2021年7月29日木曜日

2021年8月1日(日)の礼拝については、こちらのページに掲載しています。

8月1日(日)の礼拝につきましては、

こちらのページ←に掲載しております。

当日、対面式の礼拝と、礼拝のライブ中継を致します。

よろしくお願いします。


2021年7月22日木曜日

2021年7月25日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日10時半より、対面式の聖日礼拝をいたします。)

説教:「招かれたのは誰か」

稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』9章9~13節
(新約聖書15ページ)

讃美:333(1,4), 270(1,3), 二編171
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

諸事情により今朝の礼拝中継は休止いたします。ご視聴希望の方はメッセージ動画をご覧ください。新しい一週間が神様の祝福のもと始まりますように!

【説教要旨】
『マタイによる福音書』に登場するマタイという名の徴税人。福音書ではこのような同じ名前を持ちながらも別人として描かれる場面が少なくありません。徴税人といえば『ルカによる福音書』のザアカイが教会やキリスト教主義の学校では知られているかもしれませんが、いったいどのような職業だったのか。簡単に言えば「嫌われる仕事」でした。わたしたちの場合、税金は月ごとの手当から天引きされたり、または郵便局の窓口に納めにいく場合が殆ど。あくまでも公共の福祉という道筋で還元されて始めて税が本来の性格を伴うこととなります。

 しかし『新約聖書』に描かれる徴税人といえば、ローマ帝国の支配の末端、占領地域での税の取り立てを収税所だけでなく積極的に居宅訪問をして行なっていたと考えられます。クリスマス物語の冒頭にありますように、イエスの母マリアと父ヨセフは住民登録をするためベツレヘムを目指しますが、マタニティ姿の女性が長旅すること自体が危険極まりない旅路です。それを押してまで登録を要請された理由としては、登録されたデーターベースを用いてローマ帝国が税金を徴収する手はずになっており、逆に登録されなくては宿無しとしての処罰に甘んじなくてはならなかった可能性があります。徴税人にはそのような無宿者を探し出す役目もあったかもしれません。さらに徴税人の手当は税額に上乗せされ言い値で集められたと言いますから、金持ちの徴税人ほど権力を笠に着て同胞であるはずの住民から不当に取り立てていたのでしょう。ただの金銭欲だけではこのような仕業ができるはずもありません。同胞への何らかの恨みつらみがあってのことだったのではと思います。そこにローマ帝国がつけ込んで徴税の下請けをさせていたと考えます。占領国への反抗心を互いに憎み合わせることで分散するという手法です。

 しかし本日の箇所で徴税人マタイは主イエスの招きに素直に応じます。理由は記されませんが、マタイは「招く」というわざそのものに驚いたのかも知れません。お金を集める度ごとに罵声を浴びたとしても、それが何だと思えなくては徴税人の仕事はつとまりません。そのマタイが突き放されるのではなく、招きの声を聞いたのです。マタイの喜びが相当なものであったことは、その後の態度から分かります。あろうことかイエスは弟子とともにマタイに招かれて食卓につくのです。それだけでなく仲間の徴税人や「罪人」としてただ漠然と表現されるばかりの、その時代の地域生活共同体で人間扱いされなかった人々を集めて振る舞いを始めるのです。一見すればどこにでもありそうな、しかし当人また関係者からすれば説明のつかない、起こり難い出来事を書き手はのびのびと描きます。  しかしそのようなイエス・キリストの立ち振る舞い、またマタイの備えた食事の席に心ない言葉が水を差します。しかも質の悪いことにその言葉は直接イエスにではなく、弟子に向けられます。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。ともに食卓を囲むのかという疑問が呈せられるのです。実はこの問いかけは初代教会の中ですでに生じていた問題でもありました。『ヤコブの手紙』では、時が経ち教会の交わりが奴隷・女性・徴税人のような人々が主人・当時の一家の大黒柱・徴税人の組織の上司といった層の広がりと厚みを帯びてくる中で、キリストを中心とした交わりとは異なる雰囲気が教会に持ち込まれます。「立派な身なりの人」は特別席に招かれ、「貧しい者」は「そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」との分断が度々行われていました。当然教会の外での常識に根ざした倣いが持ち込まれます。つまりこのような分断された交わりの中で、奴隷と主人が食卓をともにするなど全く論外で「常識に欠けたもの」として見なされていくのです。しかしそのようなあり方に染まる教会を手紙の書き手は叱ります。それは書き手の個人的な義憤には基づいていません。「救い主イエスに真っ先に招かれたのはこの人々だ」とのメッセージがすでに共にされていたからです。『マタイによる福音書』にある徴税人マタイの物語にある漠然とした「罪人」は、もはやすでに単なる罪人ではありません。歪みや痛みを抱えながら、至らなさや生きづらさを抱えながら日々を歩むわたしたちの姿もまたそこには映し出されています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」。殻に堅く閉じこもり、自分は正しいと言い続けることの何と骨の折れることでしょうか。イエス様に無理矢理「あなたは正しい」と言ってもらうためにわたしたちは教会に集っているのではありません。条件を問わない「わたしに従いなさい」とのメッセージに惹かれ、そしてよろこびを覚えて、わたしたちもまた「招かれている」のです。

