用性を重んじる気風が窺えるというものです。
しかし逆に言えばそれは真珠の扱いがどれほど難しいかを物語ってもいます。「宝石」という名で呼ばれながら、入り込んだ異物から身を守るためにアコヤガイが自らの貝殻の成分でもって身を守るために包み込むというわざの中でもたらされる「生体鉱物(バイオミネラル)」と申します。養殖の真珠の場合、アコヤガイは身体の中に人工的に異物を入れることになり、その結果多くの貝が死んでしまうという現状があります。その中で残った貝の中から取り出されるのがいわゆる「真珠」となります。結晶ができてもできなくても貝が自らのいのちと引き換えにして一粒の真珠を送り出すのには変わりありません。
本日の聖書の箇所では「天の国」すなわち「神の愛がわたしたちの世を支配するとき」を次のように譬えます。宝が畑に隠されているとき、見つけた人はそのまま隠しておき、財産をすべて売り払い畑ごと買っていくというあり方。一見ずる賢くも思えるし、実に聡明な、クレバーなあり方としても受けとめられます。しかし自分の財産をすべて売り払うわけですから「あれもこれも」ではなく「のるかそるか」の覚悟が求められます。一度交わした契約は元に戻すことはできないからです。そして先ほどお話しした真珠のお話です。真珠の養殖は明治期に日本人が世界で始めて成功したものですから、この時代の真珠とはこれすべてみな天然。アコヤガイを見つけること自体とても難しく、その中でも品質がデリケートであるところの高価な真珠は手に入れるだけでなく、その後の手入れもまた重要になってまいります。そしてお話のまとめとしては漁師の譬え。様子を見るとどうやら地引き網のようです。網の中にいる獲物の中でよいものは器の中に、そして悪いものは仕分けされていきます。おそらく毒性があったり傷みやすく口にできない生きものもその中にはいたはずです。そしてこの三つの譬えを経た上で、世の終わりに天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃えさかる炉の中に投げ込むというわけです。
ただわたしたちが注意しなくてはならないのは、先週お話しした「毒麦の譬え」と併せて本日の箇所に耳を傾けるべきであります。繰り返しますが、世にある人間の正義とは人の数ほど、星の数ほどあります。その正義をぶつけ合わせることを、イエス・キリストはけしかけてはいません。ある信仰共同体、ある教会に属する者が全て網の中にいたよい魚であるはずがありません。そこには毒針をもっていたり鋭い歯をもっていたりする魚もいるかもしれません。しかしそれは決して焼かれていく毒麦ではなく調理の仕方によっては実に豊かな滋養を病床にある者にもたらすかもしれないのです。また目利きの商人の見つけた高価な真珠一粒よりもさらに気品漂う真珠が別のところにあるかも知れません。隠しておいた宝も、値打ちの分からない人に掘り返されて何日も宝を見つけた人は泥まみれになって探し続けなくてはなりません。どこにあるのか。これはわたしたちには隠されています。けれどもそれは必ず見つかるものであり、探し続けるその最中にあって当事者一人ひとりの希望にすらなり得ます。決してそれは高尚な理想というものではなくて、この世の欲とない交ぜになっているものかもしれません。しかし、それは探し続ける者の志を決して曲げるものではありません。畑に隠された宝も、気高く値の高い真珠も、選りすぐりの魚も、わたしたちのいのちと不可分ではないからです。決していのちを粗末にするものではないからです。
わたしたちは神の前にあっては、むしろわたしたち自らが泥まみれでありながらもイエス・キリストが汗だくになって探してくださる宝であり、アコヤガイが自分のいのちと引き換えにもたらす繊細な真珠であり、見た目には確かに癖があるかもしれないけれども、重篤な病の床にある人の養いとなる魚になり得る尊さを秘めているのではないのでしょうか。その尊さを大切にしながら、わたしたちの隣にいる人のいのちの輝きに感じ入るとするならば、それは他ならないイエス・キリストのわざであります。偏った政治の中で見失いがちないのちの主キリストの手に包まれたとき、わたしたちはどのようなところにあったとしても気高い輝きを放ち始めるのであります。祈りましょう。