8月1日(日)の礼拝につきましては、
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当日、対面式の礼拝と、礼拝のライブ中継を致します。
よろしくお願いします。
説教:「招かれたのは誰か」
稲山聖修牧師
聖書:『マタイによる福音書』9章9~13節
説教:「仕える者のための奉仕」
稲山聖修牧師可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。
【説教要旨】
「ローマの平和」。それはローマ帝国が卓越した軍事力で地中海を囲む全域にもたらした平和であり、今日にいたるまでそのような広域国家をわたしたちは見たことがありません。地中海を内海としてとりこんだ国が現れたのは有史以来、『新約聖書』の舞台となった時代が初めてでした。それを可能にしたのは他ならない兵士たちの足でした。「歩けない兵士が何の役に立つのか」。その訓練の第一段階として5時間で32㎞、次は12時間で64㎞、甲冑を着て5時間32㎞の徒歩があったと申します。第二段階は木刀による訓練、槍投げとその受けとめ、障害物訓練を武装フル装備で行い、仕上げに部隊の陣構えの変化を叩き込む日々を送っていました。「歩けない兵士が何の役に立つのか」。あるローマ帝国の将軍の言葉が兵士に求められる資質のすべてを示しています。
そのようなローマ帝国の軍隊で、表向きにはあってはならない物語が本日の箇所で描かれます。「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」。カファルナウムからそれほど遠くないところにはフィリポ・カイザリアという街があります。「カイザリア」と名乗る街には必ずローマ帝国の駐屯地があります。その駐屯地と関係があったのでしょうか、ローマ帝国の百人隊長がイエスに乞い願ったというのです。軍人は支配する側の立場、人の子イエスは人としては支配される側に立っています。大局的な視点に立てば、ローマ軍は武力による侵略者であり、人の子イエスを含むその地の人々との間には歴然とした関係性が生じています。軍人であるからには力を顕示して、統治が可能なように押さえつけていなくてはなりません。百人隊長はその立場を棚上げして人の子イエスのもとに助けを乞い願うという、本来の立場としてはあってはならない振舞いに及んでいます。ですから「わたしが行って、いやしてあげよう」という申し出を感謝しながらも辞退しなくてはなりません。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言だけおっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。一見しますとこのやりとりの中、百人隊長は自分の権限を人の子イエスに誇示しているようにも思えます。確かにうわべではそのように見えます。しかしこの下級将校、参謀本部付ではなく数多の戦場に赴いたこの下級将校は、自分が率いる部下のいのちに関する全責任を担っていると自覚しているのです。自ら手柄を立てるより、一人の兵士とてともに生きて帰らねばならないとの意志と使命感に満ちています。だからこそ中風に罹患した自らの部下、すなわち今日でいえば、度重なる行軍のせいもあったのでしょう、脳の血管障害を起こして寝たきりになってしまった部下のため、「歩けず何の役にも立たなくなった」部下のため、自分のいのちを顧みずにイエス・キリストに懇願しているのです。イエス・キリストは自分の申し出を断ったからと言って、その願いを却下したでしょうか。決してそのようには接しませんでした。
「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天のアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。イスラエルの民と異邦人との関係の逆転現象が、この負い目に圧し潰されそうな百人隊長との出会いを通して語られます。百人隊長が身体を思うように動かせなくなってしまった部下に、献身的に仕えている事実を、キリスト自ら見抜いておられるのです。『律法』に記された誡めは、身体が思うように動かせて始めて守ることが可能です。それが転じて誡めに執着するだけの人々は自らの救済にのみこだわり、他者の救いに目が届きません。転じて百人隊長の願いは実にシンプルです。自らの地位や手柄より僕の回復を選び、部下とともに生きて故郷に帰る道を望んでいるのです。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」。イエス・キリストのこの言葉は、僕の癒しだけを示しているのではありません。百人隊長のこれからの道、明日の道への祝福でもあると、果たしてわたしたちは気づいているでしょうか。