2021年7月16日金曜日

2021年7月18日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日10時半より、対面式の聖日礼拝をいたします。)

説教:「仕える者のための奉仕」

稲山聖修牧師
  

聖書:マタイによる福音書8章5~13節
(新約聖書13ページ)

讃美:301(1.3), 354(1.4), 二編171

可能な方は讃美歌をご用意ください。

ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。


動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ中継を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。
「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】

「ローマの平和」。それはローマ帝国が卓越した軍事力で地中海を囲む全域にもたらした平和であり、今日にいたるまでそのような広域国家をわたしたちは見たことがありません。地中海を内海としてとりこんだ国が現れたのは有史以来、『新約聖書』の舞台となった時代が初めてでした。それを可能にしたのは他ならない兵士たちの足でした。「歩けない兵士が何の役に立つのか」。その訓練の第一段階として5時間で32㎞、次は12時間で64㎞、甲冑を着て5時間32㎞の徒歩があったと申します。第二段階は木刀による訓練、槍投げとその受けとめ、障害物訓練を武装フル装備で行い、仕上げに部隊の陣構えの変化を叩き込む日々を送っていました。「歩けない兵士が何の役に立つのか」。あるローマ帝国の将軍の言葉が兵士に求められる資質のすべてを示しています。

 そのようなローマ帝国の軍隊で、表向きにはあってはならない物語が本日の箇所で描かれます。「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」。カファルナウムからそれほど遠くないところにはフィリポ・カイザリアという街があります。「カイザリア」と名乗る街には必ずローマ帝国の駐屯地があります。その駐屯地と関係があったのでしょうか、ローマ帝国の百人隊長がイエスに乞い願ったというのです。軍人は支配する側の立場、人の子イエスは人としては支配される側に立っています。大局的な視点に立てば、ローマ軍は武力による侵略者であり、人の子イエスを含むその地の人々との間には歴然とした関係性が生じています。軍人であるからには力を顕示して、統治が可能なように押さえつけていなくてはなりません。百人隊長はその立場を棚上げして人の子イエスのもとに助けを乞い願うという、本来の立場としてはあってはならない振舞いに及んでいます。ですから「わたしが行って、いやしてあげよう」という申し出を感謝しながらも辞退しなくてはなりません。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言だけおっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。一見しますとこのやりとりの中、百人隊長は自分の権限を人の子イエスに誇示しているようにも思えます。確かにうわべではそのように見えます。しかしこの下級将校、参謀本部付ではなく数多の戦場に赴いたこの下級将校は、自分が率いる部下のいのちに関する全責任を担っていると自覚しているのです。自ら手柄を立てるより、一人の兵士とてともに生きて帰らねばならないとの意志と使命感に満ちています。だからこそ中風に罹患した自らの部下、すなわち今日でいえば、度重なる行軍のせいもあったのでしょう、脳の血管障害を起こして寝たきりになってしまった部下のため、「歩けず何の役にも立たなくなった」部下のため、自分のいのちを顧みずにイエス・キリストに懇願しているのです。イエス・キリストは自分の申し出を断ったからと言って、その願いを却下したでしょうか。決してそのようには接しませんでした。

 「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天のアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。イスラエルの民と異邦人との関係の逆転現象が、この負い目に圧し潰されそうな百人隊長との出会いを通して語られます。百人隊長が身体を思うように動かせなくなってしまった部下に、献身的に仕えている事実を、キリスト自ら見抜いておられるのです。『律法』に記された誡めは、身体が思うように動かせて始めて守ることが可能です。それが転じて誡めに執着するだけの人々は自らの救済にのみこだわり、他者の救いに目が届きません。転じて百人隊長の願いは実にシンプルです。自らの地位や手柄より僕の回復を選び、部下とともに生きて故郷に帰る道を望んでいるのです。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」。イエス・キリストのこの言葉は、僕の癒しだけを示しているのではありません。百人隊長のこれからの道、明日の道への祝福でもあると、果たしてわたしたちは気づいているでしょうか。

 本日の礼拝では洗礼式が執り行われます。わたしたちが思いをともにしたいのは、主がその方をキリストを通して受け入れられるまでの道のりが、ご本人にとっても、わたしたちにとっても癒しと平安の道であり、希望の道であり、祝福の道であるという事実です。礼拝とは、そのような祝福のもとにあると確かめる神の御前に立つ交わりです。

2021年7月8日木曜日

2021年7月11日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日10時半より、対面式の聖日礼拝をいたします。)

 -聖霊降臨節第8主日礼拝-


説教:「装われたやさしさを見抜く神」
稲山聖修牧師

聖書:『マタイによる福音書』7章15~29節 
(新約聖書12ページ)

讃美:164(1,3), 494(1,3), 二編171
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

説教動画「こちら」←をクリック、
又はタップしてください。

なお、礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ中継を予定しておりましたが、

今日はYouTubeの関係でライブ配信が不可能になりました。

申し訳ありませんが、
今日は、メッセージ動画のみ配信いたします。

【説教要旨】

教会の交わりとは、そこでイエス・キリストの御名が尊ばれている交わりである限り、イエス・キリストを軸とした交わりが育まれる、癒しと支えと養いとなるところです。しかしモーセの「十戒」に「主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」とあるように、イエス・キリストの御名がみだりに用いられるところでは、その交わりはときに現状維持と自己弁護に終始することがあります。また本来は神に謙り、祈るはずの教会が、神との関わりになしに、各々の賜物をキリストとの関わりなしに「戦力」と称する場合があります。しかしそのような集団の蓋を開けてみれば、肩身の狭い思いをしている人がいたり、黙って去っていく人がいたり、装いのもとでの圧力、今ではそのような圧力をマウントと申しますが、これに疲れ果て、いつの間にいなくなる人々がいます。神の名を用いてさえ人は戦争を始めることができるように、キリストの名をみだりに用いて私的な思いを押し通そうとする傲慢さがあります。これは初代教会の時代から絶えず問われてきた課題でした。ただし、その場で見る限りでは、なかなかその課題が分かりませんから質が悪いといえば悪いのです。わたしたちはその場限りの状況しか分からず、あるいは消耗したり疲れたりしたくないあまり、つい見て見ぬふりをするのです。