本日の礼拝では洗礼式が執り行われます。わたしたちが思いをともにしたいのは、主がその方をキリストを通して受け入れられるまでの道のりが、ご本人にとっても、わたしたちにとっても癒しと平安の道であり、希望の道であり、祝福の道であるという事実です。礼拝とは、そのような祝福のもとにあると確かめる神の御前に立つ交わりです。
-聖霊降臨節第8主日礼拝-
教会の交わりとは、そこでイエス・キリストの御名が尊ばれている交わりである限り、イエス・キリストを軸とした交わりが育まれる、癒しと支えと養いとなるところです。しかしモーセの「十戒」に「主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」とあるように、イエス・キリストの御名がみだりに用いられるところでは、その交わりはときに現状維持と自己弁護に終始することがあります。また本来は神に謙り、祈るはずの教会が、神との関わりになしに、各々の賜物をキリストとの関わりなしに「戦力」と称する場合があります。しかしそのような集団の蓋を開けてみれば、肩身の狭い思いをしている人がいたり、黙って去っていく人がいたり、装いのもとでの圧力、今ではそのような圧力をマウントと申しますが、これに疲れ果て、いつの間にいなくなる人々がいます。神の名を用いてさえ人は戦争を始めることができるように、キリストの名をみだりに用いて私的な思いを押し通そうとする傲慢さがあります。これは初代教会の時代から絶えず問われてきた課題でした。ただし、その場で見る限りでは、なかなかその課題が分かりませんから質が悪いといえば悪いのです。わたしたちはその場限りの状況しか分からず、あるいは消耗したり疲れたりしたくないあまり、つい見て見ぬふりをするのです。
人の子イエスが発する警報は、まず預言者を装う者に向けられます。預言者を装う者は実に心地よい言葉を語ります。聞く者が心地よくなる言葉を語りつつ言い寄ってきます。そして手をとり、聞く者をどこかへと連れていってしまいます。心地よい言葉には責任が伴いません。要するにそこで語られるのは偽りの癒しと平和であり、視野の狭い判断が広く共有され、人々は砕かれることなく行く当てもないところに連れていかれてしまいます。国の滅亡を経ての民の救いを説いたエレミヤは石を投げられ、滅亡など経なくても安全だと語ったハナンヤは民から受け入れられました。しかしアブラハムの神が立てた預言者はエレミヤだったのです。判断の先送り、現状維持を伴う安全神話に道を誤った人々のいかに多いことでしょうか。外見は羊であっても、中身は別ということが世には多々見受けられます。
さらにイエス・キリストが発する警報は、偽預言者だけに向けられるのではありません。「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。人の子イエスの語る「かの日」に叫ぶ人々の声は全てこれ己の業績の申告に留まり、したがってキリストに次のように告知されます。「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」。誰が救われるかは分からないからこそ、わたしたちはイエス・キリストに全て身を委ねていこうとするのです。その委ねるありかたの中で、初めてわたしたちはキリストに立つリアリズムを体得します。
『新約聖書』には『ヤコブの手紙』という書簡があります。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる人になってはいけません」と主にある交わりを諫めています。「信仰義認」を標榜するルターからは「藁の書簡」として軽んじられてはいましたが、その内容は決して侮れません。もともとはイエスが癒やし、慰めた奴隷や病人、徴税人、女性といった社会の最末端また排除されていた人々によって成り立っていた教会が、次第に交わりを広げ、奴隷の主人や徴税人の上司をも招くようになった結果、教会には経済的な格差をめぐる問題が持ち込まれてしまいます。ある人は用意された椅子に座り、ある人は足下に座るか立ったまま。献金は神に献げるのではなく納める、払うという誤解が広がる。その結果、先ほどの状況が生じたのです。諫める声は「舌」を制御できない、そして富に酔いしれている人々に対しても向けられます。「ご覧なさい。畑を借り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」。キリストを見つめる生き方が社会を変えるのではなく、この世の理屈が教会に無批判に持ち込まれたとき、病んだ教会の交わりがどのような集団に陥るのか。『ヤコブの手紙』は直截的に描きます。