人の子イエスが発する警報は、まず預言者を装う者に向けられます。預言者を装う者は実に心地よい言葉を語ります。聞く者が心地よくなる言葉を語りつつ言い寄ってきます。そして手をとり、聞く者をどこかへと連れていってしまいます。心地よい言葉には責任が伴いません。要するにそこで語られるのは偽りの癒しと平和であり、視野の狭い判断が広く共有され、人々は砕かれることなく行く当てもないところに連れていかれてしまいます。国の滅亡を経ての民の救いを説いたエレミヤは石を投げられ、滅亡など経なくても安全だと語ったハナンヤは民から受け入れられました。しかしアブラハムの神が立てた預言者はエレミヤだったのです。判断の先送り、現状維持を伴う安全神話に道を誤った人々のいかに多いことでしょうか。外見は羊であっても、中身は別ということが世には多々見受けられます。

さらにイエス・キリストが発する警報は、偽預言者だけに向けられるのではありません。「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。人の子イエスの語る「かの日」に叫ぶ人々の声は全てこれ己の業績の申告に留まり、したがってキリストに次のように告知されます。「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」。誰が救われるかは分からないからこそ、わたしたちはイエス・キリストに全て身を委ねていこうとするのです。その委ねるありかたの中で、初めてわたしたちはキリストに立つリアリズムを体得します。

『新約聖書』には『ヤコブの手紙』という書簡があります。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる人になってはいけません」と主にある交わりを諫めています。「信仰義認」を標榜するルターからは「藁の書簡」として軽んじられてはいましたが、その内容は決して侮れません。もともとはイエスが癒やし、慰めた奴隷や病人、徴税人、女性といった社会の最末端また排除されていた人々によって成り立っていた教会が、次第に交わりを広げ、奴隷の主人や徴税人の上司をも招くようになった結果、教会には経済的な格差をめぐる問題が持ち込まれてしまいます。ある人は用意された椅子に座り、ある人は足下に座るか立ったまま。献金は神に献げるのではなく納める、払うという誤解が広がる。その結果、先ほどの状況が生じたのです。諫める声は「舌」を制御できない、そして富に酔いしれている人々に対しても向けられます。「ご覧なさい。畑を借り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」。キリストを見つめる生き方が社会を変えるのではなく、この世の理屈が教会に無批判に持ち込まれたとき、病んだ教会の交わりがどのような集団に陥るのか。『ヤコブの手紙』は直截的に描きます。

 11年前の東日本大震災以降、わたしたちは多くの自然災害に直面してまいりましたが、現在、数々の災害は本当に天災だったのかとの指摘を聞きます。それは、知らないところで行われた、盛り土や不法投棄、安全性を確かめない開発の結果など、経済一本鎗の政策で進められてきた暮らしのしわ寄せを、無名の人々に押しつけた人災だとの指摘もあります。わたしたちもいつ「被災者」にならないとも限りません。しかし聖書はキリストにあって何をすべきかを示しています。「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈り、ともに御言葉に立ち返りましょう。


2021年7月1日木曜日

2021年7月4日(日) 説教(在宅礼拝用です。当日10時半より、対面式の聖日礼拝をいたします。)

「神が約束を果たすとき」  
説教:稲山聖修牧師  
聖書:『マタイによる福音書』7章1~14節 
(新約聖書11頁)

讃美:240(1,3), 392(1,4), 二編171.
可能な方は讃美歌をご用意ください。
ご用意できない方もお気持ちで讃美いたしましょう。

動画は2種類
(動画事前録画版、ライブ中継動画版)
ございます。

説教動画「こちら」←をクリック、
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礼拝当日、10時30分より
礼拝のライブ中継を致します。


ライブ中継のリンクは、
「こちら」←をクリック、
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「制限付きモードが有効になっているため再生できません」という旨の表示が出た場合は、YouTubeの制限付きモードを解除してください。
方法は、こちらのページをご覧ください。

【説教要旨】
イエス・キリストに病の癒しを求めてガリラヤ・デカポリス・エルサレム・ユダヤ・ヨルダン川の向こう岸からやってきた無名の人々。そしてその人々と寸分違わない姿の弟子たち。弟子たちだけでなく、その声は人々にも届いたことでしょう。それは人の子イエス自ら味わってきた苦難の中で授かった知恵であり、その知恵をイエスは惜しげもなく分かち合います。しかし人々や弟子たちの身体の具合も人の子イエスはご存じです。イエスに救いを求める人々は、日々の暮らしに汲々とするだけでなく、各々の職場や暮らしの現場で追い詰められています。決して日々の暮らしにゆとりがあったとは言いがたい人々です。それは弟子とて何ら変わるところはありません。

 追い詰められた暮らしが続けば、そこには歪んだ一生懸命さというものが生まれます。誰もその一生懸命さをあれこれ言うことはできません。けれどもその歪みは、言葉や行いによる暴力という仕方で周囲の人々に圧力をかけては傷つけます。傷つけられた人は涙を流すだけに留まらず、次第に心を頑なにし、外部との交わりと絶っていきます。「ひきこもり」という言葉が用いられるようになって久しいですが、この言葉に当てはまる欧米圏の言葉はなく「わびさび」と同じようにそのままの表記で用いられているとのことです。ファリサイ派や律法学者とは異なる頑なさがここに生まれますが、事態は追い詰められた暮らしの中での話ですから一層深刻です。追い詰められればどうしてもわたしたちは「自分たちは頑張っている」「これ以上何ができるのか」と言ってしまいますし、本来の自分が向き合うべき責任を別のところへと責任転嫁してしまう場合もあるからです。

 けれども人の子イエスは、そのような人たちを前にして、また同じ列から出た弟子を前にして次のように語ります。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」。ときに偽善者との厳しい言葉を用いながらも、神聖な言葉、真珠のような言葉を人々に伝えようとします。仮にその言葉が踏みにじられ、イエスさま自ら唸り声とともにかみつかれようとしてもです。それはイエス・キリストが、この無名の人々そして弟子たちが歪んでいるところ、欠けているところに少しでも伸び代を見いだしていたからではないでしょうか。「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。信頼しない人々には、このような言葉はかかりません。適当にあしらわれてご機嫌をとられて、気持ちよくされて帰らされるのが関の山です。決して諦めてはいけない。何を諦めてはいけないといえば、キリストを通して、まなざしを隣人に向けるのを諦めてはいけないというのです。人を裁けば不平や不満が出ます。それは人を決して育むことはありません。むしろ神さまに求めなさいというのです。人にしてもらいたいと不平をこぼすなら、あなたがたがまずそのことをしてあげなさいというのです。それが『律法』と『預言者』、すなわち『旧約聖書』に記された神の約束の完成だというのです。その約束の完成は、命に通じる門であり、実に狭いものであるにも拘わらず、わたしたちには決して閉ざされてはいないというのです。

 弟子を始めとした人々にはどのように聞こえたことでしょう。「自分には無理だ」との諦めがあったでしょうか。「そんなことは不可能だ」とのため息があったでしょうか。もちろん、そのような諦めやため息はきりがなかったに違いありません。けれどもだからこそ、イエス・キリストはわたしたちとともにいてくださっているのです。心身ともに病み疲れ果てているとき、身体を動かすのも人と話すのも嫌だという時があります。そのようなときにわたしたちは涙とともに祈ります。聖書の世界の祈りとは、単なる願かけではありません。神に向かって己の無力さや生きづらさを訴え、時には置かれた状況に嘆く声を伝えます。歪んだ一生懸命さの中にありながら、その歪みの原因も分からず、どうしてこうなったのかとひたすら訴え続けるのです。神さまはその声を必ずお聞き届けになります。そしてわたしたちに聖書の言葉を通して問いかけることでしょう。「あなたの言うことはよく分かった。気持ちも悲しみも存分に分かった。そしてこれからどうするのか」と。神さまから向けられる「そしてこれからどうするのか」という問い。牧師の考えでも、牧師からの問いかけでもなく、御言葉からの問いかけに耳を澄ませている中で「まだまだこれからだ」との思いが湧いてきます。神の愛の力が注がれている証拠です。神様の約束はそのように実現します。祈りましょう。